オーストラリアでの文系大学院留学

ニューサウスウェールズ大学中央図書館前にて

紆余曲折ありつつ40歳を目前にオーストラリアで博士課程にチャレンジすることにした自分の体験に、正直、どれだけの普遍性があるのかは分からない。しかし、かつて僕がそうであったように、これから挑戦すべきかどうか悩んでいる人の参考に少しでもなれれば嬉しく思う。

ロシアからオーストラリアへ

自分が今、シドニーで博士課程に所属しているなんて大それたことは10年前、いや5年前にもとても想像がつかなかった。そもそも僕は、英語圏にも南半球にもまったく縁のない人生を歩んできた。大学は外国語学部ロシア語学科。大学2年の夏休みにロシアで3週間ほどの語学研修に参加したのがはじめての海外体験だった。その後、大学3年のとき1年間休学し、サンクトペテルブルク国立大学に語学留学をした。帰国後もアルバイトを掛け持ちして資金を稼いでは、長期休みの度にロシアとその周辺をフラフラとあてもなく旅をする大学生活だった。卒業後はロシアで生活したいと思って外務省在外公館派遣員制度に応募、モスクワにある在ロシア日本国大使館に2年間の職を得た。

そろそろ任期満了が視野に入ってきた頃、「ロシアにおける日本文化フェスティバル」という大型の日本文化紹介イベントがあった。それまで海外にばかり目が向いていたが、これがキッカケとなり日本文化の面白さに目覚めた。国際交流基金という組織の存在もその時に初めて知り興味を持った。ちょうど、僕が日本に帰国してすぐにロシア語専門枠で中途採用の募集があり、運良く潜り込むことに成功した。

というわけで、地域的にはロシアやヨーロッパ、分野的には舞台芸術に興味があって就職した組織だったので、入社4年ほどして突然シドニーへの転勤を命じられたときには心底驚いた。オーストラリアに関する知識もほぼゼロ。飛行機のチケットを受けとってはじめて東京からシドニーまで9時間もかかることを知って驚いたくらいだ。こうして30歳にして初めてオーストラリアの大地を踏むことになった。

Fig1. シドニー市街遠景。研究の合間の息抜きには少し足を伸ばして新鮮な空気を。

駐在員しながら修士にチャレンジ

着任したシドニー日本文化センターではオーストラリアの日本語教育を支援する仕事を担当することになった。慌ただしくも充実した毎日だったが、1年ほどして少し自分を客観視する余裕が出てくると、自らの底の浅さが痛感されるようになった。外国語学部出身であるので、もともと言語と言語教育には人一倍興味はある。しかし、これまでの限られた経験と知識を頼りに仕事をしていくだけでは、自分がすり減って無くなってしまうような気がした。もっと体系的なインプットが必要ではないか……。

ちょうどそんな風に思い悩んでいたとき、Open Universities Australiaという通信教育の宣伝が一面に描かれたバスが目の前を通り過ぎた1。いつかちゃんと勉強したいと思っていた応用言語学の修士課程に挑戦するチャンスなのかもしれない。とはいえ、なかなか思い切りがつかずしばらく逡巡していたが、働きながら博士号を取得した会社の大先輩のアドバイスで決心がついた。曰く、「重い荷物は片手でひとつだけ持つとバランスが取りづらい。でも、思い切って両手にひとつずつ持つことで上手くいくこともある。もし重すぎたら一旦おろして休憩すればよい」。はじめての英語での勉強、大量の課題。かなりしんどかったが、なんとかモナシュ大学が提供する1.5年のコースを3年かけて修了した。ひと回り成長した手応えのようなものを感じた。

実は、僕の言語学への憧れは大学学部生時代に遡る。副専攻として履修したいと思っていた。しかし、周囲の「言語学なんかやっても意味ない」「就職につながらない」などという意見に流されて諦めてしまった。その後悔がずっとどこかにあった。思い切って修士をやってみて実感したのは、「学び終わるまで、そこで何を学ぶことになるか、学び始める前の自分には分からない」ということだった。どんな分野であろうとワクワクする事を追求することで想像もしなかったブレイクスルーがあり、新しい景色が眼前に広がると今では確信している。


1 イギリスのThe Open Universityとは異なり、Open Universities Australia (https://www.open.edu.au)は単独の大学ではなく、様々な大学がオンラインコースを提供するポータル的な組織。学位は各大学から授与される。

そして、博士課程へ

その後、6年の長きに亘ったシドニーでの駐在員生活を終え再び日本に戻って働き始めた。しかし、オーストラリアの日本語教育に関する様々な疑問をもっと深く追求したいという思いが日々強くなっていった。ただ、40歳を目前にして約13年勤めた安定した仕事を手放す不安も大きかった。職場では中堅として、やりがいのある仕事が出来るようになっていたし、国際文化交流という刺激的な業務内容にも後ろ髪を引かれた。さらに、現実問題として博士号を取ったからといって就職口があるとも限らない。しかし、ここで学部生のときのように再び諦めたら一生後悔すると思い、最終的に次のステップに進む決断をした。

さて、留学を検討するにあたり、何をどこで勉強するかというのは重要な検討事項だろう。僕の場合は、すでに前職の経験から研究したいことはある程度決まっており、幸いなことにその分野で第一人者の先生と面識があった。さらに、ちょうどニューサウスウェールズ大学(以後、UNSW)で新たな奨学金のスキーム2が始まるというタイミングだったこともあり、それにチャレンジすることに目標を定め準備を進めた。

入学資格について。さきほど僕はオーストラリアの通信教育で修士号を取得したと書いたが、これは「コースワーク」という修士論文を書かず規定の科目を履修することで授与される修士号だった (Master by Coursework)。通常はこのコースワークだけでは博士課程進学の要件を満たさない3。他に、研究論文作成が中心となる修士課程もあり、Master by Research (MRes)やMaster of Philosophy (MPhil)と呼ばれる。マスターからはじめて途中でPhDにアップグレードするケースもある。

では、コースワークしかやっていない僕がどうして博士課程入学が認められたかというと、基本的には職歴換算だ。研究分野に関係がある仕事をしていたことに加え、短い実践報告ではあるが紀要に2本投稿していたことが幸いした。このように柔軟に対応してもらえる場合もあるので、簡単に諦めずに、まずはよく調べて、その上で希望の進学先に相談してみてはどうかと思う。オーストラリアの大学の門は拒むために閉ざされているのではなく、迎え入れるために広く開かれていると感じる。人種的にも言語的にも実に多様性があり、様々な人生経験を持った幅広い年齢の学生がいる。


2 Scientia PhD Scholarships (https://www.scientia.unsw.edu.au/scientia-phd-scholarships)。現在募集休止中。

3 ただし、コースワークでもリサーチ・プロジェクトでまとまった論文が課される場合、認められることもある。

オーストラリアの文系大学院生生活

Fig2. Faculty of Arts & Social Sciencesと満開のジャカランダ

もちろんどこの国でもそうだとは思うが、原則として授業がないオーストラリアの文系博士課程では、特に自己規律が求められるように思う。スーパーバイザーの指導の下、基本的に自分で粛々と研究を進めることになる。最初の1年目は文献調査を進めながら研究計画を練り上げることに費やされる。UNSWでは約1年が終了した時点でConfirmation of Candidatureという公開発表とパネルによる諮問があり、それをパスすることで晴れて博士候補生 (PhD Candidate)となる。それ以降は、年に1回、進捗状況確認のためレビューが行われるのみだ4。そんな調子であるので、自分で計画を立てて、着実に進めて行く必要があり、自己管理がとても重要になる。指導教官との面談の回数もひとそれぞれで、1ヶ月に1回は会うという学生もいれば、半年や1年に1回しか会わないというケースもある。自分から喰らい付いていく気概が必要だ。

博士課程では、もちろん博士論文というおそらく人生で一番大きな論文を書き上げるのが最大の山場ではあるが、試行錯誤も含めてトレーニングのプロセスだと感じる。ただでさえ大仕事である博士論文執筆。それに加えて母語ではない言葉で読み、書くという作業はとても時間がかかる。ワンパラグラフ書くのに何日も苦しむこともある。なんとか振り絞るように書いても、英文校閲が待っている。しかしそれはハンデであると同時に、深く考える糸口でもある。最終的には自分の研究力、つまり研究内容がしっかりしていて言いたいことがあることが大切になる。言語の問題を抜きにしても、研究は一筋縄では行かない。僕の場合はコロナ禍により、研究計画に大幅な変更が必要になった。もちろん落ち込むし、本当に自分にやりきれるのかと不安になることもしばしばだ。コロナは特殊な例かもしれないが、平時であっても研究は計画どおりに行くとは限らない。しかし、壁にぶち当たることが新しい知識を得る機会となったり、ブレイクスルーにつながったりするかもしれない。

このように、山あり谷ありの博士課程。そんなときには身を置く環境がとても大切になる。幸いなことにここシドニーは自然も多く、少し足を伸ばせばビーチや国立公園で気軽に気分転換ができる。空が青くて広い。人は優しく、食事もワインも美味しい。そして、学ぶことに対してとても間口が広い。一流の研究者が多く、学ぶ環境が整っている。何歳からでも学び直し、やり直すことを応援する土壌がある。資金面でも、いろいろな種類の奨学金があり、多くの留学生が何らかのサポートを得ている。自分には無理だと決めつけず可能性を探ってみて欲しい。きっと可能性が開けると思う。これから博士課程挑戦を検討されている方は、オーストラリアも視野に入れてみてはいかがだろうか。


4 進捗管理の方法は大学によっても異なる。例えばシドニー工科大学ではStage 1がUNSWのConfirmationに相当、これをパスするとデータ収集のステップとなる。そして、修了1年ほど前にStage 2という次の大きなマイルストーンあり、そこではデータ分析などもかなり進んである程度執筆できていることが確認される。これ以後、博士論文を書き上げる最終段階に入る。

関連動画:2020冬 – 専門別:文系 – 海外大学院留学説明会(オーストラリアは34:03から)https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

中島 豊(ナカジマ ユタカ)
上智大学外国語学部ロシア語学科卒。ニューサウスウェールズ大学博士課程在学。

作成者: Masashi Otani

アリゲーター🐊が大学のマスコットであるUniversity of Floridaでバイリンガル教育について研究しているPhD生。 2013年3月、創価大学国際言語教育専攻英語教育専修(TESOL)修士課程を修了。同大学ワールドランゲージセンター助教を経て、2016年7月に渡米。翌月よりフロリダ大学教育大学院教職研究科バイリンガル教育専攻にてPhD課程に在籍。現在はQualifying Exams(通称クオール)に合格してPhD Candidate(2021年8月の卒業が目標)。日本ではTESOLを専門分野としていたが、渡米後はバイリンガル教育という観点から一つの言語にとらわれずに専門性を磨いている。指導教授は、オランダ出身で、過去にTESOL International Association会長を務めたことのあるエスタ・ディヨン博士。指導教授による厳しい訓練の結果、日本では専門外であった小学校教員養成課程の授業を5セメスターに渡って担当する機会に恵まれた。留学経験はアメリカ以外にも、オーストラリアとメキシコでの経験がある。