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Masashi Otaniについて

アリゲーター🐊が大学のマスコットであるUniversity of Floridaでバイリンガル教育について研究しているPhD生。 2013年3月、創価大学国際言語教育専攻英語教育専修(TESOL)修士課程を修了。同大学ワールドランゲージセンター助教を経て、2016年7月に渡米。翌月よりフロリダ大学教育大学院教職研究科バイリンガル教育専攻にてPhD課程に在籍。現在はQualifying Exams(通称クオール)に合格してPhD Candidate(2021年8月の卒業が目標)。日本ではTESOLを専門分野としていたが、渡米後はバイリンガル教育という観点から一つの言語にとらわれずに専門性を磨いている。指導教授は、オランダ出身で、過去にTESOL International Association会長を務めたことのあるエスタ・ディヨン博士。指導教授による厳しい訓練の結果、日本では専門外であった小学校教員養成課程の授業を5セメスターに渡って担当する機会に恵まれた。留学経験はアメリカ以外にも、オーストラリアとメキシコでの経験がある。

紆余曲折ありつつ40歳を目前にオーストラリアで博士課程にチャレンジすることにした自分の体験に、正直、どれだけの普遍性があるのかは分からない。しかし、かつて僕がそうであったように、これから挑戦すべきかどうか悩んでいる人の参考に少しでもなれれば嬉しく思う。

ロシアからオーストラリアへ

自分が今、シドニーで博士課程に所属しているなんて大それたことは10年前、いや5年前にもとても想像がつかなかった。そもそも僕は、英語圏にも南半球にもまったく縁のない人生を歩んできた。大学は外国語学部ロシア語学科。大学2年の夏休みにロシアで3週間ほどの語学研修に参加したのがはじめての海外体験だった。その後、大学3年のとき1年間休学し、サンクトペテルブルク国立大学に語学留学をした。帰国後もアルバイトを掛け持ちして資金を稼いでは、長期休みの度にロシアとその周辺をフラフラとあてもなく旅をする大学生活だった。卒業後はロシアで生活したいと思って外務省在外公館派遣員制度に応募、モスクワにある在ロシア日本国大使館に2年間の職を得た。

そろそろ任期満了が視野に入ってきた頃、「ロシアにおける日本文化フェスティバル」という大型の日本文化紹介イベントがあった。それまで海外にばかり目が向いていたが、これがキッカケとなり日本文化の面白さに目覚めた。国際交流基金という組織の存在もその時に初めて知り興味を持った。ちょうど、僕が日本に帰国してすぐにロシア語専門枠で中途採用の募集があり、運良く潜り込むことに成功した。

というわけで、地域的にはロシアやヨーロッパ、分野的には舞台芸術に興味があって就職した組織だったので、入社4年ほどして突然シドニーへの転勤を命じられたときには心底驚いた。オーストラリアに関する知識もほぼゼロ。飛行機のチケットを受けとってはじめて東京からシドニーまで9時間もかかることを知って驚いたくらいだ。こうして30歳にして初めてオーストラリアの大地を踏むことになった。

Fig1. シドニー市街遠景。研究の合間の息抜きには少し足を伸ばして新鮮な空気を。

駐在員しながら修士にチャレンジ

着任したシドニー日本文化センターではオーストラリアの日本語教育を支援する仕事を担当することになった。慌ただしくも充実した毎日だったが、1年ほどして少し自分を客観視する余裕が出てくると、自らの底の浅さが痛感されるようになった。外国語学部出身であるので、もともと言語と言語教育には人一倍興味はある。しかし、これまでの限られた経験と知識を頼りに仕事をしていくだけでは、自分がすり減って無くなってしまうような気がした。もっと体系的なインプットが必要ではないか……。

ちょうどそんな風に思い悩んでいたとき、Open Universities Australiaという通信教育の宣伝が一面に描かれたバスが目の前を通り過ぎた1。いつかちゃんと勉強したいと思っていた応用言語学の修士課程に挑戦するチャンスなのかもしれない。とはいえ、なかなか思い切りがつかずしばらく逡巡していたが、働きながら博士号を取得した会社の大先輩のアドバイスで決心がついた。曰く、「重い荷物は片手でひとつだけ持つとバランスが取りづらい。でも、思い切って両手にひとつずつ持つことで上手くいくこともある。もし重すぎたら一旦おろして休憩すればよい」。はじめての英語での勉強、大量の課題。かなりしんどかったが、なんとかモナシュ大学が提供する1.5年のコースを3年かけて修了した。ひと回り成長した手応えのようなものを感じた。

実は、僕の言語学への憧れは大学学部生時代に遡る。副専攻として履修したいと思っていた。しかし、周囲の「言語学なんかやっても意味ない」「就職につながらない」などという意見に流されて諦めてしまった。その後悔がずっとどこかにあった。思い切って修士をやってみて実感したのは、「学び終わるまで、そこで何を学ぶことになるか、学び始める前の自分には分からない」ということだった。どんな分野であろうとワクワクする事を追求することで想像もしなかったブレイクスルーがあり、新しい景色が眼前に広がると今では確信している。


1 イギリスのThe Open Universityとは異なり、Open Universities Australia (https://www.open.edu.au)は単独の大学ではなく、様々な大学がオンラインコースを提供するポータル的な組織。学位は各大学から授与される。

そして、博士課程へ

その後、6年の長きに亘ったシドニーでの駐在員生活を終え再び日本に戻って働き始めた。しかし、オーストラリアの日本語教育に関する様々な疑問をもっと深く追求したいという思いが日々強くなっていった。ただ、40歳を目前にして約13年勤めた安定した仕事を手放す不安も大きかった。職場では中堅として、やりがいのある仕事が出来るようになっていたし、国際文化交流という刺激的な業務内容にも後ろ髪を引かれた。さらに、現実問題として博士号を取ったからといって就職口があるとも限らない。しかし、ここで学部生のときのように再び諦めたら一生後悔すると思い、最終的に次のステップに進む決断をした。

さて、留学を検討するにあたり、何をどこで勉強するかというのは重要な検討事項だろう。僕の場合は、すでに前職の経験から研究したいことはある程度決まっており、幸いなことにその分野で第一人者の先生と面識があった。さらに、ちょうどニューサウスウェールズ大学(以後、UNSW)で新たな奨学金のスキーム2が始まるというタイミングだったこともあり、それにチャレンジすることに目標を定め準備を進めた。

入学資格について。さきほど僕はオーストラリアの通信教育で修士号を取得したと書いたが、これは「コースワーク」という修士論文を書かず規定の科目を履修することで授与される修士号だった (Master by Coursework)。通常はこのコースワークだけでは博士課程進学の要件を満たさない3。他に、研究論文作成が中心となる修士課程もあり、Master by Research (MRes)やMaster of Philosophy (MPhil)と呼ばれる。マスターからはじめて途中でPhDにアップグレードするケースもある。

では、コースワークしかやっていない僕がどうして博士課程入学が認められたかというと、基本的には職歴換算だ。研究分野に関係がある仕事をしていたことに加え、短い実践報告ではあるが紀要に2本投稿していたことが幸いした。このように柔軟に対応してもらえる場合もあるので、簡単に諦めずに、まずはよく調べて、その上で希望の進学先に相談してみてはどうかと思う。オーストラリアの大学の門は拒むために閉ざされているのではなく、迎え入れるために広く開かれていると感じる。人種的にも言語的にも実に多様性があり、様々な人生経験を持った幅広い年齢の学生がいる。


2 Scientia PhD Scholarships (https://www.scientia.unsw.edu.au/scientia-phd-scholarships)。現在募集休止中。

3 ただし、コースワークでもリサーチ・プロジェクトでまとまった論文が課される場合、認められることもある。

オーストラリアの文系大学院生生活

Fig2. Faculty of Arts & Social Sciencesと満開のジャカランダ

もちろんどこの国でもそうだとは思うが、原則として授業がないオーストラリアの文系博士課程では、特に自己規律が求められるように思う。スーパーバイザーの指導の下、基本的に自分で粛々と研究を進めることになる。最初の1年目は文献調査を進めながら研究計画を練り上げることに費やされる。UNSWでは約1年が終了した時点でConfirmation of Candidatureという公開発表とパネルによる諮問があり、それをパスすることで晴れて博士候補生 (PhD Candidate)となる。それ以降は、年に1回、進捗状況確認のためレビューが行われるのみだ4。そんな調子であるので、自分で計画を立てて、着実に進めて行く必要があり、自己管理がとても重要になる。指導教官との面談の回数もひとそれぞれで、1ヶ月に1回は会うという学生もいれば、半年や1年に1回しか会わないというケースもある。自分から喰らい付いていく気概が必要だ。

博士課程では、もちろん博士論文というおそらく人生で一番大きな論文を書き上げるのが最大の山場ではあるが、試行錯誤も含めてトレーニングのプロセスだと感じる。ただでさえ大仕事である博士論文執筆。それに加えて母語ではない言葉で読み、書くという作業はとても時間がかかる。ワンパラグラフ書くのに何日も苦しむこともある。なんとか振り絞るように書いても、英文校閲が待っている。しかしそれはハンデであると同時に、深く考える糸口でもある。最終的には自分の研究力、つまり研究内容がしっかりしていて言いたいことがあることが大切になる。言語の問題を抜きにしても、研究は一筋縄では行かない。僕の場合はコロナ禍により、研究計画に大幅な変更が必要になった。もちろん落ち込むし、本当に自分にやりきれるのかと不安になることもしばしばだ。コロナは特殊な例かもしれないが、平時であっても研究は計画どおりに行くとは限らない。しかし、壁にぶち当たることが新しい知識を得る機会となったり、ブレイクスルーにつながったりするかもしれない。

このように、山あり谷ありの博士課程。そんなときには身を置く環境がとても大切になる。幸いなことにここシドニーは自然も多く、少し足を伸ばせばビーチや国立公園で気軽に気分転換ができる。空が青くて広い。人は優しく、食事もワインも美味しい。そして、学ぶことに対してとても間口が広い。一流の研究者が多く、学ぶ環境が整っている。何歳からでも学び直し、やり直すことを応援する土壌がある。資金面でも、いろいろな種類の奨学金があり、多くの留学生が何らかのサポートを得ている。自分には無理だと決めつけず可能性を探ってみて欲しい。きっと可能性が開けると思う。これから博士課程挑戦を検討されている方は、オーストラリアも視野に入れてみてはいかがだろうか。


4 進捗管理の方法は大学によっても異なる。例えばシドニー工科大学ではStage 1がUNSWのConfirmationに相当、これをパスするとデータ収集のステップとなる。そして、修了1年ほど前にStage 2という次の大きなマイルストーンあり、そこではデータ分析などもかなり進んである程度執筆できていることが確認される。これ以後、博士論文を書き上げる最終段階に入る。

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会(オーストラリアは34:03から)https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

中島 豊(ナカジマ ユタカ)
上智大学外国語学部ロシア語学科卒。ニューサウスウェールズ大学博士課程在学。

博士課程出願まで(学部生時代〜修士課程進学まで)

もともと中国の文化や文学、漢字や中華料理が大好きだった私は、2008年に創価大学法学部法律学科入学したあと、中国について研究するサークルである中国研究会に入部した。そこで中国の歴史や文化について理解を深め、大学3年次の2010年9月に、人生初の外国訪問ともなったが、1週間の日程で北京と天津をサークルのメンバーとともに訪問する機会を得た。これを機に大学4年次の2011年に休学し、北京外国語大学漢語学院に語学私費留学をした。この10ヶ月間は、中国語を学ぶほか合間を見ては中国の名所なども観光した。

そして、帰国後就職活動などをするが、その中でもっと学びたいと言う思いが強くなり大学院への進学を考える。しかし、そこから先のキャリアを考えたときになかなか大学院進学へ切り替えることはできなかった。卒業が近くなり大学院進学へ切り替えたのは、北京の語学留学で感じた北京という場所の居心地の良さともっと学びたいという私の中にあるどうしようもない思いがあったからだった。また、中国で国際関係を勉強することは、欧米で研究するよりもより近い距離で研究でき、かつ中国のことを深く知る中で研究できることが強みである。そして、2013年3月、創価大学法学部法律学科卒業後、大学院に向けての浪人生活に入った。

中国の大学院に進学するためには、まず、その授業を聴講できるだけの語学力を有することを証明する資格を取得しなければならない。私は創価大学卒業の時点で中国語の能力を有する客観的な資格を有していなかったために、創価大学を卒業した年の6月に漢語水平考試(HSK)6級を受験。300点満点中186点(合格ライン180点)で取得した。そして、それ以降は我が家の経済状況で大学院の学費を捻出することは不可能であるため、寮費、学費免除、生活費を支給される中国政府奨学金留学生としての修士課程留学を目指し、出願の準備に入った。

翌2014年2月に、中国政府奨学金留学生選考に出願。3月には同選考の書類審査合格の通知を受け取り、4月に日本における候補者を専攻する機関である文部科学省の庁舎にて面接試験を行い通過。7月には北京外国語大学国際関係学院修士課程より合格通知受け、8月に渡航し、人生で2回目の留学となる修士課程へ進学した。

博士課程出願まで(修士課程)

私が進学した当時、北京外国語大学国際関係学院修士課程は、3年課程であった(現在は欧米に倣い2年に変更)。2年間は授業があり、ここで文献を講読し授業内でプレゼン発表や学期末はレポート課題が課される。3年次は1年間論文執筆に充てられ、授業はない。字数は主に、中国語で3000字から8000字である。ちなみに中国の学部生が卒業論文で要求される字数は8000文字から1万字であり、修士論文は3万文字以上書くことが要求される。私は修士論文では、1972年の日中国交正常化にあたって影響を及ぼした人物や団体について研究し、2017年6月に修士課程を修了。修了後すぐに日本に帰国した。

Fig1. 周恩来総理や毛沢東主席も撮影した写真館の前で 2018年11月 北京・王府井にて

博士課程出願

当初は帰国後、日本での就職を考えていたが就職活動などをしていくうちに語学留学とは違い3年間北京で過ごしたことにより日本の生活には慣れず、また、そのような筐体で就職活動をしても結果は芳しくなかった。そうした中で私は3年間修士課程を過ごした北京の地に戻りたいという思いが強くなり、以前から興味があった外務省在外公館専門調査員採用試験に出願し、その年の10月に筆記試験を受験。筆記試験は合格したものの、その翌月の面接試験にて不合格。このときに私は、修士論文を短いと感じたことからも、もっと勉強しようと博士課程への進学を決めた。翌2018年1月に、2度目の中国政府奨学金留学生選考に出願。3月に書類審査合格の通知を受ける。今回は文部科学省ではなくお台場の国際交流館プラザ平成で面接試験を受け、4月、面接試験合格通知を受ける。5月、オンラインにて、現在の指導教官である黄大慧教授と面接した。黄先生と面接した経緯は、私が出願段階で提出した研究計画書に当初は現在の研究テーマとは違い1950年代の日中関係に多大な貢献をした郭沫若について研究したいと書いたことから、中国人民大学国際関係学院で博士論文の指導ができる教授の中で日本への留学経験もあり日中関係を専門としていることから面接することとなったというものであった。その翌月には文部科学省の通知を前に大学より直接合格の連絡を受け、8月に文部科学省を経由し合格通知の書面を正式に受領し、2度目の中国政府奨学金留学生として博士課程への留学が決まった。そして、9月5日に渡航し、博士課程に入学した。

中国の博士課程の生活

現在私の在籍する中国人民大学国際関係学院博士課程は4年過程で、1年目は授業を受ける。ここでは修士課程と同様にレポート課題や発表がある。博士課程は修士課程以上に学位論文の執筆がメインとなるために、博士課程では入学のときにある程度の学位論文のテーマを決めておく必要ある。そして、自分の研究テーマに沿ったレポートや発表をすることが要求される。また留学生は中国の規定に基づき、中国語の文章の書方の授業と中国文化、中国政治を学ぶ授業がある。

2年次の前期期末には、全学部共通で博士論文執筆能力があるかどうかを確認するために総合試験が課される。これは文献を提示されその範囲の中から質問を出され論述する試験と面接試験がある。これに合格しなければ博士学位論文を書くことはできない。私のいる大学では、留学生の場合論述試験は資料の持ち込みは可、面接試験では不可。もし答えられない場合は、別の質問がされる。

中国文系大学院博士課程進学のために、2年目の後半には正式に博士学位論文のテーマ設定を行い複数の教授陣による面接を受ける。本来は2年次の6月中であるが、今年は新型コロナウィルスの感染拡大の影響で10月〜11月に実施した。なお私のいる大学の博士課程では面接の際に研究計画書を作成するが、主要参考文献を含め中国語で6000文字以上書くことが要求される。3〜4年次は論文執筆がメインとなる。授業での単位取得を除く博士課程の修了要件学位論文(中国語で12万文字以上)を完成させ、かつ学術雑誌に2本以上の掲載である。2本とも最低8000文字以上で、掲載される雑誌の1冊は大学が指定する表に掲載の雑誌に掲載され、発表した2本の論文のうちの1本は個人で作成した論文でなくてはならない。この2つの条件を満たした場合、博士学位論文の口頭試問を受けることができ、口頭試問を合格することで博士号の学位が授与される。

Fig2. 中日外交史の授業にて発表 2019年5月30日 中国人民大学にて

中国文系大学院博士課程進学のために

中国の文系大学院に進学するには何と言ってもまずは、HSK6級を取得することが重要である。そして、しっかりテーマに関して事前に勉強することが、大学院での勉強−特に博士課程では重要である。特に博士課程では専門的な事項とともに基礎学力も要求されるために、専門分野に関する基本的な事項はマスターしておく必要がある。

最後に、私は中国政府奨学金で進学したが、同制度で留学を考えている場合に何が必要かということについて記しておきたい。まずは大量の書類の提出が要求されるので、しっかり募集要項を読み込み書類の準備に当たること。高校からの卒業証明、成績証明が必要になる。次に面接試験は主に中国語で行われるため、スピーキング力も大事になる。そして、希望大学は第3希望まで出せるが、希望通りにならないこともある。特に毎年、北京と上海は人気で、希望者が多い。

専攻中国政府奨学金で博士課程に進学する場合は修士課程と同じ専攻であることが要求される。

以上、中国文系大学院博士課程について書かせていただいたが、これを参考に修士後のキャリア設計に役立てていただければ幸いである。

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会(中国は1:04:08から)https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

伊藤 一城(イトウ カズシロ)
2013年3月創価大学法学部法律学科を卒業。2014年9月に中国政府奨学金留学生選考に合格し北京外国語大学国際関係学院に進学(国費留学)。2017年6月に同大学修士課程を修了。2018年中国政府奨学金留学生選考に合格し同制度を利用して中国人民大学国際関係学院博士課程に進学。

新型コロナウイルスが猛威を振るっており、進学や留学でも大きく影響されている人も多い事かと思います。これに関して「1655年にはペストが大流行した。当時ケンブリッジ大学の学生であったアイザック・ニュートンは、2年ほど田舎に疎開したときに、リンゴが落ちるのを目撃して万有引力など物理学の驚異的な業績を上げた。これを創造的休暇と呼ばれる。」というような美談はよく引用されるが、正直、歴史上の出来事で偉大過ぎて実感がわきにくいと思います。今回はこの場をお借りし、偶然にも同じくケンブリッジ大学で物理学の研究を行っていた筆者の体験を共有したいと思います。お付き合いいただければ幸いです。

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確か大学2年生の4月の事であった。大学入試で第一志望に落ち、喪失感にさいなまれていた私は、海外の大学院に進学する方法があることを知った。上手くやれば多くの外国では大学院生は労働者として扱われ、給料も支払われ学費も掛からないらしい。それには主に準備できることは、評定平均(GPA)を上げることとTOEFL iBTのテストのスコアであった。

英語は入学試験の際に勉強こそしたものの、学校名を検索すると関連に「ヤンキー」と表示される全国でも有数の荒れた地域の公立中学の英語の授業にもついていけずに、英作文で"He will is be going~"などと書いているレベルで全国模試の偏差値も30未満。親戚にも大学院はおろか大卒もほぼおらず、英才教育とは勿論無縁。受験の際にどうしても行きたかった予備校の費用の一部は、お年玉で払う状態。言うまでもなく純ジャパ。大学生2年生の時点で、パスポートも持っていなかった。そんな私にとってTOEFL iBTのスコアなんて、頂上が雲の上で見えもしない崖を、素手でよじ登るようなものであった。

さらに日本の大学の試験は何ともやる気が出ず、受験に代表される実力筆記試験文化になじんでいた当時の私は、学部1年生のGPAはオールB程度の3前後であった。一般的な海外有力大学の最低ライン言われるGPA3.6に到達するには、少なくとも3年前期までほぼオールAで行かないと到達できない計算であった。結果が変わるわけもないのに、事あるごとに評定平均を電卓で計算した。テスト範囲のある試験が出来て何になるのか?と斜に構えていた数か月前の自分を殴り倒してやりたいほどであった。GPAが低くても合格した人の話などを探し、無理やり希望を見出していた。

評定平均を高く保ちつつTOEFLのスコアもあげ、卒業研究も真剣に行い、どうにかこうにかアメリカの大学院の出願にこぎつけたが、当時はリーマンショック直後で財政的に厳しい情勢であった。結局、合格自体は出たもののRA等は全くつかず、事実上の不合格であった。当時は奨学財団の奨学金なんて天才しか受からないと思い、出願さえもしていなかった。

スコアや努力という主観的な要素ではない。時代のタイミングという、どうにもならない大きな力が原因であった。なんとも行き場のない思いに苛まれた。東日本大震災による混乱に巻き込まれる中、この時リーマンショック自体も、それに影響される奨学金も、世の中、金が勝負を分けることがあることも思い知らされた。

念ため出願していた修士課程に進学した。助成金を獲得し国際会議で発表。研究助成金を獲得し、後の進学先となる研究室に自力で交渉しインターンを行った。貪欲に有利になりそうなことは何でも行い、TA等も積極的にこなした。

前回の失敗を生かし用意周到に準備をした結果、PhDの出願の際には、奨学財団の留学奨学金にいくつも内定し、最終的に船井情報科学振興財団やブリティッシュカウンシル日本協会の奨学生として採用され、かつノーベル賞輩出数が世界最多の研究所であるケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のWinton Programme for the Physics of Sustainabilityという特待生制度にも日本人で初めて採用されて海外の大学の博士課程の進路を知り準備開始5年半の後、念願がかなって進学することとなった。

ケンブリッジ大学ではいろいろと衝撃を受けた。天は何物をも与えまくったような信じられないくらい多才で性格もいい人も多数。他国の皇族や貴族の末裔の学生も多くいた。人生のスタートラインとバックアップの環境が、自分とは何次元も違うような人々も数えていたらきりがないほどだ。他にも20代前半で教員になっているものなど、異星人のようなタイプも多く見かけた。自分の凡人さを改めて自覚する日々であった。

研究分野は量子物理学の物性物理。行っていた物質の合成実験で、結果が出たのちに、まとめる段階で再現性が取れないことが判明し、約2年分の研究が丸々無駄になった。進学前には全く聞いていなかった途中ではラボの引っ越しがあったり、実験装置が来るのが遅れ、大規模な故障も起こり、まさに踏んだり蹴ったりであった。自分のテーマではなく、手伝いをした人達の研究は軒並みうまくいった。やれやれである。運も実力のうちといわれてしまえばそれまでだが、サボっているわけではないし、能力的なものでもない(と見ていて少なくとも自分ではそう思っている)。しかし客観的には、当てない限り何もやっていない状態と大差がなくなるタイプの研究は精神的にくるものがあった。一回一回のプロセスに時間がかかり、回数が限られるためにバクチの要素の強くなる傾向にある基礎研究よりも、研究のサイクルが短く、多く発表ができる分野が羨ましく映った。

一方で、分かりづらくサイクルが長い研究を行ったことがきっかけで行ったことも多い。そもそも量子物理学の基礎分野なんて、同じ分野の人でも分かりづらい。立食パーティーやディナーの際にバイオや法律、MBAなど他専攻の人に説明しても”That’s Interesting(それは面白いといってはいるが実際は興味ないです。それ以上続けないでくださいの意味)”といわれる程である。

どうにか面白く分かってもらえないかと「分かりやすい発表とは何か?」を追究した結果、アウトリーチプレゼン大会のネイティブスピーカーを抑えて最優秀賞を何度か受賞、マイケルファラデーがロウソクの講演をしたことで知られるFaraday Lecture Theatre at Royal Institutiton of Great Britainやサッチャーやホーキング等名だたる歴史上の人物が講演したCambridge Unionでの講演の機会にも恵まれた(Fig1)。

Fig1. Three Minute Wonder 決勝にて。Royal Institution of Great Britain

ケンブリッジ大学の生活で得たものも多かったが、先述のように博士課程において最重要な研究自体がうまく行っていなかったわけである。そのため卒業も遅くなった(Fig2, Fig3)。VISAが失効になり、一時国外退去勧告になるほどであった。特に課程終了間際ではPhD取得が確定するまでは、その後のことについて考えられる余裕もなく、手も出せない状況であった。よってPhD取得直後に置かれている状況は、見方によっては「30歳・無職・シャカイジンケイケン無し」であった。無敵に近い強烈なプロフィールである。今思えばコーヒーのシミがついたよれよれのスウェットで、昼過ぎから駅前のゲーセンのメダルコーナーに連日入り浸りタバコをふかしていたりしていたら、より強くなっていたかもしれない。

Fig2. 博士論文の提出。直後に友人たちにシャンパンをかけてもらった。
Fig3. ラテン語で行われる卒業式の儀式

就活中とはいえ、数か月間の無職生活というものは暇なものであった。この暇を利用して、今後幅広く利用できると考えた基本的な機械学習を独習した。強化学習を駆使した自動でゲームが強くなるエージェントプログラムを回し続け、育てていた。この経験も業務にも生きている。なお就職こそしなかったものの、機械学習エンジニアとしてもオファーもいただいた。

紆余曲折はあったが、外資系の日本支社へ就職した。この時の私は「せっかく外国でも認められ始めた矢先にグローバルキャリアは終わった」と内心諦めていた。それでも入社後半年以内にはグローバルプロジェクト(本社案件)に早々に参画することになり、海外出張が続いた。どちらかというと海外進出したというよりも、むしろ日本に一時帰国をしたものの、再びグローバル社会へ呼び戻された感覚であった。これも外国で博士時代に身に着けたものが身を助けた形であった。

そして昇進もして勢いに乗って来たと思っていた矢先、今度は新型コロナウイルスの影響で、海外プロジェクトが軒並み延期・中止になり、引きこもり生活を余儀なくされた。大学を卒業し、無職生活を行った後に、やっと働き始めたかと思ったら、今度は強制引きこもりである。

慣れなのか、それとも麻痺なのか、内心「ああ、またか」と思っていた。現在は引きこもり生活を利用し今後に備え、国際的に通用する資格(いわゆる国際資格)を、既にいくつか取得した。他にも今出来ることに集中して取り組むことにしている。

世の中とは不平等なものである。どうやっても王子や貴族にはなれないし、人種の優位性を身に着けることもできない。今置かれた状況を嘆いても仕方がない。それがたとえ何の前触れもなく起きた世界的なパンデミックであったとしても。どうあがいても配られたカードは変わらない。全てを受け入れて勝負するほかない。

挑戦をすればするほど失敗は増えるし、やらなければ決して遭遇しないような心がえぐられるような思いも増える。実際、ここに書くのも憚られるような故意のハラスメントや、悪質な嫌がらせにも遭った。事実一部はトラウマである。執筆する際に色々思い出してしまい、手が震えたもの、動悸がしたもの、目が潤んだものまであった。故意の加害なんて許されたものではないし、法の下に裁かれてほしいものである。しかし私が被害を受けたという過去の事実は変わらないし、悔やんでもどうにもならない。ただ人生どこでどう転ぶかは分からない。何が良くて、何が悪かったかなんて死ぬまで分からないかもしれない。どんなことでも得た教訓と経験として生かしていきたい。

思い通りになんてなかなかならないし、期待するだけ無駄だと感じることも日常茶飯事。淡い期待どころか、友人や教師には簡単に裏切られ、運にも見放される。

しかし、芸は身を助ける。様々な過程で身に着けた実力やスキルだけはあなたを裏切らない。どこからともなく不意に訪れるチャンスの前に、十分に準備が整っていれば、幸運の女神の前髪を自然とつかむことが出来る。学問に王道がないように、人生に近道はない。出来ることは、日々着々と準備をすすめることだけである。混沌とした世の中の情勢と自分の実力の無さをありのままに受け入れ、日々淡々と次の前髪をつかめるように着々と準備を進めていくこととしよう。

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拙著をお読みいただきありがとうございました。読者の皆様も新型コロナの影響で行き場のない思いをしている方も多い事と思います。読者の中で数年後に以下のセンテンスが頭によぎることが有れば、今回筆をとった甲斐があったように思います。

「ああ、今の自分があるのは、あの時コロナに阻まれたおかげかもしれない」

関連動画:2020夏 慶應大編 海外大学院留学説明会【ジョンズホプキンス大学、ライス大学、ケンブリッジ大学、ノースウェスタン大学】(1:06:55から、学位取得までの過程、アカデミア、企業研究職以外への就職活動、キャリア形成の展望など)https://youtu.be/f-04Dn6JHoA

篠原 肇(シノハラ ハジメ)
ケンブリッジ大学 キャベンディッシュ研究所 博士号取得。プロモントリーフィナンシャルグループ勤務。

個人ブログ https://hajime77.com/

Title IXとは何かご存じでしょうか?1972年にアメリカで制定されたあらゆる性差別を禁じる法律です1,2,3。私は恥ずかしながら自分が被害に遭い、Title IXオフィスに相談するまであまり知りませんでした。Title IXオフィスとのやりとりの中で、被害者を泣き寝入りさせないよう整備されたシステムから学ぶことがたくさんあったので、個人的な経験ではありますが、あるアメリカの大学による対応の一例として共有させて頂きます。もし将来被害に遭った時の力に少しでもなれれば、加えて皆様の教育・研究環境の向上の参考になれば幸いです。(あくまで個人的な経験であること、大学によって対応が異なる可能性があること予めご了承ください。)

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Title IXとは

1972年にアメリカで制定された、連邦が財政支援をする教育プログラムや活動におけるあらゆる性差別を禁じる法律1,2,3。性差別のみならず、性暴力、セクシャル・ハラスメント、ストーキング、親密な関係間の暴力、その他のすべての性的な行為が含まれる2。性差別的な発言4、性的なコメント5、妊娠に対するネガティブな反応3、被害を報告した人への報復5も違法。留学生を含む全学生に適応される1,3。学校にはTitle IXコーディネーターを設置する義務3、性暴力事件の報告後迅速に捜査する義務2、捜査や治療にかかる費用の負担義務があり3、さらに大学で雇用されている人たちは、被害について聞いた場合24時間以内にTitle IXコーディネーターに報告する義務がある2

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Fig1. 大学のキャンパス

私の案件は、1年程前にある教員から性差別的発言をされた、というものです。行動するまで1年以上も経ってしまったのは、

  • 性差別的発言はTitle IXの管轄内なのか
  • こんな小さいことで連絡して良いのか
  • 時効なのでは
  • その教員は私の大学の教員ではないが対応できるのか
  • 行動を起こすことによって私が何か不利益を被るのではないか
  • 重要な共同研究なのだから性差別くらい目をつぶるべきなのでは

といった疑問や懸念があったからです。

それらを何とか乗り越え「とりあえず対応してもらえるのかだけでも聞いてみよう」とTitle IXオフィスに連絡したところ、目から鱗が落ちるような体験を次々としました。

事件の概要を聞かれなかった

「何が起こったのかを話すのはとても辛いことだから、話したい場合を除きこちらからは聞きません。ただ、対応方法を検討するために、その経験がどのカテゴリーに所属するかだけ教えて?」と言われました。

性差別的発言もTitle IXで対応できる

自分の経験がTitle IXの管轄内なのか不安で事件の詳細を話したところ、「Title IXは性差別を禁止する法律なのだからその発言はもちろん違法です。」とのことでした。(ただ、罰則を与える、訴訟を起こすなど法的措置をとるためには、発言の頻度や被害の程度が問題になる場合もあるみたいです5。)

被害の深刻さを”Judge”されなかった

身体的暴力でもないのにそんな些細な事で…と言われるのが怖かったのですが、「まず、その行為自体が違法なので被害の深刻さに関わらず声を上げる権利があなたにはあります。更に、被害の深刻さはあなたしかわからないので、ほかの誰にも判定(Judge)する権利はありません。」と言われました。

1年以上前の案件でも対応できる(ただし時効は存在する)

時効は州によるそうです6。現時点で2年、3年の州が多いですが、1年や6年の州もあるそうです6。(学内案件であれば、法的措置以外の形で対応できる可能性もあるので、時効をすぎていてもTitle IXオフィスへ相談することをおすすめします。)

学外・国外加害者への対応は難しい(これはBad news)

一般的に、加害者がその大学関係者でないと対応が難しくなるみたいです。学外加害者でもアメリカ国内ならTitle IX適用範囲内なので対応は可能だが難しい、国外だと法的措置はとても難しいという印象を受けました。(法的措置以外の対応もあるので、加害者が学校関係者でなくてもTitle IXオフィスへ相談することをおすすめします。)

つまり、学外や国外学会や共同研究先への滞在では、Title IX違反が起きても法的に守ってもらえないリスクを背負っているということです。全くキャンパスから出ないのは不可能ですが、例えば、共同研究先に滞在する際、事前にグループの文化を調べるなどは必要かもしれません。

声をあげることでの二次災害も違法

声をあげることを止めようとする行為、声を挙げたことへの報復は”Retaliation”と呼ばれ禁止されています4

キャリアのために自分の安全と健康を犠牲にするべきではない

一番大事な話です。私は本気で「キャリアのためには性差別くらい目をつぶるべきなのでは」と思っていました。これに対するTitle IX担当者の返答はこうでした。「まず、Retaliationは違法なのであなたは法的に守られている。でも万が一キャリアが…と恐れる気持ちもわかるけど、これはあなたの安全と健康に関わる話であり、何事も安全と健康より優先されるべきではない。」 よく考えたらその通りです。例え著名な教授と働けたからといって、私の心が病んでしまったら私は幸せだと言えるのでしょうか。そもそもそんな精神状態で良い研究結果は出るのでしょうか。今自分の安全と健康を守った方が、長期的に見ればキャリアもどちらも獲得できることになるのではないでしょうか。

上司や関係者に対応を要求する際も事件の概要を説明しなくてよい

対応策を決めた際、上司との対話が必要になりました。私はてっきり事件の概要を説明するのかと思っていたのですが、セカンドレイプなどの恐れがあるので共有しなくても良いそうです。(法的措置をとる場合は必要な場合もあります4。)「Title IXの侵害があったので、○○という対応を要求します。」と言えば十分で、さらに上司と一対一の対話が不安であれば担当者と三者面談の形をとることも、私を全く含まずにメールでの通達もできるとのことでした。

まとめ

私は今回の経験を通じて、「アメリカの大学ではTitle IXのもと如何なる性差別も違法であり、被害者が泣き寝入りしなくて良いよう、さらに声をあげる際の負担が最小限になるよう、法整備がされている」と感じました。

もし今これを読まれている方が被害者であったり、もし今後こういった被害に遭ってしまった場合には、どうか全力で自分の安全と健康を守ってください。そのために、Title IXオフィスに相談に行きましょう。(この記事はアメリカでの体験に基づいていますが、日本でもほとんどの大学に相談窓口が設置されています7,8。)その上でどの手段を選ぶか、もしくは何もしないのも選択ですが、相談にだけはぜひ行ってください。

もしあなたの大切な方が被害に遭われてしまった場合には、セカンドレイプに気を付けてください9。事件の詳細を共有しなくても良いことを伝え、もしその人が共有したい場合、何もJudgeせずに「あなたは何も悪くない」と伝えてあげてください。そして、ぜひTitle IXオフィスへ相談に行くよう働きかけてください。

留意点

この記事では私のごく個人的な経験をもとに、そこから私個人が学んだことを共有しています。

  • 文献を引用していない限り、すべて私の個人的な経験や見解であり、他の方に当てはまるとは限らないこと
  • 私自身Title IXに関して勉強中なので記述に誤りがあるかもしれないこと
  • 今回のTitle IX部署の対応は私の大学に限るもので学校や国によって対応が異なる可能性があること

をあらかじめご了承ください。

参考文献:

1.Know Your IX, “Title IX” https://www.knowyourix.org/college-resources/title-ix/

2.山口智美『「性暴力を禁止する法律を育てていく」/あらゆる性差別を禁じる“Title IX”のコーディネーターに聞く、アメリカの今』https://wezz-y.com/archives/42171

3.Berea College, “Important Facts About Title IX” https://www.berea.edu/title-ix/important-facts-title-ix/

4.Rice University, “Sexual Misconduct Policy” https://sjp.rice.edu/sexual-misconduct-policy

5.American Civil Liberties Union, “Sex Discrimination” https://www.aclu.org/know-your-rights/sex-discrimination/

6.Nicole Wiitala, “Statute of Limitations Under Title IX”  https://sanfordheisler.com/statute-of-limitations-under-title-ix/

7.国立大学協会『国立大学のハラスメント相談窓口』 https://www.janu.jp/univ/harassment/

8.文部科学省『文科省におけるハラスメント対策に関する取組』https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/02/12/1413420_2.pdf

9.白木麗弥『セカンドレイプはなぜ起きる?被害者を守るためには』https://news.livedoor.com/article/detail/13668913/

関連動画:2020夏 慶應大編 海外大学院留学説明会【ジョンズホプキンス大学、ライス大学、ケンブリッジ大学、ノースウェスタン大学】(3:18から、海外大学院の概要、実際の生活、学位取得に向けた課程など)https://youtu.be/f-04Dn6JHoA

小松 夏実(コマツ ナツミ)
ライス大学 電気コンピューター工学科博士課程在学。慶應義塾大学出身。

僕はジョンズ・ホプキンス大学化学科の博士課程に在籍しています.2年前,アメリカの大学院についての情報を集め始めたとき,かけはしの記事もたくさん読みましたし,今でもときどきほかの研究者や院生の皆さんの記事を楽しく読ませていただいています.かけはしを含むいろいろな媒体で海外大学院に進学を決めた理由の記事は多くあり,多様性や新たな環境への挑戦,国際性を養う,世界トップレベルの研究など,海外院進学を決めた理由は人それぞれです.一方で,日本人の留学生が少ないというのもよく聞く話です.海外院に進学する人を増やすべきかどうかとは別に,自分には無縁の話だと思って選択肢の一つとして検討すらしていない人が多いとすればそれはもったいないように思います.海外院に進学した経緯の記事ではそれなりの理由や目標があって進学された方のエピソードをよく見ますが,留学の要素とは別にフラットな選択肢の一つとして海外院を選択した人ももちろんいます.そして, そういう方々は進学理由より研究室や職の記事を書くことが多いように思うのですが,今回, 自由なトピックで記事を書く機会をいただいたので,特に留学らしい要素を期待しているわけでない僕がアメリカの院に進学することになった経緯を共有しようと思います.自分には学位留学は無縁だと思っている層や, 決意というほど強い思いはないけれど興味があって見ている, という方への参考になればと思います.

環境の影響

学位留学に留学としての要素を期待していないと書きましたが,かくいう僕も学部時代に一年の交換留学をしました.選考や奨学金に受かったのでそれらしい理由は並べ立てたわけですが,アメリカの大学に行ってみたい,アメリカの研究室を見てみたい,というふわっとした動機で動き始めて,選考を通るために理由を後付けしたようなものでした.言葉や文化の違いに苦しみつつも一年後帰国したわけですが,そのころには日本の院試と並行してアメリカの大学院の出願準備を着々と進めていました.理由は単純で,大学院進学を真面目に検討する学部3年秋~4年春の間にアメリカにいたから,だと思います.日本の大学にいると周りには日本の大学院生や就活をしている先輩がたくさんいますから,自身もそうする,という人が多いと思います.それと全く同じ流れで,短い期間ながらちょうど進路を考える時期に現地の大学院生と一緒に授業を受けたり研究室で指導を受けるうちに, 自分も周りに流されてアメリカの院への出願準備を始めました.環境の影響は恐ろしいものです.

Fig1. ジョンズ・ホプキンス大学

大学院の決め手となったもの

一方で,交換留学のときに抱いていたアメリカの大学や研究室の様子を知りたいという好奇心は, 帰国するころにはすでに満たされてしまっていました.交換留学で得たものはたくさんありましたが,いわゆる留学へのモチベーションはすでに無くなっている状態でした.実際,出願のstatement of purposeには「アメリカで研究したい」というようなことは一切書いていません.そのころ日本の大学院にも出願しており,学部と同じ慶應の大学院から合格をもらっていました.最終的に進学先を決める際に重視したことは, 以下です.

・物理化学で気相合成クラスターをメインに扱っている研究室であること.

・研究に困らない資金力があり,論文が活発に出ていること.

・博士号取得までの金銭的負担が少ないこと.

一つ目についてはどの研究室も満たしており(だからこそ出願した),二つ目は今のホプキンスの研究室が少しだけ良いかな,という程度でした.結果的に決め手になったのは三つ目でした.修士2年間の学費生活費を実家から難なく出してもらえる状態ではなく,博士後期課程の少なくとも3年間は学振(日本学術振興会の略)などの支援もありますがみんながみんなもらえると保証されているわけではありません.その中で,学費の全額免除と一人暮らしで少し貯金ができるぐらいの給料をもらえる大学院があるとなれば,そちらに行こうと思うのはごく自然だと思います.かくして,興味のあるトピックは日本でも研究でき,留学への熱意があるわけでもありませんが,ボルチモアで博士号取得を目指すことを決めたわけです.

Fig2. ボルチモアのinner harbor

大学院の選択肢を増やす

国内大学院で研究室を移ったり学歴ロンダリングをする人がそれなりいる一方で海外院進学が少数派である理由の一つに,海外院進学は無縁と考えている層の中に学位留学は国際性や環境の変化といった「留学」としての要素を期待してするものだ,という観念があるのではと思います.人により掲げる目標は異なるとはいえ,学位留学の基本の目的は学位を取得することです.その点で短期留学や交換留学とは明らかに毛色が異なります.日本で大学院を変える人は,特別な分野以外では地理的な場所ではなく研究分野や研究環境 / 待遇を比較して進学先を決めると思います.「留学」の要素に興味のない人でも,日本で研究室を変えたり院ロンダをするのと同じ感覚で国外も視野に入れて良いと思うのです.

そして,そのくらいの軽さで海外院を視野に入れると, 選択肢が大幅に増えます.例えば,僕の研究分野の研究室を日本の主要大学で探すと, 片手の指で数えるくらいしかありません.これが,アメリカを選択肢に含めると, 両手の指で収まらなくなります.アメリカ以外も視野に入れれば, もっとたくさんの選択肢が出てきます.そして,選択肢が増えれば増えるほど,自分の重視する条件をより良く満たす大学院を選べるようになります.良い環境で研究ができるかは個々の研究室によりますし,研究だけが人生の全てではないので, 日本が良いとか他のどの国が良いとかは言いません.ただ,単なる進学先の一選択肢として海外大学院が認知され,より自分に合った研究室を選ぶ人が増えることで,個人レベルではより充実した大学院生活が送れ,国レベルでは日本の研究力の増強につながるのではと思います.

日常的に触れる情報の少なさも海外院進学が無縁の選択肢に思える理由の一つですが,今はインターネットでいろいろな人が情報を発信しています.これから大学院を決める方は,両者を対等な選択肢として見るという意味で,海外だから / 国内だからといって良い思いをするわけではない点は常に認識しておくべきだと思います.研究が思うように進まないのはどこにいても同じですし,アカハラも国内外問わずあります.日本での大学院の悪い話は人づてに伝わりますが,海外院進学を後悔していますという記事をわざわざ書く人はまずいません.数年間過ごす研究室ですから,ポジティブな面・ネガティブな面両方含めて中立的に比較することを忘れないでください.

まとめ

海外院進学を国内院進学と並ぶフラットな選択肢として述べてきました.ただ,海外であるからこそのメリット/デメリットは確かにあり,他の多くの方がすでに記事にしてくださっているので, そちらも読んでいただければと思います.自分には海外院は全く無縁だと感じている方にこそ,学位留学は留学の要素を期待する人のためだけのものではないと知ってもらいたいのですが,こういう情報は検索しないと出てこないのでなかなか難しいだろうなと思うところです.この記事にたどり着いた方の中で,なんとなく興味があってニュースレターを読んでいるけれど海外院への熱意があるわけでもなく踏ん切りがつかない,という方への一押しになれば幸いです.

関連動画:2020夏 慶應大編 海外大学院留学説明会【ジョンズホプキンス大学、ライス大学、ケンブリッジ大学、ノースウェスタン大学】(20:56から、留学準備、TOEFL・GRE・推薦状などの出願プロセスについて)https://youtu.be/f-04Dn6JHoA

千葉 竜弥(チバ タツヤ)
ジョンズ・ホプキンス大学 化学科 博士課程在学. 慶應義塾大学出身.



「日本とブラジルの言語・文化を理解した日本語教師になろう」と将来の夢を抱いたのは、高校2年生の時だった。私は、自動車産業が盛んな愛知県で生まれた。小学生の頃から、日本語が話せず困っているブラジル人のクラスメートが周りにいる環境で育った。この夢を叶えるため故郷を離れ、大阪で大学進学し、地球の反対側のブラジル・サンパウロ大学大学院の修士課程に進学した。日本に帰国して大阪大学で博士号取得後、現在は、日本国内の大学で留学生に日本語を教えながら、外国にルーツをもつ子どもの言語教育に関して国内外での研究に従事している。

ブラジルの大学院に進学を目指すに当たり、周りにブラジルの大学院に進学する人などおらず、大学院進学方法を見つけるのに多くの時間を費やした(合格した後分かったのだが、サンパウロ大学に正規大学院生として入学し、修士号を取得した日本人としては2人目だったそうだ)。今回講演を引き受け、また筆を執っているのは、少しでも私のようにブラジルの大学院進学を目指す人の役に立てばと思ったからである。

サンパウロ大学を選んだ理由

ブラジルの大学院で学ぼうと本格的に思ったのは、2008年9月からのリーマンショックの影響で多くの外国人が国に帰国した時期であった。学部生の頃から日本国内でブラジル人を中心に外国にルーツをもつ子どもたちに日本語支援や学習支援をしてきた。そのためブラジルに帰って行く子どもたちの教育、言語の問題は帰国後どうなってしまうのか心配になったのだ。そこで、ブラジルで日本から帰国した子どもたちの教育について研究しよう、将来両国のかけはしとなる人材になりたいと思いブラジルの大学院進学を目指すようになった。

サンパウロ大学(Universidade de São Paulo)は1934年設立された南米の難関大学の一つである。大統領など各分野の要人を輩出している。

サンパウロ大学を選んだの理由は大きく3つある。

①フィールドとしてサンパウロは世界一の日系人人口であること

②サンパウロ大学は当時南米トップの大学で、日本語分野でもブラジルの中で最も古く優秀な大学であること

③先行研究を読む中で、サンパウロ大学の先生の論文・研究に興味をもったこと

自分からサンパウロ大学の先生にコンタクトを取り、半年間の研究生を経て、大学院入試に挑戦した(ポルトガル語・英語筆記、面接)。大学院進学する際には自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかは日本・ブラジルの場所を問わず重要である。

サンパウロ大学の大学院(日本語・日本文化・日本文学専攻)への出願での主な必要書類は、研究計画書、外国語の試験(日本語や英語)である。日本人(外国人)の場合は、外国語の試験は日本語ではなく英語が必須で、さらにポルトガル語試験(ポルトガル語能力試験)も必要である。最新情報は公式HPを参考にされたい。

サンパウロ大学の良さ

次に、サンパウロ大学に入学して、良かったことを2点あげる。

①福利厚生が充実していること

まず、ブラジルの大学は国立大学なら学費が無料である。これは外国人にも適応される。今振り返ってみても無料で高レベルの教育を受けることができたのはとても幸せなことであったと思う。学食は、政府からの補助があり、2レアル(約100円)で食べることができた。学内と最寄り駅を繋ぐスクールバスも無料で乗れる。広大な敷地には学部ごとに付属図書館があり学習する環境が整っている。メインキャンパス内に日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)が併設されている。日本文化センター内の図書館には日本語の図書が多数所蔵されており、その他先生方の研究室や日本語・茶道・華道の公開講座が開講されている。私は国内外でいくつかの大学に留学したり、所属したりしてきたが、今の所福利厚生面でサンパウロ大学を超える大学は出会ったことがない。

Fig1.日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)

②南米有数の教員・学生のレベルの高さ

日本語・日本文学・日本文化専攻の教員陣は、ポルトガル語、日本語、英語を操るバイリンガル、マルチリンガルである。また、半期に一度日本から客員教員を招き、直接授業を受講できた。日本では受講が難しい著名な先生の講義をむしろブラジルで受講できたことは大きな財産となったと感じている。

サンパウロ大学の大学院生活

サンパウロ大学院時代の生活について授業、研究、課外活動の3点に分けて述べたいと思う。

①授業

1コマは驚きの4時間であった。ノンストップで続く白熱の議論についていくのは簡単なことではなかった。授業についていくのが大変な時、現地人の友人が沢山助けてくれたことは今でも感謝している。留学を充実させるポイントとして、何でも話せ相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ることは大変重要である。また外国にルーツをもつ子どもたちの大変さを自分自身も実体験できたことは、現在の職においても糧になっていると感じている。

研究

研究費の面では、返済不要のブラジル政府の奨学生CAPES(Coordination for Improvement of Higher Education Personal:日本学術振興会特別研究員DC1相当)に選出されたことが大きかった。

研究の手法はライフストーリーだったので、理系のように研究室に籠るわけではなく、研究協力者を探し、信頼関係をつくりながらインタビューしていった。インタビューデータの文字起こしをし、分析、論文執筆というサイクルで生活していた。

最も大変だったのは、ポルトガル語での学会発表であった。指導教官に毎週ご指導いただいたことは今でも感謝している。また、修士論文の一部を国際学会で発表する機会を与えていただく幸運にも恵まれた。初めて日本語で学会発表をしたのだが、優秀発表賞を受賞できたことは異国の地で研究してきたすべてが報われ、支えてくださった多くの方々に恩返しをできたのではと感じている。  

課外活動

国際交流のサークル立ち上げ、ブラジル人や多国籍な仲間たちとポルトガル語・英語・韓国語の3か国語を駆使しながら活動をした日々のお陰で、語学力だけでなく人と人をつなげる能力も伸ばすことができたと感じている。異国・異文化での困難を乗り越える秘訣は、「うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる」、「感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る」ことだと常々考えている。そのためには、文化の違いを「笑える」力も重要だと思う。ブラジル留学生活で一番学んだことは「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」というブラジル人の気質である。物事が思い通り、計画通りに行かないときも、臨機応変に「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」と二度と戻ってこないその瞬間を楽しむ心の大切さを教えていただいた。

Fig2.サンパウロの旧市街にあるセー広場の大聖堂

卒業後のキャリア

サンパウロ大学で修士号を取得した後に日本に帰国した。サンパウロ大学で修士号を取ったことを進学や就職など大切な場面で評価していただいたと感じている。これは、南米トップのサンパウロ大学卒という学歴面だけではなく、そこで培ってきたバイタリティ―、忍耐力を認めていただくことができたと理解している。また、人との出会いとつながりのありがたさも感じている。現在でもブラジルをフィールドとし国際交流基金、JICAなどと共同研究ができている。また、国内では地元をフィールドに科学研究費を受領しながら研究を行い、研究を通して夢が叶いつつあるのを実感している。

まとめ

上記のポイントを以下の3つにまとめる。

①大学院進学:自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかが重要。

②留学を充実させるポイント:何でも話せる・相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ろう。

③異国・異文化での困難を乗り越える秘訣:うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる。感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る。Vai dar Certo(なんとかなるよ!)

最後に、修士論文の一節をメッセージとして記し、筆を置こうと思う。少しでも読者のお役に立ったのであれば幸いである。

O caminho do sucesso é um caminho em que você tem que agir até o fim, enquanto enfrenta problemas, aprende, e se torna habilidoso em como ser bem sucedido. Você atinge sucesso ao vivenciar provações e erros nesse caminho, sofrendo, aprendendo e percebendo como ser bem sucedido; e agindo.

成功の道は、進みながら成功することにぶつかって、学び、有能になっていきながら最後までしなければならない。成功に行く過程で試行錯誤を経て、苦労し、自分が会得しながら、成功する方法を悟って行うようになることで、成功するようになる

出典:Sayaka Izawa (2015) O percurso escolar dos filhos de decasséguis brasileiros retornados. Biblioteca Digital USP. URL: https://www.teses.usp.br/teses/disponiveis/8/8157/tde-19102015-130134/pt-br.php (2020/12/24アクセス確認)

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会 (ブラジルは10:01から) https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

伊澤 明香(イザワ サヤカ)
大阪経済法科大学 教養部 助教。大阪大学 外国語学部を卒業後、グローバル企業でのポルトガル語通訳を経てブラジル・サンパウロ大学 大学院 哲学・文学・人文科学(東洋文学)研究科 日本語・日本文学・日本文化専攻で修士号を取得。帰国後、大阪大学で博士号を取得。