コンテンツへスキップ

紆余曲折ありつつ40歳を目前にオーストラリアで博士課程にチャレンジすることにした自分の体験に、正直、どれだけの普遍性があるのかは分からない。しかし、かつて僕がそうであったように、これから挑戦すべきかどうか悩んでいる人の参考に少しでもなれれば嬉しく思う。

ロシアからオーストラリアへ

自分が今、シドニーで博士課程に所属しているなんて大それたことは10年前、いや5年前にもとても想像がつかなかった。そもそも僕は、英語圏にも南半球にもまったく縁のない人生を歩んできた。大学は外国語学部ロシア語学科。大学2年の夏休みにロシアで3週間ほどの語学研修に参加したのがはじめての海外体験だった。その後、大学3年のとき1年間休学し、サンクトペテルブルク国立大学に語学留学をした。帰国後もアルバイトを掛け持ちして資金を稼いでは、長期休みの度にロシアとその周辺をフラフラとあてもなく旅をする大学生活だった。卒業後はロシアで生活したいと思って外務省在外公館派遣員制度に応募、モスクワにある在ロシア日本国大使館に2年間の職を得た。

そろそろ任期満了が視野に入ってきた頃、「ロシアにおける日本文化フェスティバル」という大型の日本文化紹介イベントがあった。それまで海外にばかり目が向いていたが、これがキッカケとなり日本文化の面白さに目覚めた。国際交流基金という組織の存在もその時に初めて知り興味を持った。ちょうど、僕が日本に帰国してすぐにロシア語専門枠で中途採用の募集があり、運良く潜り込むことに成功した。

というわけで、地域的にはロシアやヨーロッパ、分野的には舞台芸術に興味があって就職した組織だったので、入社4年ほどして突然シドニーへの転勤を命じられたときには心底驚いた。オーストラリアに関する知識もほぼゼロ。飛行機のチケットを受けとってはじめて東京からシドニーまで9時間もかかることを知って驚いたくらいだ。こうして30歳にして初めてオーストラリアの大地を踏むことになった。

Fig1. シドニー市街遠景。研究の合間の息抜きには少し足を伸ばして新鮮な空気を。

駐在員しながら修士にチャレンジ

着任したシドニー日本文化センターではオーストラリアの日本語教育を支援する仕事を担当することになった。慌ただしくも充実した毎日だったが、1年ほどして少し自分を客観視する余裕が出てくると、自らの底の浅さが痛感されるようになった。外国語学部出身であるので、もともと言語と言語教育には人一倍興味はある。しかし、これまでの限られた経験と知識を頼りに仕事をしていくだけでは、自分がすり減って無くなってしまうような気がした。もっと体系的なインプットが必要ではないか……。

ちょうどそんな風に思い悩んでいたとき、Open Universities Australiaという通信教育の宣伝が一面に描かれたバスが目の前を通り過ぎた1。いつかちゃんと勉強したいと思っていた応用言語学の修士課程に挑戦するチャンスなのかもしれない。とはいえ、なかなか思い切りがつかずしばらく逡巡していたが、働きながら博士号を取得した会社の大先輩のアドバイスで決心がついた。曰く、「重い荷物は片手でひとつだけ持つとバランスが取りづらい。でも、思い切って両手にひとつずつ持つことで上手くいくこともある。もし重すぎたら一旦おろして休憩すればよい」。はじめての英語での勉強、大量の課題。かなりしんどかったが、なんとかモナシュ大学が提供する1.5年のコースを3年かけて修了した。ひと回り成長した手応えのようなものを感じた。

実は、僕の言語学への憧れは大学学部生時代に遡る。副専攻として履修したいと思っていた。しかし、周囲の「言語学なんかやっても意味ない」「就職につながらない」などという意見に流されて諦めてしまった。その後悔がずっとどこかにあった。思い切って修士をやってみて実感したのは、「学び終わるまで、そこで何を学ぶことになるか、学び始める前の自分には分からない」ということだった。どんな分野であろうとワクワクする事を追求することで想像もしなかったブレイクスルーがあり、新しい景色が眼前に広がると今では確信している。


1 イギリスのThe Open Universityとは異なり、Open Universities Australia (https://www.open.edu.au)は単独の大学ではなく、様々な大学がオンラインコースを提供するポータル的な組織。学位は各大学から授与される。

そして、博士課程へ

その後、6年の長きに亘ったシドニーでの駐在員生活を終え再び日本に戻って働き始めた。しかし、オーストラリアの日本語教育に関する様々な疑問をもっと深く追求したいという思いが日々強くなっていった。ただ、40歳を目前にして約13年勤めた安定した仕事を手放す不安も大きかった。職場では中堅として、やりがいのある仕事が出来るようになっていたし、国際文化交流という刺激的な業務内容にも後ろ髪を引かれた。さらに、現実問題として博士号を取ったからといって就職口があるとも限らない。しかし、ここで学部生のときのように再び諦めたら一生後悔すると思い、最終的に次のステップに進む決断をした。

さて、留学を検討するにあたり、何をどこで勉強するかというのは重要な検討事項だろう。僕の場合は、すでに前職の経験から研究したいことはある程度決まっており、幸いなことにその分野で第一人者の先生と面識があった。さらに、ちょうどニューサウスウェールズ大学(以後、UNSW)で新たな奨学金のスキーム2が始まるというタイミングだったこともあり、それにチャレンジすることに目標を定め準備を進めた。

入学資格について。さきほど僕はオーストラリアの通信教育で修士号を取得したと書いたが、これは「コースワーク」という修士論文を書かず規定の科目を履修することで授与される修士号だった (Master by Coursework)。通常はこのコースワークだけでは博士課程進学の要件を満たさない3。他に、研究論文作成が中心となる修士課程もあり、Master by Research (MRes)やMaster of Philosophy (MPhil)と呼ばれる。マスターからはじめて途中でPhDにアップグレードするケースもある。

では、コースワークしかやっていない僕がどうして博士課程入学が認められたかというと、基本的には職歴換算だ。研究分野に関係がある仕事をしていたことに加え、短い実践報告ではあるが紀要に2本投稿していたことが幸いした。このように柔軟に対応してもらえる場合もあるので、簡単に諦めずに、まずはよく調べて、その上で希望の進学先に相談してみてはどうかと思う。オーストラリアの大学の門は拒むために閉ざされているのではなく、迎え入れるために広く開かれていると感じる。人種的にも言語的にも実に多様性があり、様々な人生経験を持った幅広い年齢の学生がいる。


2 Scientia PhD Scholarships (https://www.scientia.unsw.edu.au/scientia-phd-scholarships)。現在募集休止中。

3 ただし、コースワークでもリサーチ・プロジェクトでまとまった論文が課される場合、認められることもある。

オーストラリアの文系大学院生生活

Fig2. Faculty of Arts & Social Sciencesと満開のジャカランダ

もちろんどこの国でもそうだとは思うが、原則として授業がないオーストラリアの文系博士課程では、特に自己規律が求められるように思う。スーパーバイザーの指導の下、基本的に自分で粛々と研究を進めることになる。最初の1年目は文献調査を進めながら研究計画を練り上げることに費やされる。UNSWでは約1年が終了した時点でConfirmation of Candidatureという公開発表とパネルによる諮問があり、それをパスすることで晴れて博士候補生 (PhD Candidate)となる。それ以降は、年に1回、進捗状況確認のためレビューが行われるのみだ4。そんな調子であるので、自分で計画を立てて、着実に進めて行く必要があり、自己管理がとても重要になる。指導教官との面談の回数もひとそれぞれで、1ヶ月に1回は会うという学生もいれば、半年や1年に1回しか会わないというケースもある。自分から喰らい付いていく気概が必要だ。

博士課程では、もちろん博士論文というおそらく人生で一番大きな論文を書き上げるのが最大の山場ではあるが、試行錯誤も含めてトレーニングのプロセスだと感じる。ただでさえ大仕事である博士論文執筆。それに加えて母語ではない言葉で読み、書くという作業はとても時間がかかる。ワンパラグラフ書くのに何日も苦しむこともある。なんとか振り絞るように書いても、英文校閲が待っている。しかしそれはハンデであると同時に、深く考える糸口でもある。最終的には自分の研究力、つまり研究内容がしっかりしていて言いたいことがあることが大切になる。言語の問題を抜きにしても、研究は一筋縄では行かない。僕の場合はコロナ禍により、研究計画に大幅な変更が必要になった。もちろん落ち込むし、本当に自分にやりきれるのかと不安になることもしばしばだ。コロナは特殊な例かもしれないが、平時であっても研究は計画どおりに行くとは限らない。しかし、壁にぶち当たることが新しい知識を得る機会となったり、ブレイクスルーにつながったりするかもしれない。

このように、山あり谷ありの博士課程。そんなときには身を置く環境がとても大切になる。幸いなことにここシドニーは自然も多く、少し足を伸ばせばビーチや国立公園で気軽に気分転換ができる。空が青くて広い。人は優しく、食事もワインも美味しい。そして、学ぶことに対してとても間口が広い。一流の研究者が多く、学ぶ環境が整っている。何歳からでも学び直し、やり直すことを応援する土壌がある。資金面でも、いろいろな種類の奨学金があり、多くの留学生が何らかのサポートを得ている。自分には無理だと決めつけず可能性を探ってみて欲しい。きっと可能性が開けると思う。これから博士課程挑戦を検討されている方は、オーストラリアも視野に入れてみてはいかがだろうか。


4 進捗管理の方法は大学によっても異なる。例えばシドニー工科大学ではStage 1がUNSWのConfirmationに相当、これをパスするとデータ収集のステップとなる。そして、修了1年ほど前にStage 2という次の大きなマイルストーンあり、そこではデータ分析などもかなり進んである程度執筆できていることが確認される。これ以後、博士論文を書き上げる最終段階に入る。

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会(オーストラリアは34:03から)https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

中島 豊(ナカジマ ユタカ)
上智大学外国語学部ロシア語学科卒。ニューサウスウェールズ大学博士課程在学。

博士課程出願まで(学部生時代〜修士課程進学まで)

もともと中国の文化や文学、漢字や中華料理が大好きだった私は、2008年に創価大学法学部法律学科入学したあと、中国について研究するサークルである中国研究会に入部した。そこで中国の歴史や文化について理解を深め、大学3年次の2010年9月に、人生初の外国訪問ともなったが、1週間の日程で北京と天津をサークルのメンバーとともに訪問する機会を得た。これを機に大学4年次の2011年に休学し、北京外国語大学漢語学院に語学私費留学をした。この10ヶ月間は、中国語を学ぶほか合間を見ては中国の名所なども観光した。

そして、帰国後就職活動などをするが、その中でもっと学びたいと言う思いが強くなり大学院への進学を考える。しかし、そこから先のキャリアを考えたときになかなか大学院進学へ切り替えることはできなかった。卒業が近くなり大学院進学へ切り替えたのは、北京の語学留学で感じた北京という場所の居心地の良さともっと学びたいという私の中にあるどうしようもない思いがあったからだった。また、中国で国際関係を勉強することは、欧米で研究するよりもより近い距離で研究でき、かつ中国のことを深く知る中で研究できることが強みである。そして、2013年3月、創価大学法学部法律学科卒業後、大学院に向けての浪人生活に入った。

中国の大学院に進学するためには、まず、その授業を聴講できるだけの語学力を有することを証明する資格を取得しなければならない。私は創価大学卒業の時点で中国語の能力を有する客観的な資格を有していなかったために、創価大学を卒業した年の6月に漢語水平考試(HSK)6級を受験。300点満点中186点(合格ライン180点)で取得した。そして、それ以降は我が家の経済状況で大学院の学費を捻出することは不可能であるため、寮費、学費免除、生活費を支給される中国政府奨学金留学生としての修士課程留学を目指し、出願の準備に入った。

翌2014年2月に、中国政府奨学金留学生選考に出願。3月には同選考の書類審査合格の通知を受け取り、4月に日本における候補者を専攻する機関である文部科学省の庁舎にて面接試験を行い通過。7月には北京外国語大学国際関係学院修士課程より合格通知受け、8月に渡航し、人生で2回目の留学となる修士課程へ進学した。

博士課程出願まで(修士課程)

私が進学した当時、北京外国語大学国際関係学院修士課程は、3年課程であった(現在は欧米に倣い2年に変更)。2年間は授業があり、ここで文献を講読し授業内でプレゼン発表や学期末はレポート課題が課される。3年次は1年間論文執筆に充てられ、授業はない。字数は主に、中国語で3000字から8000字である。ちなみに中国の学部生が卒業論文で要求される字数は8000文字から1万字であり、修士論文は3万文字以上書くことが要求される。私は修士論文では、1972年の日中国交正常化にあたって影響を及ぼした人物や団体について研究し、2017年6月に修士課程を修了。修了後すぐに日本に帰国した。

Fig1. 周恩来総理や毛沢東主席も撮影した写真館の前で 2018年11月 北京・王府井にて

博士課程出願

当初は帰国後、日本での就職を考えていたが就職活動などをしていくうちに語学留学とは違い3年間北京で過ごしたことにより日本の生活には慣れず、また、そのような筐体で就職活動をしても結果は芳しくなかった。そうした中で私は3年間修士課程を過ごした北京の地に戻りたいという思いが強くなり、以前から興味があった外務省在外公館専門調査員採用試験に出願し、その年の10月に筆記試験を受験。筆記試験は合格したものの、その翌月の面接試験にて不合格。このときに私は、修士論文を短いと感じたことからも、もっと勉強しようと博士課程への進学を決めた。翌2018年1月に、2度目の中国政府奨学金留学生選考に出願。3月に書類審査合格の通知を受ける。今回は文部科学省ではなくお台場の国際交流館プラザ平成で面接試験を受け、4月、面接試験合格通知を受ける。5月、オンラインにて、現在の指導教官である黄大慧教授と面接した。黄先生と面接した経緯は、私が出願段階で提出した研究計画書に当初は現在の研究テーマとは違い1950年代の日中関係に多大な貢献をした郭沫若について研究したいと書いたことから、中国人民大学国際関係学院で博士論文の指導ができる教授の中で日本への留学経験もあり日中関係を専門としていることから面接することとなったというものであった。その翌月には文部科学省の通知を前に大学より直接合格の連絡を受け、8月に文部科学省を経由し合格通知の書面を正式に受領し、2度目の中国政府奨学金留学生として博士課程への留学が決まった。そして、9月5日に渡航し、博士課程に入学した。

中国の博士課程の生活

現在私の在籍する中国人民大学国際関係学院博士課程は4年過程で、1年目は授業を受ける。ここでは修士課程と同様にレポート課題や発表がある。博士課程は修士課程以上に学位論文の執筆がメインとなるために、博士課程では入学のときにある程度の学位論文のテーマを決めておく必要ある。そして、自分の研究テーマに沿ったレポートや発表をすることが要求される。また留学生は中国の規定に基づき、中国語の文章の書方の授業と中国文化、中国政治を学ぶ授業がある。

2年次の前期期末には、全学部共通で博士論文執筆能力があるかどうかを確認するために総合試験が課される。これは文献を提示されその範囲の中から質問を出され論述する試験と面接試験がある。これに合格しなければ博士学位論文を書くことはできない。私のいる大学では、留学生の場合論述試験は資料の持ち込みは可、面接試験では不可。もし答えられない場合は、別の質問がされる。

中国文系大学院博士課程進学のために、2年目の後半には正式に博士学位論文のテーマ設定を行い複数の教授陣による面接を受ける。本来は2年次の6月中であるが、今年は新型コロナウィルスの感染拡大の影響で10月〜11月に実施した。なお私のいる大学の博士課程では面接の際に研究計画書を作成するが、主要参考文献を含め中国語で6000文字以上書くことが要求される。3〜4年次は論文執筆がメインとなる。授業での単位取得を除く博士課程の修了要件学位論文(中国語で12万文字以上)を完成させ、かつ学術雑誌に2本以上の掲載である。2本とも最低8000文字以上で、掲載される雑誌の1冊は大学が指定する表に掲載の雑誌に掲載され、発表した2本の論文のうちの1本は個人で作成した論文でなくてはならない。この2つの条件を満たした場合、博士学位論文の口頭試問を受けることができ、口頭試問を合格することで博士号の学位が授与される。

Fig2. 中日外交史の授業にて発表 2019年5月30日 中国人民大学にて

中国文系大学院博士課程進学のために

中国の文系大学院に進学するには何と言ってもまずは、HSK6級を取得することが重要である。そして、しっかりテーマに関して事前に勉強することが、大学院での勉強−特に博士課程では重要である。特に博士課程では専門的な事項とともに基礎学力も要求されるために、専門分野に関する基本的な事項はマスターしておく必要がある。

最後に、私は中国政府奨学金で進学したが、同制度で留学を考えている場合に何が必要かということについて記しておきたい。まずは大量の書類の提出が要求されるので、しっかり募集要項を読み込み書類の準備に当たること。高校からの卒業証明、成績証明が必要になる。次に面接試験は主に中国語で行われるため、スピーキング力も大事になる。そして、希望大学は第3希望まで出せるが、希望通りにならないこともある。特に毎年、北京と上海は人気で、希望者が多い。

専攻中国政府奨学金で博士課程に進学する場合は修士課程と同じ専攻であることが要求される。

以上、中国文系大学院博士課程について書かせていただいたが、これを参考に修士後のキャリア設計に役立てていただければ幸いである。

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会(中国は1:04:08から)https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

伊藤 一城(イトウ カズシロ)
2013年3月創価大学法学部法律学科を卒業。2014年9月に中国政府奨学金留学生選考に合格し北京外国語大学国際関係学院に進学(国費留学)。2017年6月に同大学修士課程を修了。2018年中国政府奨学金留学生選考に合格し同制度を利用して中国人民大学国際関係学院博士課程に進学。

新型コロナウイルスが猛威を振るっており、進学や留学でも大きく影響されている人も多い事かと思います。これに関して「1655年にはペストが大流行した。当時ケンブリッジ大学の学生であったアイザック・ニュートンは、2年ほど田舎に疎開したときに、リンゴが落ちるのを目撃して万有引力など物理学の驚異的な業績を上げた。これを創造的休暇と呼ばれる。」というような美談はよく引用されるが、正直、歴史上の出来事で偉大過ぎて実感がわきにくいと思います。今回はこの場をお借りし、偶然にも同じくケンブリッジ大学で物理学の研究を行っていた筆者の体験を共有したいと思います。お付き合いいただければ幸いです。

---

確か大学2年生の4月の事であった。大学入試で第一志望に落ち、喪失感にさいなまれていた私は、海外の大学院に進学する方法があることを知った。上手くやれば多くの外国では大学院生は労働者として扱われ、給料も支払われ学費も掛からないらしい。それには主に準備できることは、評定平均(GPA)を上げることとTOEFL iBTのテストのスコアであった。

英語は入学試験の際に勉強こそしたものの、学校名を検索すると関連に「ヤンキー」と表示される全国でも有数の荒れた地域の公立中学の英語の授業にもついていけずに、英作文で"He will is be going~"などと書いているレベルで全国模試の偏差値も30未満。親戚にも大学院はおろか大卒もほぼおらず、英才教育とは勿論無縁。受験の際にどうしても行きたかった予備校の費用の一部は、お年玉で払う状態。言うまでもなく純ジャパ。大学生2年生の時点で、パスポートも持っていなかった。そんな私にとってTOEFL iBTのスコアなんて、頂上が雲の上で見えもしない崖を、素手でよじ登るようなものであった。

さらに日本の大学の試験は何ともやる気が出ず、受験に代表される実力筆記試験文化になじんでいた当時の私は、学部1年生のGPAはオールB程度の3前後であった。一般的な海外有力大学の最低ライン言われるGPA3.6に到達するには、少なくとも3年前期までほぼオールAで行かないと到達できない計算であった。結果が変わるわけもないのに、事あるごとに評定平均を電卓で計算した。テスト範囲のある試験が出来て何になるのか?と斜に構えていた数か月前の自分を殴り倒してやりたいほどであった。GPAが低くても合格した人の話などを探し、無理やり希望を見出していた。

評定平均を高く保ちつつTOEFLのスコアもあげ、卒業研究も真剣に行い、どうにかこうにかアメリカの大学院の出願にこぎつけたが、当時はリーマンショック直後で財政的に厳しい情勢であった。結局、合格自体は出たもののRA等は全くつかず、事実上の不合格であった。当時は奨学財団の奨学金なんて天才しか受からないと思い、出願さえもしていなかった。

スコアや努力という主観的な要素ではない。時代のタイミングという、どうにもならない大きな力が原因であった。なんとも行き場のない思いに苛まれた。東日本大震災による混乱に巻き込まれる中、この時リーマンショック自体も、それに影響される奨学金も、世の中、金が勝負を分けることがあることも思い知らされた。

念ため出願していた修士課程に進学した。助成金を獲得し国際会議で発表。研究助成金を獲得し、後の進学先となる研究室に自力で交渉しインターンを行った。貪欲に有利になりそうなことは何でも行い、TA等も積極的にこなした。

前回の失敗を生かし用意周到に準備をした結果、PhDの出願の際には、奨学財団の留学奨学金にいくつも内定し、最終的に船井情報科学振興財団やブリティッシュカウンシル日本協会の奨学生として採用され、かつノーベル賞輩出数が世界最多の研究所であるケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のWinton Programme for the Physics of Sustainabilityという特待生制度にも日本人で初めて採用されて海外の大学の博士課程の進路を知り準備開始5年半の後、念願がかなって進学することとなった。

ケンブリッジ大学ではいろいろと衝撃を受けた。天は何物をも与えまくったような信じられないくらい多才で性格もいい人も多数。他国の皇族や貴族の末裔の学生も多くいた。人生のスタートラインとバックアップの環境が、自分とは何次元も違うような人々も数えていたらきりがないほどだ。他にも20代前半で教員になっているものなど、異星人のようなタイプも多く見かけた。自分の凡人さを改めて自覚する日々であった。

研究分野は量子物理学の物性物理。行っていた物質の合成実験で、結果が出たのちに、まとめる段階で再現性が取れないことが判明し、約2年分の研究が丸々無駄になった。進学前には全く聞いていなかった途中ではラボの引っ越しがあったり、実験装置が来るのが遅れ、大規模な故障も起こり、まさに踏んだり蹴ったりであった。自分のテーマではなく、手伝いをした人達の研究は軒並みうまくいった。やれやれである。運も実力のうちといわれてしまえばそれまでだが、サボっているわけではないし、能力的なものでもない(と見ていて少なくとも自分ではそう思っている)。しかし客観的には、当てない限り何もやっていない状態と大差がなくなるタイプの研究は精神的にくるものがあった。一回一回のプロセスに時間がかかり、回数が限られるためにバクチの要素の強くなる傾向にある基礎研究よりも、研究のサイクルが短く、多く発表ができる分野が羨ましく映った。

一方で、分かりづらくサイクルが長い研究を行ったことがきっかけで行ったことも多い。そもそも量子物理学の基礎分野なんて、同じ分野の人でも分かりづらい。立食パーティーやディナーの際にバイオや法律、MBAなど他専攻の人に説明しても”That’s Interesting(それは面白いといってはいるが実際は興味ないです。それ以上続けないでくださいの意味)”といわれる程である。

どうにか面白く分かってもらえないかと「分かりやすい発表とは何か?」を追究した結果、アウトリーチプレゼン大会のネイティブスピーカーを抑えて最優秀賞を何度か受賞、マイケルファラデーがロウソクの講演をしたことで知られるFaraday Lecture Theatre at Royal Institutiton of Great Britainやサッチャーやホーキング等名だたる歴史上の人物が講演したCambridge Unionでの講演の機会にも恵まれた(Fig1)。

Fig1. Three Minute Wonder 決勝にて。Royal Institution of Great Britain

ケンブリッジ大学の生活で得たものも多かったが、先述のように博士課程において最重要な研究自体がうまく行っていなかったわけである。そのため卒業も遅くなった(Fig2, Fig3)。VISAが失効になり、一時国外退去勧告になるほどであった。特に課程終了間際ではPhD取得が確定するまでは、その後のことについて考えられる余裕もなく、手も出せない状況であった。よってPhD取得直後に置かれている状況は、見方によっては「30歳・無職・シャカイジンケイケン無し」であった。無敵に近い強烈なプロフィールである。今思えばコーヒーのシミがついたよれよれのスウェットで、昼過ぎから駅前のゲーセンのメダルコーナーに連日入り浸りタバコをふかしていたりしていたら、より強くなっていたかもしれない。

Fig2. 博士論文の提出。直後に友人たちにシャンパンをかけてもらった。
Fig3. ラテン語で行われる卒業式の儀式

就活中とはいえ、数か月間の無職生活というものは暇なものであった。この暇を利用して、今後幅広く利用できると考えた基本的な機械学習を独習した。強化学習を駆使した自動でゲームが強くなるエージェントプログラムを回し続け、育てていた。この経験も業務にも生きている。なお就職こそしなかったものの、機械学習エンジニアとしてもオファーもいただいた。

紆余曲折はあったが、外資系の日本支社へ就職した。この時の私は「せっかく外国でも認められ始めた矢先にグローバルキャリアは終わった」と内心諦めていた。それでも入社後半年以内にはグローバルプロジェクト(本社案件)に早々に参画することになり、海外出張が続いた。どちらかというと海外進出したというよりも、むしろ日本に一時帰国をしたものの、再びグローバル社会へ呼び戻された感覚であった。これも外国で博士時代に身に着けたものが身を助けた形であった。

そして昇進もして勢いに乗って来たと思っていた矢先、今度は新型コロナウイルスの影響で、海外プロジェクトが軒並み延期・中止になり、引きこもり生活を余儀なくされた。大学を卒業し、無職生活を行った後に、やっと働き始めたかと思ったら、今度は強制引きこもりである。

慣れなのか、それとも麻痺なのか、内心「ああ、またか」と思っていた。現在は引きこもり生活を利用し今後に備え、国際的に通用する資格(いわゆる国際資格)を、既にいくつか取得した。他にも今出来ることに集中して取り組むことにしている。

世の中とは不平等なものである。どうやっても王子や貴族にはなれないし、人種の優位性を身に着けることもできない。今置かれた状況を嘆いても仕方がない。それがたとえ何の前触れもなく起きた世界的なパンデミックであったとしても。どうあがいても配られたカードは変わらない。全てを受け入れて勝負するほかない。

挑戦をすればするほど失敗は増えるし、やらなければ決して遭遇しないような心がえぐられるような思いも増える。実際、ここに書くのも憚られるような故意のハラスメントや、悪質な嫌がらせにも遭った。事実一部はトラウマである。執筆する際に色々思い出してしまい、手が震えたもの、動悸がしたもの、目が潤んだものまであった。故意の加害なんて許されたものではないし、法の下に裁かれてほしいものである。しかし私が被害を受けたという過去の事実は変わらないし、悔やんでもどうにもならない。ただ人生どこでどう転ぶかは分からない。何が良くて、何が悪かったかなんて死ぬまで分からないかもしれない。どんなことでも得た教訓と経験として生かしていきたい。

思い通りになんてなかなかならないし、期待するだけ無駄だと感じることも日常茶飯事。淡い期待どころか、友人や教師には簡単に裏切られ、運にも見放される。

しかし、芸は身を助ける。様々な過程で身に着けた実力やスキルだけはあなたを裏切らない。どこからともなく不意に訪れるチャンスの前に、十分に準備が整っていれば、幸運の女神の前髪を自然とつかむことが出来る。学問に王道がないように、人生に近道はない。出来ることは、日々着々と準備をすすめることだけである。混沌とした世の中の情勢と自分の実力の無さをありのままに受け入れ、日々淡々と次の前髪をつかめるように着々と準備を進めていくこととしよう。

---

拙著をお読みいただきありがとうございました。読者の皆様も新型コロナの影響で行き場のない思いをしている方も多い事と思います。読者の中で数年後に以下のセンテンスが頭によぎることが有れば、今回筆をとった甲斐があったように思います。

「ああ、今の自分があるのは、あの時コロナに阻まれたおかげかもしれない」

関連動画:2020夏 慶應大編 海外大学院留学説明会【ジョンズホプキンス大学、ライス大学、ケンブリッジ大学、ノースウェスタン大学】(1:06:55から、学位取得までの過程、アカデミア、企業研究職以外への就職活動、キャリア形成の展望など)https://youtu.be/f-04Dn6JHoA

篠原 肇(シノハラ ハジメ)
ケンブリッジ大学 キャベンディッシュ研究所 博士号取得。プロモントリーフィナンシャルグループ勤務。

個人ブログ https://hajime77.com/

Title IXとは何かご存じでしょうか?1972年にアメリカで制定されたあらゆる性差別を禁じる法律です1,2,3。私は恥ずかしながら自分が被害に遭い、Title IXオフィスに相談するまであまり知りませんでした。Title IXオフィスとのやりとりの中で、被害者を泣き寝入りさせないよう整備されたシステムから学ぶことがたくさんあったので、個人的な経験ではありますが、あるアメリカの大学による対応の一例として共有させて頂きます。もし将来被害に遭った時の力に少しでもなれれば、加えて皆様の教育・研究環境の向上の参考になれば幸いです。(あくまで個人的な経験であること、大学によって対応が異なる可能性があること予めご了承ください。)

---

Title IXとは

1972年にアメリカで制定された、連邦が財政支援をする教育プログラムや活動におけるあらゆる性差別を禁じる法律1,2,3。性差別のみならず、性暴力、セクシャル・ハラスメント、ストーキング、親密な関係間の暴力、その他のすべての性的な行為が含まれる2。性差別的な発言4、性的なコメント5、妊娠に対するネガティブな反応3、被害を報告した人への報復5も違法。留学生を含む全学生に適応される1,3。学校にはTitle IXコーディネーターを設置する義務3、性暴力事件の報告後迅速に捜査する義務2、捜査や治療にかかる費用の負担義務があり3、さらに大学で雇用されている人たちは、被害について聞いた場合24時間以内にTitle IXコーディネーターに報告する義務がある2

---

Fig1. 大学のキャンパス

私の案件は、1年程前にある教員から性差別的発言をされた、というものです。行動するまで1年以上も経ってしまったのは、

  • 性差別的発言はTitle IXの管轄内なのか
  • こんな小さいことで連絡して良いのか
  • 時効なのでは
  • その教員は私の大学の教員ではないが対応できるのか
  • 行動を起こすことによって私が何か不利益を被るのではないか
  • 重要な共同研究なのだから性差別くらい目をつぶるべきなのでは

といった疑問や懸念があったからです。

それらを何とか乗り越え「とりあえず対応してもらえるのかだけでも聞いてみよう」とTitle IXオフィスに連絡したところ、目から鱗が落ちるような体験を次々としました。

事件の概要を聞かれなかった

「何が起こったのかを話すのはとても辛いことだから、話したい場合を除きこちらからは聞きません。ただ、対応方法を検討するために、その経験がどのカテゴリーに所属するかだけ教えて?」と言われました。

性差別的発言もTitle IXで対応できる

自分の経験がTitle IXの管轄内なのか不安で事件の詳細を話したところ、「Title IXは性差別を禁止する法律なのだからその発言はもちろん違法です。」とのことでした。(ただ、罰則を与える、訴訟を起こすなど法的措置をとるためには、発言の頻度や被害の程度が問題になる場合もあるみたいです5。)

被害の深刻さを”Judge”されなかった

身体的暴力でもないのにそんな些細な事で…と言われるのが怖かったのですが、「まず、その行為自体が違法なので被害の深刻さに関わらず声を上げる権利があなたにはあります。更に、被害の深刻さはあなたしかわからないので、ほかの誰にも判定(Judge)する権利はありません。」と言われました。

1年以上前の案件でも対応できる(ただし時効は存在する)

時効は州によるそうです6。現時点で2年、3年の州が多いですが、1年や6年の州もあるそうです6。(学内案件であれば、法的措置以外の形で対応できる可能性もあるので、時効をすぎていてもTitle IXオフィスへ相談することをおすすめします。)

学外・国外加害者への対応は難しい(これはBad news)

一般的に、加害者がその大学関係者でないと対応が難しくなるみたいです。学外加害者でもアメリカ国内ならTitle IX適用範囲内なので対応は可能だが難しい、国外だと法的措置はとても難しいという印象を受けました。(法的措置以外の対応もあるので、加害者が学校関係者でなくてもTitle IXオフィスへ相談することをおすすめします。)

つまり、学外や国外学会や共同研究先への滞在では、Title IX違反が起きても法的に守ってもらえないリスクを背負っているということです。全くキャンパスから出ないのは不可能ですが、例えば、共同研究先に滞在する際、事前にグループの文化を調べるなどは必要かもしれません。

声をあげることでの二次災害も違法

声をあげることを止めようとする行為、声を挙げたことへの報復は”Retaliation”と呼ばれ禁止されています4

キャリアのために自分の安全と健康を犠牲にするべきではない

一番大事な話です。私は本気で「キャリアのためには性差別くらい目をつぶるべきなのでは」と思っていました。これに対するTitle IX担当者の返答はこうでした。「まず、Retaliationは違法なのであなたは法的に守られている。でも万が一キャリアが…と恐れる気持ちもわかるけど、これはあなたの安全と健康に関わる話であり、何事も安全と健康より優先されるべきではない。」 よく考えたらその通りです。例え著名な教授と働けたからといって、私の心が病んでしまったら私は幸せだと言えるのでしょうか。そもそもそんな精神状態で良い研究結果は出るのでしょうか。今自分の安全と健康を守った方が、長期的に見ればキャリアもどちらも獲得できることになるのではないでしょうか。

上司や関係者に対応を要求する際も事件の概要を説明しなくてよい

対応策を決めた際、上司との対話が必要になりました。私はてっきり事件の概要を説明するのかと思っていたのですが、セカンドレイプなどの恐れがあるので共有しなくても良いそうです。(法的措置をとる場合は必要な場合もあります4。)「Title IXの侵害があったので、○○という対応を要求します。」と言えば十分で、さらに上司と一対一の対話が不安であれば担当者と三者面談の形をとることも、私を全く含まずにメールでの通達もできるとのことでした。

まとめ

私は今回の経験を通じて、「アメリカの大学ではTitle IXのもと如何なる性差別も違法であり、被害者が泣き寝入りしなくて良いよう、さらに声をあげる際の負担が最小限になるよう、法整備がされている」と感じました。

もし今これを読まれている方が被害者であったり、もし今後こういった被害に遭ってしまった場合には、どうか全力で自分の安全と健康を守ってください。そのために、Title IXオフィスに相談に行きましょう。(この記事はアメリカでの体験に基づいていますが、日本でもほとんどの大学に相談窓口が設置されています7,8。)その上でどの手段を選ぶか、もしくは何もしないのも選択ですが、相談にだけはぜひ行ってください。

もしあなたの大切な方が被害に遭われてしまった場合には、セカンドレイプに気を付けてください9。事件の詳細を共有しなくても良いことを伝え、もしその人が共有したい場合、何もJudgeせずに「あなたは何も悪くない」と伝えてあげてください。そして、ぜひTitle IXオフィスへ相談に行くよう働きかけてください。

留意点

この記事では私のごく個人的な経験をもとに、そこから私個人が学んだことを共有しています。

  • 文献を引用していない限り、すべて私の個人的な経験や見解であり、他の方に当てはまるとは限らないこと
  • 私自身Title IXに関して勉強中なので記述に誤りがあるかもしれないこと
  • 今回のTitle IX部署の対応は私の大学に限るもので学校や国によって対応が異なる可能性があること

をあらかじめご了承ください。

参考文献:

1.Know Your IX, “Title IX” https://www.knowyourix.org/college-resources/title-ix/

2.山口智美『「性暴力を禁止する法律を育てていく」/あらゆる性差別を禁じる“Title IX”のコーディネーターに聞く、アメリカの今』https://wezz-y.com/archives/42171

3.Berea College, “Important Facts About Title IX” https://www.berea.edu/title-ix/important-facts-title-ix/

4.Rice University, “Sexual Misconduct Policy” https://sjp.rice.edu/sexual-misconduct-policy

5.American Civil Liberties Union, “Sex Discrimination” https://www.aclu.org/know-your-rights/sex-discrimination/

6.Nicole Wiitala, “Statute of Limitations Under Title IX”  https://sanfordheisler.com/statute-of-limitations-under-title-ix/

7.国立大学協会『国立大学のハラスメント相談窓口』 https://www.janu.jp/univ/harassment/

8.文部科学省『文科省におけるハラスメント対策に関する取組』https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/02/12/1413420_2.pdf

9.白木麗弥『セカンドレイプはなぜ起きる?被害者を守るためには』https://news.livedoor.com/article/detail/13668913/

関連動画:2020夏 慶應大編 海外大学院留学説明会【ジョンズホプキンス大学、ライス大学、ケンブリッジ大学、ノースウェスタン大学】(3:18から、海外大学院の概要、実際の生活、学位取得に向けた課程など)https://youtu.be/f-04Dn6JHoA

小松 夏実(コマツ ナツミ)
ライス大学 電気コンピューター工学科博士課程在学。慶應義塾大学出身。

僕はジョンズ・ホプキンス大学化学科の博士課程に在籍しています.2年前,アメリカの大学院についての情報を集め始めたとき,かけはしの記事もたくさん読みましたし,今でもときどきほかの研究者や院生の皆さんの記事を楽しく読ませていただいています.かけはしを含むいろいろな媒体で海外大学院に進学を決めた理由の記事は多くあり,多様性や新たな環境への挑戦,国際性を養う,世界トップレベルの研究など,海外院進学を決めた理由は人それぞれです.一方で,日本人の留学生が少ないというのもよく聞く話です.海外院に進学する人を増やすべきかどうかとは別に,自分には無縁の話だと思って選択肢の一つとして検討すらしていない人が多いとすればそれはもったいないように思います.海外院に進学した経緯の記事ではそれなりの理由や目標があって進学された方のエピソードをよく見ますが,留学の要素とは別にフラットな選択肢の一つとして海外院を選択した人ももちろんいます.そして, そういう方々は進学理由より研究室や職の記事を書くことが多いように思うのですが,今回, 自由なトピックで記事を書く機会をいただいたので,特に留学らしい要素を期待しているわけでない僕がアメリカの院に進学することになった経緯を共有しようと思います.自分には学位留学は無縁だと思っている層や, 決意というほど強い思いはないけれど興味があって見ている, という方への参考になればと思います.

環境の影響

学位留学に留学としての要素を期待していないと書きましたが,かくいう僕も学部時代に一年の交換留学をしました.選考や奨学金に受かったのでそれらしい理由は並べ立てたわけですが,アメリカの大学に行ってみたい,アメリカの研究室を見てみたい,というふわっとした動機で動き始めて,選考を通るために理由を後付けしたようなものでした.言葉や文化の違いに苦しみつつも一年後帰国したわけですが,そのころには日本の院試と並行してアメリカの大学院の出願準備を着々と進めていました.理由は単純で,大学院進学を真面目に検討する学部3年秋~4年春の間にアメリカにいたから,だと思います.日本の大学にいると周りには日本の大学院生や就活をしている先輩がたくさんいますから,自身もそうする,という人が多いと思います.それと全く同じ流れで,短い期間ながらちょうど進路を考える時期に現地の大学院生と一緒に授業を受けたり研究室で指導を受けるうちに, 自分も周りに流されてアメリカの院への出願準備を始めました.環境の影響は恐ろしいものです.

Fig1. ジョンズ・ホプキンス大学

大学院の決め手となったもの

一方で,交換留学のときに抱いていたアメリカの大学や研究室の様子を知りたいという好奇心は, 帰国するころにはすでに満たされてしまっていました.交換留学で得たものはたくさんありましたが,いわゆる留学へのモチベーションはすでに無くなっている状態でした.実際,出願のstatement of purposeには「アメリカで研究したい」というようなことは一切書いていません.そのころ日本の大学院にも出願しており,学部と同じ慶應の大学院から合格をもらっていました.最終的に進学先を決める際に重視したことは, 以下です.

・物理化学で気相合成クラスターをメインに扱っている研究室であること.

・研究に困らない資金力があり,論文が活発に出ていること.

・博士号取得までの金銭的負担が少ないこと.

一つ目についてはどの研究室も満たしており(だからこそ出願した),二つ目は今のホプキンスの研究室が少しだけ良いかな,という程度でした.結果的に決め手になったのは三つ目でした.修士2年間の学費生活費を実家から難なく出してもらえる状態ではなく,博士後期課程の少なくとも3年間は学振(日本学術振興会の略)などの支援もありますがみんながみんなもらえると保証されているわけではありません.その中で,学費の全額免除と一人暮らしで少し貯金ができるぐらいの給料をもらえる大学院があるとなれば,そちらに行こうと思うのはごく自然だと思います.かくして,興味のあるトピックは日本でも研究でき,留学への熱意があるわけでもありませんが,ボルチモアで博士号取得を目指すことを決めたわけです.

Fig2. ボルチモアのinner harbor

大学院の選択肢を増やす

国内大学院で研究室を移ったり学歴ロンダリングをする人がそれなりいる一方で海外院進学が少数派である理由の一つに,海外院進学は無縁と考えている層の中に学位留学は国際性や環境の変化といった「留学」としての要素を期待してするものだ,という観念があるのではと思います.人により掲げる目標は異なるとはいえ,学位留学の基本の目的は学位を取得することです.その点で短期留学や交換留学とは明らかに毛色が異なります.日本で大学院を変える人は,特別な分野以外では地理的な場所ではなく研究分野や研究環境 / 待遇を比較して進学先を決めると思います.「留学」の要素に興味のない人でも,日本で研究室を変えたり院ロンダをするのと同じ感覚で国外も視野に入れて良いと思うのです.

そして,そのくらいの軽さで海外院を視野に入れると, 選択肢が大幅に増えます.例えば,僕の研究分野の研究室を日本の主要大学で探すと, 片手の指で数えるくらいしかありません.これが,アメリカを選択肢に含めると, 両手の指で収まらなくなります.アメリカ以外も視野に入れれば, もっとたくさんの選択肢が出てきます.そして,選択肢が増えれば増えるほど,自分の重視する条件をより良く満たす大学院を選べるようになります.良い環境で研究ができるかは個々の研究室によりますし,研究だけが人生の全てではないので, 日本が良いとか他のどの国が良いとかは言いません.ただ,単なる進学先の一選択肢として海外大学院が認知され,より自分に合った研究室を選ぶ人が増えることで,個人レベルではより充実した大学院生活が送れ,国レベルでは日本の研究力の増強につながるのではと思います.

日常的に触れる情報の少なさも海外院進学が無縁の選択肢に思える理由の一つですが,今はインターネットでいろいろな人が情報を発信しています.これから大学院を決める方は,両者を対等な選択肢として見るという意味で,海外だから / 国内だからといって良い思いをするわけではない点は常に認識しておくべきだと思います.研究が思うように進まないのはどこにいても同じですし,アカハラも国内外問わずあります.日本での大学院の悪い話は人づてに伝わりますが,海外院進学を後悔していますという記事をわざわざ書く人はまずいません.数年間過ごす研究室ですから,ポジティブな面・ネガティブな面両方含めて中立的に比較することを忘れないでください.

まとめ

海外院進学を国内院進学と並ぶフラットな選択肢として述べてきました.ただ,海外であるからこそのメリット/デメリットは確かにあり,他の多くの方がすでに記事にしてくださっているので, そちらも読んでいただければと思います.自分には海外院は全く無縁だと感じている方にこそ,学位留学は留学の要素を期待する人のためだけのものではないと知ってもらいたいのですが,こういう情報は検索しないと出てこないのでなかなか難しいだろうなと思うところです.この記事にたどり着いた方の中で,なんとなく興味があってニュースレターを読んでいるけれど海外院への熱意があるわけでもなく踏ん切りがつかない,という方への一押しになれば幸いです.

関連動画:2020夏 慶應大編 海外大学院留学説明会【ジョンズホプキンス大学、ライス大学、ケンブリッジ大学、ノースウェスタン大学】(20:56から、留学準備、TOEFL・GRE・推薦状などの出願プロセスについて)https://youtu.be/f-04Dn6JHoA

千葉 竜弥(チバ タツヤ)
ジョンズ・ホプキンス大学 化学科 博士課程在学. 慶應義塾大学出身.



本記事は、今年の夏季留学説明会の京都大学会場に登壇してくださった、鈴木崇夫さんに執筆していただきました。学位留学経験者なら誰もが一度は考える、「留学後現地に残るか、日本に帰国するか」という問いについて、鈴木さんの経験をふまえて印象深くまとめていただきました。ぜひ最後まで読んでみてください!

高校生・大学生向けの講演で、こんな質問をしたことがある。「次の元メジャーリーガの共通点は何でしょう:野茂英雄、鈴木イチロー、長谷川滋利、松井秀喜、大塚昌則、斎藤隆、黒田博樹、上原浩治、松坂大輔。」正解は後述するとして、一年だけの留学で日本に帰るつもりが、通算で二十年以上もアメリカで生活して現在に至ってしまった私の経緯をお話したい。

京都大学の学部(航空工学科)在学中に、留学の準備をしていた時は、「航空宇宙工学の最先端を行くアメリカの大学ではどんな学生が、何をどんなふうに学んでいるのだろうか」との好奇心がその動機だったと記憶している(その答えは、基礎から応用まで根本原理をしっかり説明するという、良い意味で思っていたよりシンプルなスタイルだった)。一方で、日本の研究室では、朝から晩までオフィスにいる大学院生の先輩を見ながら、「博士課程は自分には勤まらないな」と確信したものである。そこで、一年だけで修士号が取れるStanford University の航空宇宙工学科に留学して(そもそも、TOEFL の点がはるかに足りない私には、夏期英語集中コースから入学する条件付きで、唯一入学を許可した大学だったので)、当初はすぐ日本に帰って就職する予定だった。

周りの環境というのは恐ろしいものである。Stanford University などでは、大学院一年生の半分以上が博士進学を目指している(Stanford 大学の航空宇宙工学科は、出願時に博士課程進学を希望したかどうかにかかわらず、修士号を取得後、希望者は博士課程に進学できる)。私自身は純粋に、日本と違い講義の終了後も学生に対し、熱心に解説する時間を惜しまない教授に毎日質問するが楽しかったのを覚えている。特に当時のベテラン教授陣の学問に対する懐の深さには驚嘆した。幸い、アメリカの大学にいる人は、学生・教員・職員を問わず、片言でしか英語を喋れない人に比較的寛容であるように思う。TOEFL の試験結果などはおそらくクラスで最下位であった私の議論にも、教授・学生とも対等に付き合ってくれた(さらに罪深いことに、そんな私が有償のTeaching/course assistance を三期も務めてさせていただいた)。

そうこうしているうちに、周りも自分も博士課程に進学するつもりになっていた。アメリカの大学院生に対する手厚い経済的サポートなどは、他の方の記述を参考にして頂けたらと思うが、キャンパスライフの面でも、博士課程になっても他学科の講義を受講し、指導教官以外の教授と自由に議論したり(それが縁で指導教官を変更することも、アメリカの大学院ではままある)、新入の外国人留学生サポートのための夏期英語講座アシスタントをしたりと、日本の大学院に比べて開放的な生活ができたので、五年間の博士課程の生活も私に勤まった。日本の研究室と比べると、アメリカの大学院の方が指導教官が直轄統治する(ポスドクや博士学生が下級生を指導するのではなく、指導教官が直接指導する)スタイルの教授が多かったことも、疑問を持ったら納得するまで議論したい私には向いていたと思う。日本でのおよそ五年間(学部四年に加えて、某大学院に約一年だけ通ったため)の学生生活と比べても、アメリカの学生生活で悩むことは少なかった。その頃には、博士号収得後、アメリカで働いてくことを疑っていなかった。

その後、現在のボーイング社での二か月のインターンに当たる仕事を経て、Caltech で三年半ほどポスドクをすることになるが、その間、多くの大学でインタビューを受けた挙句、アメリカで教員の職に就けず、その後日本に帰ることになったのは、逆に全くの想定外であった。幸い、福井大学が私を拾ってくれたので日本で教員として働くことになった。帰国した時よく、「日本とアメリカと、どちらが生活しやすいですか」と問われることがあった。この頃の私の答えは「アメリカの方が働きやすいが、日本の方が住みやすい」であった。ちなみに、福井大学に在籍中は、周りの先生方にはたいへん親切にしていただいた。ただ、キャリアの途中から日本の(昇進なり教育なりの)システムに入る場合は、初めからそのシステムで進んできた場合に比べてデメリットが大きいと思う。それから、研究や教育の本業以外の業務にかかる時間が年々増えていく日本の地方大学の現状にも大きな不安を抱くようになった。結局その後、日本で不安を抱きながら教員として残るか、教育の楽しみを捨ててアメリカにエンジニアとして戻るかの二択から後者を選択し、インターンとして働いていたころのマネージャーにボーイングの社員として戻りたい旨を伝えた。それでも、私が実際に再びアメリカに渡るときには、そもそも会社員として何年も勤まる自信はなく、「十年くらい経ったら日本に帰ってくるかな」とおぼろげに思っていたのを覚えている。それだけ、日本で暮らすことも、日本で教えることも魅力を感じていたんだと思う。

Fig1. 久しぶりに訪れたCaltech のFaculty Club “Athenaeum” にて

再びアメリカに戻り、六年ぶりにボーイング社で働き始めてから、(首になることなく!)約十三年が経過してしまった。幸い現職で、大学で行われるような基礎研究から、実際の民間航空機の開発・製造にかかわる仕事まで、幅広く担当させていただいているので、仕事で飽きることはない。私の部署は(例外的にではあるが)、半数程度、アメリカ以外の国で育ってきた社員がいるので、特に仕事レベルで外国人だからというハンデを感じたこともない(ただし、英語能力は長い目で見て仕事の評価に大きく影響を与える可能性は否定できないと思う)。そもそも永住権さえないステータスで働いていながら(永住権がない場合は、仕事上のハンデがある)、諸所の理由でその申請を遅らせてきたくらいである。アクセントのある、こなれない英単語を繋げながらも、昼食時間に同僚と社内の四方山ごとにジョークを交えて愚痴を楽しむのは、どこの国でも共通の息抜きだろう。一方で、アメリカの会社も以前より、個人主義から組織で動くことを重視するようになり、形式を重んじ、立場で物を言う人が多くなった印象である。その点では、残念ながらアメリカで働く環境はだいぶ「日本的」になった感がある。

さて、最初の質問に戻ろう。私の簡単な検索によれば答えは、「アメリカでの現役引退後も、家族をアメリカに残してきている」元メジャーリーガである。できることなら、彼らのうち何人が渡米当初からそれを計画していたのか聞いてみたい。調べていてこの結果に最初は少し驚いたが、最近は納得することが多い。これは近年、私の周りにいる日本から留学してきて、「アメリカでひとたび職に就いた」友人・知人を見渡しても、似たような傾向にある(つまり、彼らのうちで自ら日本に帰国する選択をした人はほとんどいない)。これには経済的格差(この言葉がだんだん適切になってきた気がする)も確かに影響してはいると思う。ただ、それだけが理由ではないと思う。私の場合は、現在に至るのは自らの選択というより与えられた機会によるところが大きい(そもそも日本で私を積極的に雇うところは、過去も現在もほぼなかったですから)。

最近日本に住む人から、久しぶりに「日本とアメリカと、どちらが生活しやすいですか」と問われた。私はしばらく答えに困った挙句、「昔は『アメリカの方が働きやすいが、日本の方が住みやすい』と答えていました。」とだけ答えた。今、この記事を読んでこれから留学していく大学生がアメリカで(あるいは別の異国で)博士課程を終わるころに、「卒業後、日本とアメリカ(あるいはその異国)、どちらで働き、暮らしていくことに魅力を感じますか」と問われたとしよう。この答えに日本の将来がかかっていると思う。学生がその答えに迷うためには、我々日本人一人ひとり、これから大変な努力がいると思う。私が日本の大学生に伝えたいことがあるとすれば、正しいと思う行動を貫き、勇気を持って真実を伝え、その困難に立ち向い、乗り越えられるだけの実力をつけてもらいたいと思う。今日ますます、忖度することなくこれを全うするためには、職業人としての真の実力とたゆまぬ努力が必要なことを痛感する。

鈴木 祟夫
スタンフォード大学航空宇宙工学専攻博士課程修了
ボーイング社民間航空機部門

筆者の専門は高性能計算と深層学習の理論的側面で、2020年9月から、カナダ東部のモントリオール大学及び、世界有数の深層学習理論の研究グループである Mila の共同PhD プログラムに進学した。本稿では、日本で修士を修了した後、海外のComputer ScienceのPhDへの進学を検討されている方に対して、海外PhD進学に関する話題を提供させていただきたいと思う。

海外PhDへの進学を目指した経緯

筆者が海外のPhDに興味を持ったのは、東京工業大学での研究室配属から師事していた横田理央准教授の影響が非常に大きい。横田准教授は海外でのポスドクや研究職を歴任されており、筆者が学部4年時に横田准教授が専門とされている高性能計算のトップ会議のプログラムに参加した際の印象が強烈に残っている。研究に触れ始めた時期に、国際的に活躍する指導教官の姿を間近で見ることができたのは幸運であった。

もう一人、私に大きな影響を与えた研究者が鈴村豊太郎研究員である。筆者は高校在学時の卒論執筆を通して、大規模な実社会データを高速にリアルタイム処理するという鈴村研究員の研究分野に興味を持ち、東京工業大学を目指した。実際、研究室配属前に鈴村研究員が海外に移動されてしまい、直接指導を受けることは叶わなかったが、その後、海外で活躍をされている鈴村研究員の姿は眩しかった。

その他に、国際的なプログラミング系コンペへの参加や、海外大の短期プログラムなどで、海外の有名大学の同年代の実力とレベルの高さに圧倒されるとともに、海外で修行することも視野にいれはじめ、修士2年時に参加した「突き抜ける人財ゼミ」で海外のPhD進学を決意した、2018年9月のことである。

出願準備

前述の通り、筆者は修士課程までを国内で修了していたため、国内の修士号が認められるカナダ・イギリス・スイスの大学院への進学を目指した。出願のための準備で得た学びは、何事も前々から準備することである。私は修士課程2年の9月に受験を決意したため、国内で余分に1年を過ごすこととなった。決意した後に修士論文執筆などの合間に、自身の興味のある分野の研究グループを調査し、数人の教授にメールでコンタクトを取った。

筆者は学部・修士・修士課程時のIBM東京基礎研究所のインターンシップに際して高性能計算の側面から機械学習技術を高速化することに焦点を当てた研究を行った後、修士二年統計的学習や深層学習の理論よりの側面からの高速化に自身の関心が遷移したこともあり、理化学研究所AIPでのインターンに応募した。このような研究興味の変遷があったため、進学候補の研究室は筆者にとって新しい分野であり、メールを書くまでにかなりの時間を要した。それまでの筆者の研究興味やそれらを裏付ける業績、また志望先の研究室に自身がどのように貢献できるのかをメールで送った後、国際学会や文部科学省のプログラムを利用して実際に会う約束を取り付け、実際に何名かと面接することができた。このとき、幸いなことに外部からの奨学金を確保出ていたことがイギリスの大学院への応募に関してはとても有利に働いたように思う。2019年3月、最初のメールを送るまでに、進学候補の選定、CVの作成、研究計画を練る必要があった。

2019年12月、バンクーバーで行われていた、機械学習分野のトップ会議であるNeurIPS参加中に最初の出願を行った。出願までにIELTSでスコアをクリアし、東工大の指導教員、IBM東京基礎研究所・理化学研究所AIPでの指導教員に推薦状を依頼した。また、Computer Science特有の課題として、GithubのRepositoryの提出を求めるプログラムも存在した。出願準備の詳細については、下記のサイトにスライドで公開している。

合否とその理由考察

最初の出願後の2020年1月、早速第一志望のモントリオール大学とMilaのPhDプログラムの一次選考結果がメールで伝えられ、二次選考としてオンライン面接を受けた。面接前はかなり念入りに準備をし、面接のためのスライドを作り込んだ。2020年2月には、あっさり合格内定をいただけ、面接時に他の大学院も受験を考えていることを伝えていたので、4年間の学費免除と、米国のトップ大学院と遜色ない額のFellowshipのオファーを頂いた。

この後に、Oxford, ICL, UCL, Edinburgh, EPFLなどの出願を検討して準備していたが、最終的に出願を行わなかった。この時点で、私の海外PhD受験は終了した。

実は、モントリオール大と同時期にUBCのPhDにも出願していたが、出願した際に提出したIELTSのスコアが、一部足りていないと指摘され、2020年7月、出願から半年以上経過して不合格の通知が届いた。最終的な、筆者の受験結果は1勝1敗であった。

モントリオール大学は日本では知名度はなく、大学全体としてはその後の受験予定だった大学よりは高いランクではないものの、深層学習分野においては、昨年のチューリング賞を受賞されたYoshua Bengio先生の作った世界有数の深層学習理論の研究グループである Milaが同分野のメッカとなっており、筆者の興味分野で活躍する研究者が世界で最も集まっている研究拠点であったことから、自身の今後のキャリアを考えた結果、モントリオール大と MilaへのPhD進学を決意した。

最後に

今後、Computer Scienceの海外PhD進学を志す方に助言できることがあるとすれば、使えるリソースを最大限活用し、早期に出願に向けて着々と準備を行うということである。昨今の情報系、特に機械学習系の競争はとても厳しく、優秀な世界各国のMScの学生が十分な業績をもって出願してくる。このとき、準備が不十分な場合、合格する可能性は極めて低い。しかしながら、準備にはかなりの時間と労力を要するため、同士を見つけモチベーションを保ちつつ切磋琢磨することが、海外PhD進学には必要であると感じた。最後に、本稿が、これから海外PhDを目指す方の参考の一事例となることを願うとともに、執筆する機会をくださった米国大学院学生会の皆様、私の東工大での7年間を支えてくれた皆様への感謝の意を表したい。

長沼大樹(ナガヌマ ヒロキ)
モントリオール大学・モントリオール学習アルゴリズム研究所
Université de Montréal, Mila (Montreal Institute for Learning Algorithms)

この記事では、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校比較文学科博士課程に留学中の阿部幸大さんからの寄稿「ジャーナルと擬態をお届けする。

このたび、「人文系のアメリカ大学院留学」というタイトルで、東京大学の学生むけにオンラインで講演させていただいた。2020年7月、コロナウィルスの猛威がいまだ収束せざる状況下で開催された説明会であったが、オンライン化のおかげで米国からの登壇が可能となったうえ、会場での開催には足を運びえなかったであろう聴衆にも届いたようだ。

私が経験的に知るかぎりでは、ネット上で収集可能な情報と、そこで喋った内容を踏まえれば、留学に必要な情報はかなりの部分まで網羅できると思われる。その講演内容はYouTubeにUPされている。

本稿は上記のイベントを受けての寄稿である。お題が自由なので、何を書いたものか悩んだが、講演では「海外ジャーナルに投稿しましょう」とだけ言って終わったから、そのことについて具体的かつプラクティカルな話をして、最後に日本人がアメリカに留学することの歴史的な意味という話に繋げたい。

私の専門は文学、ひろくは文化研究であることを、はじめにおことわりしておく。私の留学先はアメリカなので、しばしば「海外」と「英語圏」と「アメリカ」は混同されるが、ご容赦いただきたい。

1.ジャーナル「を」勉強する

日本と異なり、英語圏のジャーナルは、プロのテニュア教員たちが最先端の議論を闘わせるフィールドとして機能している。いかに有名になろうとも、そこでは匿名の査読をクリアしなくては論文を出版することはできない(書籍は事情が違う)。だから超有名な学者の論文も容赦なくリジェクトされるし、たとえば、のちに圧倒的な影響力をもつことになる論文の多くが、最初の投稿先には落とされているという調査もある。

そういうわけだから、英語圏の学術的な動向を知るためには、書籍だけでなくジャーナルを知ることが欠かせない。ではジャーナルを知るとは、ジャーナル「を」勉強するとは、いったいどういうことか?

それはまずジャーナルの名前を覚えるところから始まる。そのための方法を思いつくままに列挙してみよう──

  • Johns Hopkins, Dukeなど、ジャーナルを大量に出している大学出版のjournalsのリストを眺める
  • 「専門分野名 journals」などでググって、当該分野のジャーナルをリスト化しているページを探す
  • 多産な研究者のCV(履歴書)の論文欄を見て、どのジャーナルに掲載されているか見る
  • 手持ちの論文の引用文献一覧からジャーナル論文をピックアップし、媒体を確認する
  • 掲示板サイトFandomでHumanities Journals Wikiの口コミを見る(内容はあまり信用できないので注意)

こうして徐々にジャーナルに親しんでゆけば、そのうち、分野のトップ・準トップジャーナルはどれか、自分はどのジャーナルにとくに興味がありそうか、誰がどこに何本くらい載せていて、それはどれくらいのバリューがある業績なのか、などが見えてくる。ゆくゆくは投稿したい憧れのジャーナルもマークしておきたい。

もうひとつの効用は、そもそも英語圏では研究がどのように細かくジャンル分けされて認知されていて、自分のやりたい研究の方法・内容における著名な学者は誰なのか、どんな話題がさかんに議論されているのか、といった感度が養われることだ。この結果、「自分はこういう研究がやりたかったんだ!」という発見もあるだろう。

数値的な目安としては、誌名だけでなく「あー、あの論文が載ったあのジャーナルね」というレベルで反応できる媒体が20誌くらいになってくれば、けっこう良い感じだと思う。

そしてお気に入りのジャーナルが見つかったら、トップジャーナル群にくわえ、新ナンバーが出るたびにそれらの目次をチェックするようにしよう(できればアブストラクトにも目を通したい)。また多くのジャーナルは書評を掲載しているので、その選書を追えば、その分野における著書単位の研究にも、それなりに触れておくことができる。

もちろん、以上は留学しなくても可能な勉強である。が、講演でも述べたように、私の専門分野では最大の論文データベースであるProject MUSEへのアクセスを、ほとんどの日本の大学が購入していない。必要な数本の論文だけ買うという対処法もあるとはいえ、全文を通読する論文だけを入手できれば十分というわけではないのだ。

この場を借りて言っておきたいが、MUSEやJSTORをはじめ、主要データベースに自由にアクセスできない環境での人文学研究など、ありえない・オブ・ありえない。事態はきわめて深刻であり、大学教員は徒党を組んでアクションを起こすべきである。

2.ジャーナル「で」勉強する

お気づきかと思うが、ジャーナル「を」勉強することは、すでにジャーナル「で」勉強することと地続きである。以下ではさらにジャーナル「で」勉強、ジャーナル「を使って」勉強する方法について述べたい。

その方法は簡単で、ジャーナルに論文を提出(サブミット)すればよい

まず最初に確認しておきたいのは、英語圏のジャーナルのほとんどは学会への入会などの必要がないという事実である。体裁さえ整えれば、ポータルにアカウントを作ってUPするか、あるいはメールに添付するだけで完了である。〆切もなく、いつでも受け付けている。学生に会費を払わせている日本の諸学会も、ぜひそうすべきだ。

提出後の流れも日本とは(おそらく)異なる。おおむね以下の5つのルートになる。

  • 編集部ですぐに不採用が決定される(デスク・リジェクション)①
  • 編集部でOKが出て、匿名の査読者(だいたい2名)に回った結果、
    •  査読者の両方あるいは片方が否定的なコメントで、リジェクト②
    •  査読者がどちらも好意的なコメントで、改稿・再提出(Revise & Resubmit/R&R)③
  • コメントを受けて直した論文に査読者がNGを出し、リジェクト④
  • 査読者がOKを出し、編集部の確認を経て、アクセプト⑤

ここで猛烈に勉強になるのは、査読者から送られてくるReader’s Reportと呼ばれるコメントである。これは多くの場合、概観と細部のコメントに分かれていて、査読者につき数千語の詳細なコメントをくれることが多い。その性質上、彼らは論文が抱える問題点と改善の方法を教えてくれる。

これは編集部がポンコツでないかぎり、論文の内容を吟味したうえで選出された適切な査読者──そのトピックのプロ──によるコメントであるから、彼らの意見は世界で一番信用できると言っても過言ではない(じっさい採否は彼らの判断にかかっているのだ)。最終的にリジェクトになるかもしれないが、「査読者が何を言うか」から学べることは計り知れない。

ここでいくつか補足がある。まず、すでに述べたように、教員が院生を評価する教育の場である日本のジャーナルと比べて、研究の場である英語圏のジャーナルの採用基準はダンチで厳しい。早い話、そこでは全員が対等なプロとして振る舞うことを要求されるわけだ。日本の査読が一方向的な「評価」なら、英語圏のR&Rは「対話」であると言える。

これは一般論にすぎないが、もしあなたの専門分野における日本国内の主要誌が英語論文を受け付けているのなら、まずはそこに確実にアクセプトされる実力をつけることが、海外ジャーナル挑戦の必要条件になると考えていい。ではどんなところに出せばいいのか。

まず最初に投稿を検討すべきなのは、さほど有名でなく、あまり歴史が古くなくて、誌名がspecificな専門分野に特化(たとえば文学研究なら作家の名前が入っているとか)したジャーナル、すなわち投稿数が少なくて採択率が高そうなところに出すことだ。そうしたジャーナルはだいたいサブミット数が少なくて困っているので(年間20本くらい)、とりあえず査読に回してくれる可能性も、査読をうけて「まぁ直させてみるか」と判断してくれる可能性も高くなる。ちなみにトップジャーナルの相場は年間の投稿が300本、採択数は10%くらいである。

繰り返すが、英語圏のジャーナルはサブミットのハードルだけは非常に低いので、とりあえず渾身の1本が書けたら、お試しでも出してみることを大いに推奨したい。そして、落とされてもメゲてはいけない。リジェクトは当たり前である。

私の場合は、留学1年目の期末レポートである村上春樹についての論文を、素人の恐るべき大胆さで日本研究のトップジャーナルであるJournal of Japanese Studiesに提出した。いま思えばデスクリジェクション必至の出来だったが、それは幸運にも査読のうえでリジェクトになり、コメントをもらうことができた(他誌だったら即アウトだったろう)。そのコメントはきわめて長大であり、その後の留学生活にとって貴重な経験になった。そういうこともあるので、とにかく出してみよう。

「デメリット」と呼べるかどうかわからないが、英語圏ジャーナルのツラいところは時間がかかることである。人文系ではサブミットから(アクセプトまでではなく)プリントまで2年ほどかかるのが普通で、大幅な改稿を要求されることも多いので、持久戦を覚悟せねばならない。これだと就活に間に合わない院生もいると思うので、その意味でもやはり国内の業績は早めに作っておきたい。

以上の記述を読んで、「そもそも国内誌の業績もないのに、海外ジャーナルなんて……」と思った人もいると思う。私も留学当初は論文の書き方が皆目わからず、俺アメリカに5年留学して国内誌に1本も通せず帰国すんじゃね??という恐怖に襲われ、留学先で授業期間にもかかわらず国内誌の論文をDLして50本ほど読み漁るという愚行に走り、「どうすれば自分にこれが書けるのか」と頭を抱える日々を送っていた。

そこからの脱却に成功した要因は複数あるのだが、そのひとつは、自分の10歩先にある国内の査読誌「だけ」見るのではなく、100歩先にあるアメリカのジャーナルを視野に入れて日本のアカデミアごと相対化してしまう発想の転換だったように思う。つまり国内の業績がなくても、海外ジャーナルはあなたと無縁ではないということだ。意識ひとつで書く文章は劇的に変わることがある。そのことを忘れないでほしい。

3.おわりに──敗戦国の擬態戦略

わざわざアメリカに留学する日本人はアメリカが学問の本場だからそうするわけで、日米間には歴然とした格差がある。だが、アメリカの良いところを学んで日本に持ち帰る、という発想ではもったいない。せっかく何年も留学するのだから、アメリカで思いきり成功するつもりで乗り込もう。そのためには、上述のように日本を相対化し、いったんアメリカナイズされる必要があるように思われる。

それはアメリカ中心主義や英語帝国主義への加担なのだろうか? 私はそうは思わない。すこし長い引用になるが、哲学者の千葉雅也は以下のように述べている──

海外の査読ジャーナルに日本人が(人文社会系の)英語論文を発表しなければならないというプレッシャーは、もうしばらく前から普通になっています。そうしたコミットメントを同時にやりながらも、グローバル・アカデミアの規矩に身を合わせるというよりも、日本で行われてきた論理形成のスタイルに興味を持ってもらえるように工夫していく必要があります。そもそも日本における西洋的コンテンツの「倒錯的」な変形に対しては、残念ながら、なかなか興味を持ってもらえないものなのです。やはりこの国は(戦争に)負けた国なのであって、その自覚において今後を考えなければならない。負けた国であり後進国なのだから、英語圏の基準に沿って、せめてもの貢献として「身のほどをわきまえた仕事」をするというのもひとつの立場だけれども、もっともっと打って出ていいと思うのです。
(『意味がない無意味』所収「緊張したゆるみを持つ言説のために」214-15頁)

人文学徒はこの挑発的な文章をぜひ全文読んでほしいのだが、ともあれ、ここで表明されているのは「グローバル・アカデミア」の眼中にない日本という現状を冷徹に見据えるリアリズムであり、そのうえでのストラテジーである。格差を前提として、マジョリティ(宗主国)のヘゲモニーを模倣しながらも完全には同一化しないクリティカルなふるまいを、ポストコロニアル理論家のホミ・バーバは擬態と呼んだ。千葉も「蝕む」という言葉で、近いことを言っている。

アメリカ中心主義も英語帝国主義もたしかに存在し、それらは問題だが、アメリカの劣化コピーに甘んじる態度も、あるいは世界から無視されながら日本の伝統を守る鎖国的な活動も、それへの批判としては機能しないように思われる。むしろ戦勝国のオーラを纏って国内のアカデミック・ポストに凱旋する手段としてしか留学を活用できない現状こそが、格差を温存しているのではなかろうか。

ともあれ、結論はこうである。アメリカの視点から日本を相対化するのと同時に、日本の視点からアメリカを相対化しなくてはならない。それを達成するためにこそ、いったんアメリカ化を経る必要があると思うのだ。それは敗戦国の擬態戦略の、ひとつのプロセスである。

肯定的な意味で「グローバル」と呼べる地平は、その先にこそ広がっている。これから留学を目指す若き才能たちは、そこで縦横無尽に活躍できる可能性をそれぞれに秘めているのだ。

阿部幸大 (アベ コウダイ)
ニューヨーク州立大学博士課程
比較文学

東京大学現代文芸論にて2012年に学士を、14年に修士を取得。日本学術振興会特別研究員(DC1)として東京大学英文科に在籍したのち、17年からフルブライト奨学生としてニューヨーク州立大学ビンガムトン校の比較文学科に留学。フルブライト記念財団・吉田育英会奨学生(2019-20)ならびに日本学術支援機構海外留学支援制度奨学生(2019-22)。

私は2018年8月からペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)の教員を勤めている。専門はスポーツに関する「心のトレーニング」として知られる、スポーツ心理学である。この記事では私の経験を、1)修士課程の経験、2)博士課程合格への道、3)博士課程の経験、4)大学教員の経験、5)新しいステージへ、の5つに分けてお伝えする。これらの経験に関しては私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でもアメリカ留学と合わせてお伝えしているのでそちらも併せて見てもらいたい。米国大学院進学に興味のある皆様へは、日本で英語を伸ばす、トーフルで高得点を取る、学費免除で留学する方法などを留学中の大学院生8人で対談した内容は興味深いものであろう(留学経験者8人との対談)。またトーフル23点で留学して、修士課程にたどり着くまでの1年間に関する記事はこちらを見ていただきたい。

修士課程の経験(2012〜2014)

修士としてまず経験したのは、英語の壁であろう。英語学校や聴講生として大学の授業を受けた1学期と比べ、課題の量もレベルも一気に上がった。授業について行く事に精一杯。課題をこなすにあたっては、英語の文法を毎回見てもらうなど、出来る限りの事をした。また、専攻にはメンタルトレーニングやカウンセリングも含まれていた為、授業でカウンセリングの練習があった。英語を理解するだけでも苦労していたところ、カウンセリングなど出来るわけがない。みんなの前でデモンストレーションをする時は、本当に辛かった。しかし、最新の内容を学べる環境は、非常に有り難かったし成長しているという実感も力の源になった。

幸いな事に、大学テニス部の大学院アシスタントコーチをしていた為、英語で会話する機会も多く、上達は早かった様に感じる。英語が上達すればするほど、授業は楽になるので他競技のコーチをしている大学院生など、友人が増えたことも幸いした。あらゆるスポーツを大勢で一緒にやり、大学のタレントショーに人生で初めてのダンスで友人と挑み優勝したこともある。スポーツを通した絆は、本当に有り難かった。

修士課程を振り返ると、アメリカの文化に馴染み、博士課程までの素晴らしい準備期間になった。修士号を頂く際に最優秀学生として表彰されたのは、嬉しい誤算であった。大学院生として2年間、その後の男女テニス部の総監督としての1年間(2014〜2015)とコーチは楽しくやりがいもあったので博士課程への進学を迷った事もあったのだが、アメリカに来た理由が「博士号を取り大学教員」だった為、ブレなかった。

博士課程合格への道(2012〜2015)

より確実に博士課程に合格出来るよう修士課程からテニス部の総監督時代の3年間、早いうちから指導教官の候補・大学を探し、連絡し、直接会いに行くこともした。修士課程が始まってすぐ、博士課程の大学を考え始めた。多くの研究論文を読み、博士課程で一緒に研究をしたい教員を探した。まずはアメリカでスポーツ心理学の学べるプログラムを全て確認し最初は、10個以上の候補があった。プログラムで一緒に研究したいと思う全ての教員に連絡して、学生を取る可能性があるか、そして大学院生アシスタントの仕事があるかをそれぞれ訊いた。暖かいメールを送ってくださる教員から、返信がない教員まで色々であったが返事をいただけた教員の方々には研究志望理由を送るまでの約2年間、2ヶ月に1回程度の頻度で自分の研究業績や、博士課程で研究したい内容を少しずつ紹介して関係を深め10個程度あった選択肢が最終的に3つになった。

第1志望として選んだプログラムには世界一と言えるほどの研究業績がある教員が務めておられ、その方に連絡を取り合ううちに良い方だと思えたので直接大学に出向き、学会では研究発表について会話する機会も作った(むしろその為に、学会発表へ行った)。このような準備を経て研究に対する意識・日本とアメリカでの研究活動(論文4本)を高く評価してもらい、研究アシスタントとしての仕事を頂き、博士課程に合格した。

Corporate and Commercial Photography by Mark Skalny 1-888-658-3686 www.markskalny.com #MSP1207

博士課程の経験(2015〜2018)

博士課程の授業は、明らかに難しかった。この一言に尽きる。この3年間が人生で1番勉強・研究した時期であると自信を持って言える。朝から大学に行き、夜にご飯だけ食べに家に帰ってきて、また大学に戻って深夜まで過ごすことも珍しくなかった。修士課程と博士課程はまるで別物であった。研究ミーティングは毎週あり、研究アシスタントとして働いた。指導教官との距離は、かなり近く、特に最初の1年は9割が研究の話であり、研究の話以外は正直そこまで話した記憶がない。研究活動、授業の受講、そして大学生を対象とした講義など毎日が充実していた。

修士課程までとは違い、「英語が…」などという言い訳はここではできない。アメリカ人と対等だ。博士号取得にかかる時間などは人それぞれだったし最初プログラムに15人程いた学生の中には途中で辞めるものもいた。私も、実験と論文を書くことに非常に多くの時間を費やし、データの取り直しなど上手くいかず進まない事もあった。

知識を詰め込むための授業、博士論文を書く前の審査、実験のデータ収集、論文の執筆(そして数えきれないほどの修正)、そして論文の発表に提出。ここには書き切れないほどの長く険しい道が、博士課程では待っている。これは私だけでなく、アメリカの博士課程へ進学する多くの留学生が経験するであろう。また私たち日本人の場合は英語を使うことそのものがその険しさをさらに際立たせる。しかしその反面得られる事も多い。博士課程の授業や研究活動から得た知識は、本当に役立っている。スポーツでは、上達する為に1)個人のモチベーション、2)指導者、3)環境が重要になる。留学も全く同じだ。

余談だが、在学中にヨーロッパ連合から研究費を頂き、1年目の夏は3ヶ月半の間、チェコで研究活動をする事が出来た。ヨーロッパ、アメリカ、そして日本の文化を比べる事が出来て、また経験が増えたと感じた期間でもあった。本当に世界は広い。

大学教員としての経験(2018〜現在)

まず、仕事獲得が大変であった。何度も面接の練習を行った記憶が蘇る。30人程度が応募。採用される人はわずかに1人。書類から絞られ、9人がスカイプ面接へ。そこから上位3人が2泊3日でキャンパス面接に呼ばれる。研究発表と模擬授業を1時間ずつなど非常にしっかり評価するアメリカの面接に驚いた。さらに驚いたのは、その費用を全てをアメリカの大学が払ったくれたことだ。研究論文、研究発表や、教えた授業の数など仕事を取ることを常に考えて博士課程に在籍していた事が、功を奏しただのろう。正直、博士号を取ることが目的で来たアメリカだったが、仕事を取ったときの方がその嬉しさは強かった。

大学教員として感じる事は人それぞれであろうが、私は博士課程の方が数倍忙しかった。自主性が重んじられるのが大学教員であり、授業への用意や研究を進めて行く時間など、学生の頃と比較して非常に融通が聞く。しかし、業績が残せないとクビになるというシビアなところは、日本と大きく異なるであろう。アメリカ特有の実力社会が前面に押し出されている。

学生からはHiro(ヒロ)と呼ばれている為、教員という感覚を持つ事はそこまでない。自分は「先生/教員なんだ」という感覚を強く覚えるのはむしろ、日本の大学に外部講師として伺った際、皆が口を揃えて、岩月先生と呼んでくれるときである。

新しいステージへ

アメリカでは、教員として精一杯活動したい。ちょっと大胆発言かもしれないが、私は「スポーツ心理学ならこの人だよね!」と言われるような人物になりたい。日本で知名度をあげたい。去年(2019年)、一時帰国の際には日本の16大学に外部講師として呼んで頂いた。国立では、大阪大学や名古屋大学、私学では、慶應義塾大学や同志社大学、スポーツ・健康科学の大学では、鹿屋体育大学、大阪体育大学や日本体育大学などだ。外部講師としての活動は今後も継続する予定である。

さらには高校・中学での外部講師としての活動や企業向けの研修なども含め、「役に立ったな!」・「楽しかったな!」・「視野が広がったな!」と思ってもらえる様な講師として日本の教育に貢献したい。スポーツ心理学者として、日本のスポーツ選手をサポートする事が出来たらこれ程、面白いことはないだろう。もちろん冒頭で述べたYouTubeでの情報発信も継続してゆく。

Only Oneを目指す

留学志望者の皆様が、この記事を見ているであろう。私は、留学に怖くて足がすくみ、前に進みだせない人を大勢見てきた。もし読者であるあなたがそんな中の1人であるなら、思い出してほしい。私のトーフルは当初23点で未来も全く見えていなかった。思い返せばリスクしかなかった様に感じる。それでもうまく行く例もあるのだと。

アメリカ留学から、皆様にしか出来ない経験をして頂きたい。この記事が、少しでも参考になり、留学の道への架け橋になれば、こんなに嬉しいことはない。近い将来、この記事を読んでさらにモチベーションが上がり、大活躍へ頑張っている皆様からの「記事読みましたよ!」といった、連絡を頂くことを、私は楽しみにしている。一歩踏み出し夢を叶えるには、今しかない。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)

私は、アメリカのペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)でスポーツ心理学、研究方法論、健康科学を教え、研究活動を行う教員である(2018年8月〜現在)。教員になる7年前の2011年6月から留学した。驚かれるかもしれないが、留学半年前のTOEFLは120点満点中23点だった。そこから留学し、約1年後(2012年8月)にスポーツ心理学の修士課程に入学。卒業時には全大学院生の500人中で最優秀学生として修士号を取得した(2014年)。男女テニス部の総監督など1年間就職した後、博士号を取得(2018年)し、現在に至る。自分は全く英語が出来ないところから、なんとか留学時の目標/夢の「博士号取得して大学教員」を叶える事が出来た。

今回の記事では、留学を決めた2010月11月から2012月5月の修士課程に合格するまでの道をお伝えしたい。また次号、「修士、博士で学び、その経験を生かし新たなステージへ」では、修士課程から現在までをお伝えする。この記事から、「英語力0からでも、こんなことをしている人がいる」と知っていただき、アメリカ留学は誰にでも可能であると、留学したいと思っている人を1人でも勇気づける事が出来れば、これ程嬉しいことはない。私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でも留学に関する色々な情報を発信しているので是非、見て頂きたい。

留学を決めるまでのストーリー

多くの優れた学生と違い、自分は勉強に関してはド素人であった。唯一、誇れるのは大学4年生まで打ち込んだテニスの経験だろう。テニスの特待推薦で高校に入学。スポーツクラスに在籍した。基本的には、学業のレベルが低い運動好きが集まり、部活に励む為のクラスとお伝えしてもよいだろう。インターハイ団体ベスト4・ダブルス高校ランキング10位に入賞し、テニス推薦で日本大学に進学。一般にいう「受験」などした事がなかった。大学も学業の成績(GPA)も、2.0とさっぱりで、教員免許だけ取得して卒業した。総じて勉強にはあまり縁がなかったのだ。だが、高校教員になる為に、大学院でしっかり勉強しようと考え、日本大学大学院に進学した。ここでの勉強は頑張ったが、英語が出来ない事には変わりなかった。高校教員になるために入学したのだが、この頃から、高校ではなく大学の教員になりたい、また英語を伸ばし、将来の可能性も広げたいと思うようになった。私が様々描ける夢の中から無謀にも、(1)アメリカに留学して、(2)英語を伸ばし、(3)修士号、(4)博士号、(5)大学教員を選んだのが2010年の12月だった。一念発起し、指導教官に進めて頂いた大学へ書類を出す準備に取り掛かった。まず、2ページの履歴書を作り、エッセイではなぜスポーツ心理学を勉強したいか、英語は苦手だがすでに研究の経験があり、論文も2本掲載されてると自己アピールをした。そして、英語の成績証明書と3人からの推薦書を集めて、急いで応募した。既に専門分野の知識を少し学んでいた、研究の実績があった、そして修士号を持っていたことから、英語が伸びたらという条件付きで「合格」をもらった。

英語学校に行く選択肢しかなかった(2011年6月〜12月)

この時点であと留学に必要なのは英語だけだった訳だが、2010年12月時点でTOEFLが23点。2011年6月に留学するまでの半年間、日本で英語学校に通い必死に英語を勉強した。そこでは語学力別に初球(1~3)、中級(4~6)に上級(7~9)に振り分けられ、私は、当初初級のレベル3に振り分けられた。

ここでは特別な勉強をするわけではない。例えば、金曜日は「週末は何をしますか?」などの日常会話をする。英語学校には、気晴らしに少し英語を学ぶために来る学生もいる。彼らは楽しそうにしていた。私も英語学校が私は楽しくなかったとは伝えない。非常に楽しい経験をさせて頂いた。しかし私の留学の目的は博士号取得であった為、「こんなことで自分は修士課程に辿り着けるのであろうか?」、「博士課程は大丈夫だろうか?」とひどく焦った。博士課程、修士課程などと比較しても、自分が1番焦ったのがこの頃である。とにかく自分の行き先が見えなかったためだ。

焦りを振り払おうと、とにかく日本語を使うのを避け、生活の全てで英語を使い、日本人とも英語で話した。英語学校が終わってからも毎日英語を聞き、出来るだけ色々人と話し、ひたすらに勉強した。将来のために、日本の修士過程の研究を英語で書く作業も並行して進めた。イワツキ大学(YouTube)でも私は、英語学校の場合は、「勝負は3時以降」とお伝えしている。それは多くの英語学校の授業が3時頃には終わり、そのあとが自由時間だからだ。そこでどれだけ英語に触れる事が出来るかが、英語学校で英語を伸ばす鍵になる。残念ながら半年で英語が大学院に入学出来る点数に届くわけもない(このとき受けたTOEFLは68点で修士課程入学には80点必要だった)、とはいえ努力がみのり、2011年12月には英語が上級のレベル7まで届いた為、2012年1月からアメリカの大学で聴講生として大学の授業を受ける事が出来るようになった。

聴講生として大学の授業を受けた1学期間(2012年1月〜5月)

アメリカでの聴講生としての日々はさらに毎日英語との戦いだった。大学から与えられた正式な大学院入学の条件とは履修生として大学の授業を4つの受けて、その全てでB以上をとることだった。当たり前だが、英語のレベルが低い人しか英語学校には行かない。その英語学校の上級に上がったところで、大学の授業はまだ難しい。正直、初めて聴講した授業は全くわからなかった。何がわからないのかすらわからなかった。個人的な見解であるが、何がわからないかわかると英語が伸びてくる。わからないことについて質問出来るからだ。それもできないほど当時の私の英語は酷かったのだ。ボイスレコーダーを使って、授業後になんども聞く事もあった。それでもわからない。英語が下手な私にとっては友人を作ることも簡単ではない。それでも、親切な友人を作り教えてもらった。課題を提出する前には、何度もライティングセンターに行った。文法など文章を添削してくれる大学のサービスである。ほんの1・2ページの課題であっても何度も添削を受けることが多々あった。(修士・博士課程入学の戦略はこちら、学費免除の戦略はこちらを参照)

テニス部のボランティアコーチ(2012年1月〜5月)

英語を伸ばす事に必死だった私は同じ頃、テニスチームの監督にお願いし、ボランティアコーチにしてもらった。コーチになる事によって、アメリカ人の周りにいる機会を増やしたかったからだ。私の場合、これが留学を成功に導いたと信じている。日本に住んでいる多くの読者の方々には、いまいち想像が難しいかもしれないが、日本人がアメリカでアメリカ人の友達を作るのは難しかったりする。しかし、英語を伸ばし留学を楽しみ成功させるには、留学中の時間を日本人とだけ過ごすのではダメだと私は思う。毎日最低2時間半のコーチとしてのアメリカ人との会話には予習も何も存在しない。しかし、幸いな事に、私はその大学でテニスがダントツで上手だった為、皆私のアドバイスをよく聞いてくれた(強いチームではない)。ここでは余談だがこのボランティアコーチが修士課程の2学期からは正式な大学院アシスタントに変わり、おかげで学費が免除になった。(修士・博士課程入学・学費免除の戦略はこちらを参照)

修士課程に合格

ともかく努力を重ね、なんとか全ての授業でB以上の成績を頂き、修士課程への入学が決まった。英語のレベルを考えても、間違いなく誰よりも授業に時間を使った。長い道であったのだが、勉強にコーチにと日々忙しかったので、振り返れば履修生の1学期間は短かったようにも感じる。

誰にでも「夢」は叶う

「英語が苦手」という理由で留学を諦める人は、多いかもしれない。だが、英語が出来ないから留学を諦める、という方程式にはならない。この記事を読まれている皆様の英語はきっと、留学前の私とは比べ物にならない程上手であろう。私は留学を決めてからひたすらに勉強し大学教員まで辿り着いた。そこでこんな言葉を読者の皆様に送りたい。"If I can do it, anybody can do it." 受験経験もなくセンター試験すらよくわかっていない私が留学出来るのだから、皆様に出来ない事はないと強く思う。留学は、今までの私の人生で1番良い決断であり、同時に1番恐ろしい決断でもあった。留学は、決して派手ではない。むしろ地味な勉強の嵐だ。しかし、夢を叶えたいと思う皆様が、この記事を読み、人生を大きく変える転機に留学する勇気を持って頂けるなら、これほど嬉しいことはない。もう1度、皆様にお伝えしたい。「夢」は叶う。次号の修士課程から現在の教員の仕事までの記事を書かせて頂くのでそちらも見て頂きたい。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)