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筆者の専門は高性能計算と深層学習の理論的側面で、2020年9月から、カナダ東部のモントリオール大学及び、世界有数の深層学習理論の研究グループである Mila の共同PhD プログラムに進学した。本稿では、日本で修士を修了した後、海外のComputer ScienceのPhDへの進学を検討されている方に対して、海外PhD進学に関する話題を提供させていただきたいと思う。

海外PhDへの進学を目指した経緯

筆者が海外のPhDに興味を持ったのは、東京工業大学での研究室配属から師事していた横田理央准教授の影響が非常に大きい。横田准教授は海外でのポスドクや研究職を歴任されており、筆者が学部4年時に横田准教授が専門とされている高性能計算のトップ会議のプログラムに参加した際の印象が強烈に残っている。研究に触れ始めた時期に、国際的に活躍する指導教官の姿を間近で見ることができたのは幸運であった。

もう一人、私に大きな影響を与えた研究者が鈴村豊太郎研究員である。筆者は高校在学時の卒論執筆を通して、大規模な実社会データを高速にリアルタイム処理するという鈴村研究員の研究分野に興味を持ち、東京工業大学を目指した。実際、研究室配属前に鈴村研究員が海外に移動されてしまい、直接指導を受けることは叶わなかったが、その後、海外で活躍をされている鈴村研究員の姿は眩しかった。

その他に、国際的なプログラミング系コンペへの参加や、海外大の短期プログラムなどで、海外の有名大学の同年代の実力とレベルの高さに圧倒されるとともに、海外で修行することも視野にいれはじめ、修士2年時に参加した「突き抜ける人財ゼミ」で海外のPhD進学を決意した、2018年9月のことである。

出願準備

前述の通り、筆者は修士課程までを国内で修了していたため、国内の修士号が認められるカナダ・イギリス・スイスの大学院への進学を目指した。出願のための準備で得た学びは、何事も前々から準備することである。私は修士課程2年の9月に受験を決意したため、国内で余分に1年を過ごすこととなった。決意した後に修士論文執筆などの合間に、自身の興味のある分野の研究グループを調査し、数人の教授にメールでコンタクトを取った。

筆者は学部・修士・修士課程時のIBM東京基礎研究所のインターンシップに際して高性能計算の側面から機械学習技術を高速化することに焦点を当てた研究を行った後、修士二年統計的学習や深層学習の理論よりの側面からの高速化に自身の関心が遷移したこともあり、理化学研究所AIPでのインターンに応募した。このような研究興味の変遷があったため、進学候補の研究室は筆者にとって新しい分野であり、メールを書くまでにかなりの時間を要した。それまでの筆者の研究興味やそれらを裏付ける業績、また志望先の研究室に自身がどのように貢献できるのかをメールで送った後、国際学会や文部科学省のプログラムを利用して実際に会う約束を取り付け、実際に何名かと面接することができた。このとき、幸いなことに外部からの奨学金を確保出ていたことがイギリスの大学院への応募に関してはとても有利に働いたように思う。2019年3月、最初のメールを送るまでに、進学候補の選定、CVの作成、研究計画を練る必要があった。

2019年12月、バンクーバーで行われていた、機械学習分野のトップ会議であるNeurIPS参加中に最初の出願を行った。出願までにIELTSでスコアをクリアし、東工大の指導教員、IBM東京基礎研究所・理化学研究所AIPでの指導教員に推薦状を依頼した。また、Computer Science特有の課題として、GithubのRepositoryの提出を求めるプログラムも存在した。出願準備の詳細については、下記のサイトにスライドで公開している。

合否とその理由考察

最初の出願後の2020年1月、早速第一志望のモントリオール大学とMilaのPhDプログラムの一次選考結果がメールで伝えられ、二次選考としてオンライン面接を受けた。面接前はかなり念入りに準備をし、面接のためのスライドを作り込んだ。2020年2月には、あっさり合格内定をいただけ、面接時に他の大学院も受験を考えていることを伝えていたので、4年間の学費免除と、米国のトップ大学院と遜色ない額のFellowshipのオファーを頂いた。

この後に、Oxford, ICL, UCL, Edinburgh, EPFLなどの出願を検討して準備していたが、最終的に出願を行わなかった。この時点で、私の海外PhD受験は終了した。

実は、モントリオール大と同時期にUBCのPhDにも出願していたが、出願した際に提出したIELTSのスコアが、一部足りていないと指摘され、2020年7月、出願から半年以上経過して不合格の通知が届いた。最終的な、筆者の受験結果は1勝1敗であった。

モントリオール大学は日本では知名度はなく、大学全体としてはその後の受験予定だった大学よりは高いランクではないものの、深層学習分野においては、昨年のチューリング賞を受賞されたYoshua Bengio先生の作った世界有数の深層学習理論の研究グループである Milaが同分野のメッカとなっており、筆者の興味分野で活躍する研究者が世界で最も集まっている研究拠点であったことから、自身の今後のキャリアを考えた結果、モントリオール大と MilaへのPhD進学を決意した。

最後に

今後、Computer Scienceの海外PhD進学を志す方に助言できることがあるとすれば、使えるリソースを最大限活用し、早期に出願に向けて着々と準備を行うということである。昨今の情報系、特に機械学習系の競争はとても厳しく、優秀な世界各国のMScの学生が十分な業績をもって出願してくる。このとき、準備が不十分な場合、合格する可能性は極めて低い。しかしながら、準備にはかなりの時間と労力を要するため、同士を見つけモチベーションを保ちつつ切磋琢磨することが、海外PhD進学には必要であると感じた。最後に、本稿が、これから海外PhDを目指す方の参考の一事例となることを願うとともに、執筆する機会をくださった米国大学院学生会の皆様、私の東工大での7年間を支えてくれた皆様への感謝の意を表したい。

長沼大樹(ナガヌマ ヒロキ)
モントリオール大学・モントリオール学習アルゴリズム研究所
Université de Montréal, Mila (Montreal Institute for Learning Algorithms)

私は東京工業大学の生命工学科を2016年に卒業後、米国のカリフォルニア大学デービス校(通称UC Davis)に進学し、食品科学の修士課程を2018年に修了しました。現在は、サントリーホールディングスに入社し、日本で健康食品の商品化業務に携わっています。本稿では、留学中の企業への就職活動についてお話ししたいと思います。海外大学院への留学と聞くと、PhDからアカデミアの道に進むイメージがあるとは思いますが、企業への就職も一つの選択肢として考えられる際にお役に立てれば幸いです。

日本企業vs︎米国企業

職活動を始めるにあたり、日本企業と米国企業どちらに就職するか悩まれるかもしれません。両者で選考方法や採用で重視するポイントが大きく異なりますので、ここではそれぞれの特徴について触れたいと思います。アメリカの就活にはまず、日本のような解禁日が設けられていません。日本では総合職や一般職という大枠で新卒生を一斉採用し、部署に割り振りますが、アメリカではポジションごとに必要なスキルを持った即戦力を採用するため、スポットが空けば随時募集をします。また、日本は研修を通して新入社員育成に力を入れていますが、アメリカは入社後すぐ即戦力として働くことが求められます。この方針の違いは選考方法にも現れており、人間性(ポテンシャル)重視の日本は対人で時間をかけて採用するのに対し、経験や能力重視のアメリカでは書類選考〜面接まで全てオンラインかつ短期間で選考することがあります。また、アメリカはコネがものをいうため、そもそも求人情報が公開されていないケースも多いです。企業はまず大学院の共同研究先や教授との繋がりで人材を探し、コネで採用できない場合に一般募集をかける流れが一般的なようです。研究職を希望する方にとっては、必要な学位も両国で違ってきます。日本では修士卒以上で研究職へ応募が可能ですが、アメリカでは博士号が必要とされ、修士卒で就ける職種は学部卒と大きく変わらないこともあります。このように、日本とアメリカでは選考の進め方や重視されるポイント、研究職への応募条件が異なっていることがわかります。私は日本企業の新人育成に力を入れている点、修士卒で研究に携われる点が自分に合っていると思い、日本企業への就職を選択しました。

ボストンキャリアフォーラム(BCF)

日本人留学生の就職活動の場として、BCFをご存知の方は多いと思います。毎年11月に3日間開催され、日系・外資系合わせて200社以上が参加する世界最大規模の就活フェアです。私は修士2年目の秋に参加し、日本企業の選考を受けました。ここではBCF選考の流れについて、体験談を交えてお話したいと思います。

1) 準備留学先では就活中の日本人が周りにいなかったので、BCFの選考方法や対策といった基本情報を調べることから就活がスタートしました。前述の情報収集を9月に行い、10月上旬にESやレジュメの作成、10月中旬から事前応募を受付けている企業にエントリーを始めました。ES・レジュメについては、何人かに添削頂くことを強くお勧めします。また、予想以上に書類作成に時間がかかるので、今後参加される方は、少し余裕を持ってBCF3〜4ヶ月前から準備に取り掛かると良いと思います。

2) エントリー事前応募にエントリー後、いよいよ選考が始まりました。書類選考を通過すると、応募から1週間程で結果が送られてくるので、Webテストの受験やSkypeでの一次面接、BCF当日の面接予約に進みました。会場での面接枠は早い者順で埋まっていくため、期限前に応募を締切る場合があり、注意が必要です。志望度の高い企業は応募受付開始後、なるべく早くエントリーするのが良いと感じました。また、事前応募の他に、履歴書を当日企業ブースで提出する方法(通称Walk-in)もあるので、志望度に合わせて事前応募とWalk-inを使い分けました。Webテストに関しては、日本での選考ほど重視はされていませんでした。足切りの位置付けではなく、形式的にやっている企業が多かったです。対策は例題を解くなど最低限にとどめ、その分の時間を面接練習などに充てる方が有効だと感じました。

3) BCF当日とその後BCF当日は、予約していた面接やWalk-in応募を行いました。面接の合間も、次の面接の準備やお礼メール作成などに追われ、一日があっという間に過ぎていきます。BCFは本選考の場であり、企業の説明会に参加する時間はあまりないのだと実感しました。BCFと言えば、企業の方とのディナーも醍醐味の一つだと思います。私も一社からBCF前日の夜、ディナーに呼んで頂き、会社の雰囲気や仕事の話などを聞くことができました。翌日に面接を控えていましたが、ディナーで面接官の方にお会いしていたお陰で、当日は落ち着いて臨むことができました。面接では、志望理由や学位留学に至った経緯、留学での苦労について聞かれました。研究職志望でしたが、自分の研究について説明を求められることは少なく、留学していること自体を評価している企業が多かったです。面接結果は遅くとも翌日中に電話やメールで連絡があり、その後12月にSkype若しくは日本の本社で最終面接を受け、選考を終えました。最終的に、エントリーした8社のうち2社から内定を頂く事ができました。

Fig 2. 会場内の様

BCF以外の選考

BCFの他に、日本人留学生向け就活情報サイトを通して1社に10月頃エントリーしました。サイトに掲載している企業についてはES添削や模擬面接も無料で提供しており、BCF前の良い練習になりました。また、掲載企業の中には海外大学を直接訪問して説明会を開催して下さる所もあり、じっくりお話を聞ける利点もありました。説明会前にESを提出すると、Skypeで一次面接、説明会当日に2次(最終)面接を受ける事ができ、短期間で選考を終えられます。訪問先大学は限られていますが、興味のある企業があればBCFと併せてご検討頂くと良いかもしれません。

就活を振り返って

日本での一般的な就活と比べ、かなり早いペースで選考が進んでいきました。就活にかける時間が短くて済むメリットはありますが、応募できる企業(特に研究職の場合)が限られることや、企業の説明会に参加する機会が少ないのは大きなデメリットだったと感じています。OB訪問も難しいため、面接官を通しての会社のイメージしか持てず、企業を選ぶ判断材料が限られている点に苦労しました。そこで就職先を決めるにあたっては、内定を頂いた企業の人事の方にお願いし、冬の一時帰国に合わせて社員面談をセッティングして頂きました。面談では社風や社員の方の雰囲気などを知る事ができ、就職先選びの決め手になりました。

昨今のコロナの影響で、留学中の日常生活だけでなく就職活動のあり方も大きく変わっていることと思います。オンライン化が進むことで、今後はエリアの制限を受けずに選考を受けやすくなるかもしれません。私が受けた当時と状況は違ってしまいますが、就活を検討される方にとって、本稿が少しでもお役に立てれば幸いです。

村瀬 彩華(ムラセ アヤカ)
カリフォルニア大学デービス校 食品科学科 修士課程修了
University of California, Davis, Department of Food Science and Technology

この記事では、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校比較文学科博士課程に留学中の阿部幸大さんからの寄稿「ジャーナルと擬態をお届けする。

このたび、「人文系のアメリカ大学院留学」というタイトルで、東京大学の学生むけにオンラインで講演させていただいた。2020年7月、コロナウィルスの猛威がいまだ収束せざる状況下で開催された説明会であったが、オンライン化のおかげで米国からの登壇が可能となったうえ、会場での開催には足を運びえなかったであろう聴衆にも届いたようだ。

私が経験的に知るかぎりでは、ネット上で収集可能な情報と、そこで喋った内容を踏まえれば、留学に必要な情報はかなりの部分まで網羅できると思われる。その講演内容はYouTubeにUPされている。

本稿は上記のイベントを受けての寄稿である。お題が自由なので、何を書いたものか悩んだが、講演では「海外ジャーナルに投稿しましょう」とだけ言って終わったから、そのことについて具体的かつプラクティカルな話をして、最後に日本人がアメリカに留学することの歴史的な意味という話に繋げたい。

私の専門は文学、ひろくは文化研究であることを、はじめにおことわりしておく。私の留学先はアメリカなので、しばしば「海外」と「英語圏」と「アメリカ」は混同されるが、ご容赦いただきたい。

1.ジャーナル「を」勉強する

日本と異なり、英語圏のジャーナルは、プロのテニュア教員たちが最先端の議論を闘わせるフィールドとして機能している。いかに有名になろうとも、そこでは匿名の査読をクリアしなくては論文を出版することはできない(書籍は事情が違う)。だから超有名な学者の論文も容赦なくリジェクトされるし、たとえば、のちに圧倒的な影響力をもつことになる論文の多くが、最初の投稿先には落とされているという調査もある。

そういうわけだから、英語圏の学術的な動向を知るためには、書籍だけでなくジャーナルを知ることが欠かせない。ではジャーナルを知るとは、ジャーナル「を」勉強するとは、いったいどういうことか?

それはまずジャーナルの名前を覚えるところから始まる。そのための方法を思いつくままに列挙してみよう──

  • Johns Hopkins, Dukeなど、ジャーナルを大量に出している大学出版のjournalsのリストを眺める
  • 「専門分野名 journals」などでググって、当該分野のジャーナルをリスト化しているページを探す
  • 多産な研究者のCV(履歴書)の論文欄を見て、どのジャーナルに掲載されているか見る
  • 手持ちの論文の引用文献一覧からジャーナル論文をピックアップし、媒体を確認する
  • 掲示板サイトFandomでHumanities Journals Wikiの口コミを見る(内容はあまり信用できないので注意)

こうして徐々にジャーナルに親しんでゆけば、そのうち、分野のトップ・準トップジャーナルはどれか、自分はどのジャーナルにとくに興味がありそうか、誰がどこに何本くらい載せていて、それはどれくらいのバリューがある業績なのか、などが見えてくる。ゆくゆくは投稿したい憧れのジャーナルもマークしておきたい。

もうひとつの効用は、そもそも英語圏では研究がどのように細かくジャンル分けされて認知されていて、自分のやりたい研究の方法・内容における著名な学者は誰なのか、どんな話題がさかんに議論されているのか、といった感度が養われることだ。この結果、「自分はこういう研究がやりたかったんだ!」という発見もあるだろう。

数値的な目安としては、誌名だけでなく「あー、あの論文が載ったあのジャーナルね」というレベルで反応できる媒体が20誌くらいになってくれば、けっこう良い感じだと思う。

そしてお気に入りのジャーナルが見つかったら、トップジャーナル群にくわえ、新ナンバーが出るたびにそれらの目次をチェックするようにしよう(できればアブストラクトにも目を通したい)。また多くのジャーナルは書評を掲載しているので、その選書を追えば、その分野における著書単位の研究にも、それなりに触れておくことができる。

もちろん、以上は留学しなくても可能な勉強である。が、講演でも述べたように、私の専門分野では最大の論文データベースであるProject MUSEへのアクセスを、ほとんどの日本の大学が購入していない。必要な数本の論文だけ買うという対処法もあるとはいえ、全文を通読する論文だけを入手できれば十分というわけではないのだ。

この場を借りて言っておきたいが、MUSEやJSTORをはじめ、主要データベースに自由にアクセスできない環境での人文学研究など、ありえない・オブ・ありえない。事態はきわめて深刻であり、大学教員は徒党を組んでアクションを起こすべきである。

2.ジャーナル「で」勉強する

お気づきかと思うが、ジャーナル「を」勉強することは、すでにジャーナル「で」勉強することと地続きである。以下ではさらにジャーナル「で」勉強、ジャーナル「を使って」勉強する方法について述べたい。

その方法は簡単で、ジャーナルに論文を提出(サブミット)すればよい

まず最初に確認しておきたいのは、英語圏のジャーナルのほとんどは学会への入会などの必要がないという事実である。体裁さえ整えれば、ポータルにアカウントを作ってUPするか、あるいはメールに添付するだけで完了である。〆切もなく、いつでも受け付けている。学生に会費を払わせている日本の諸学会も、ぜひそうすべきだ。

提出後の流れも日本とは(おそらく)異なる。おおむね以下の5つのルートになる。

  • 編集部ですぐに不採用が決定される(デスク・リジェクション)①
  • 編集部でOKが出て、匿名の査読者(だいたい2名)に回った結果、
    •  査読者の両方あるいは片方が否定的なコメントで、リジェクト②
    •  査読者がどちらも好意的なコメントで、改稿・再提出(Revise & Resubmit/R&R)③
  • コメントを受けて直した論文に査読者がNGを出し、リジェクト④
  • 査読者がOKを出し、編集部の確認を経て、アクセプト⑤

ここで猛烈に勉強になるのは、査読者から送られてくるReader’s Reportと呼ばれるコメントである。これは多くの場合、概観と細部のコメントに分かれていて、査読者につき数千語の詳細なコメントをくれることが多い。その性質上、彼らは論文が抱える問題点と改善の方法を教えてくれる。

これは編集部がポンコツでないかぎり、論文の内容を吟味したうえで選出された適切な査読者──そのトピックのプロ──によるコメントであるから、彼らの意見は世界で一番信用できると言っても過言ではない(じっさい採否は彼らの判断にかかっているのだ)。最終的にリジェクトになるかもしれないが、「査読者が何を言うか」から学べることは計り知れない。

ここでいくつか補足がある。まず、すでに述べたように、教員が院生を評価する教育の場である日本のジャーナルと比べて、研究の場である英語圏のジャーナルの採用基準はダンチで厳しい。早い話、そこでは全員が対等なプロとして振る舞うことを要求されるわけだ。日本の査読が一方向的な「評価」なら、英語圏のR&Rは「対話」であると言える。

これは一般論にすぎないが、もしあなたの専門分野における日本国内の主要誌が英語論文を受け付けているのなら、まずはそこに確実にアクセプトされる実力をつけることが、海外ジャーナル挑戦の必要条件になると考えていい。ではどんなところに出せばいいのか。

まず最初に投稿を検討すべきなのは、さほど有名でなく、あまり歴史が古くなくて、誌名がspecificな専門分野に特化(たとえば文学研究なら作家の名前が入っているとか)したジャーナル、すなわち投稿数が少なくて採択率が高そうなところに出すことだ。そうしたジャーナルはだいたいサブミット数が少なくて困っているので(年間20本くらい)、とりあえず査読に回してくれる可能性も、査読をうけて「まぁ直させてみるか」と判断してくれる可能性も高くなる。ちなみにトップジャーナルの相場は年間の投稿が300本、採択数は10%くらいである。

繰り返すが、英語圏のジャーナルはサブミットのハードルだけは非常に低いので、とりあえず渾身の1本が書けたら、お試しでも出してみることを大いに推奨したい。そして、落とされてもメゲてはいけない。リジェクトは当たり前である。

私の場合は、留学1年目の期末レポートである村上春樹についての論文を、素人の恐るべき大胆さで日本研究のトップジャーナルであるJournal of Japanese Studiesに提出した。いま思えばデスクリジェクション必至の出来だったが、それは幸運にも査読のうえでリジェクトになり、コメントをもらうことができた(他誌だったら即アウトだったろう)。そのコメントはきわめて長大であり、その後の留学生活にとって貴重な経験になった。そういうこともあるので、とにかく出してみよう。

「デメリット」と呼べるかどうかわからないが、英語圏ジャーナルのツラいところは時間がかかることである。人文系ではサブミットから(アクセプトまでではなく)プリントまで2年ほどかかるのが普通で、大幅な改稿を要求されることも多いので、持久戦を覚悟せねばならない。これだと就活に間に合わない院生もいると思うので、その意味でもやはり国内の業績は早めに作っておきたい。

以上の記述を読んで、「そもそも国内誌の業績もないのに、海外ジャーナルなんて……」と思った人もいると思う。私も留学当初は論文の書き方が皆目わからず、俺アメリカに5年留学して国内誌に1本も通せず帰国すんじゃね??という恐怖に襲われ、留学先で授業期間にもかかわらず国内誌の論文をDLして50本ほど読み漁るという愚行に走り、「どうすれば自分にこれが書けるのか」と頭を抱える日々を送っていた。

そこからの脱却に成功した要因は複数あるのだが、そのひとつは、自分の10歩先にある国内の査読誌「だけ」見るのではなく、100歩先にあるアメリカのジャーナルを視野に入れて日本のアカデミアごと相対化してしまう発想の転換だったように思う。つまり国内の業績がなくても、海外ジャーナルはあなたと無縁ではないということだ。意識ひとつで書く文章は劇的に変わることがある。そのことを忘れないでほしい。

3.おわりに──敗戦国の擬態戦略

わざわざアメリカに留学する日本人はアメリカが学問の本場だからそうするわけで、日米間には歴然とした格差がある。だが、アメリカの良いところを学んで日本に持ち帰る、という発想ではもったいない。せっかく何年も留学するのだから、アメリカで思いきり成功するつもりで乗り込もう。そのためには、上述のように日本を相対化し、いったんアメリカナイズされる必要があるように思われる。

それはアメリカ中心主義や英語帝国主義への加担なのだろうか? 私はそうは思わない。すこし長い引用になるが、哲学者の千葉雅也は以下のように述べている──

海外の査読ジャーナルに日本人が(人文社会系の)英語論文を発表しなければならないというプレッシャーは、もうしばらく前から普通になっています。そうしたコミットメントを同時にやりながらも、グローバル・アカデミアの規矩に身を合わせるというよりも、日本で行われてきた論理形成のスタイルに興味を持ってもらえるように工夫していく必要があります。そもそも日本における西洋的コンテンツの「倒錯的」な変形に対しては、残念ながら、なかなか興味を持ってもらえないものなのです。やはりこの国は(戦争に)負けた国なのであって、その自覚において今後を考えなければならない。負けた国であり後進国なのだから、英語圏の基準に沿って、せめてもの貢献として「身のほどをわきまえた仕事」をするというのもひとつの立場だけれども、もっともっと打って出ていいと思うのです。
(『意味がない無意味』所収「緊張したゆるみを持つ言説のために」214-15頁)

人文学徒はこの挑発的な文章をぜひ全文読んでほしいのだが、ともあれ、ここで表明されているのは「グローバル・アカデミア」の眼中にない日本という現状を冷徹に見据えるリアリズムであり、そのうえでのストラテジーである。格差を前提として、マジョリティ(宗主国)のヘゲモニーを模倣しながらも完全には同一化しないクリティカルなふるまいを、ポストコロニアル理論家のホミ・バーバは擬態と呼んだ。千葉も「蝕む」という言葉で、近いことを言っている。

アメリカ中心主義も英語帝国主義もたしかに存在し、それらは問題だが、アメリカの劣化コピーに甘んじる態度も、あるいは世界から無視されながら日本の伝統を守る鎖国的な活動も、それへの批判としては機能しないように思われる。むしろ戦勝国のオーラを纏って国内のアカデミック・ポストに凱旋する手段としてしか留学を活用できない現状こそが、格差を温存しているのではなかろうか。

ともあれ、結論はこうである。アメリカの視点から日本を相対化するのと同時に、日本の視点からアメリカを相対化しなくてはならない。それを達成するためにこそ、いったんアメリカ化を経る必要があると思うのだ。それは敗戦国の擬態戦略の、ひとつのプロセスである。

肯定的な意味で「グローバル」と呼べる地平は、その先にこそ広がっている。これから留学を目指す若き才能たちは、そこで縦横無尽に活躍できる可能性をそれぞれに秘めているのだ。

阿部幸大 (アベ コウダイ)
ニューヨーク州立大学博士課程
比較文学

東京大学現代文芸論にて2012年に学士を、14年に修士を取得。日本学術振興会特別研究員(DC1)として東京大学英文科に在籍したのち、17年からフルブライト奨学生としてニューヨーク州立大学ビンガムトン校の比較文学科に留学。フルブライト記念財団・吉田育英会奨学生(2019-20)ならびに日本学術支援機構海外留学支援制度奨学生(2019-22)。

この記事では、英国と日本の両大学院での修士号取得を目指されている森江建斗さんの「ダブル・マスター」についての情報をお届けしています。前号「出願までの意思決定」に続き、今回は出願プロセスについて紹介します。

出願プロセスとタイムライン

 出願の過程については、述べたとおりLSEしか出願をしていないので、LSEの場合(しかもDepartment of International Relations)しか記すことができないので大変恐縮だが、あくまで一人の体験として出願のタイムラインの概要を記述しておく。

1)出願時期

 英国の出願は、一般的には、rolling application systemといって、アプリケーション・フォームが開設され次第、アプリケーションが可能で、出願が提出された順番に審査にかけられる。1月の中旬から下旬に第一回の結果発表があり、それより前に(実際には審査される時間を含めて十分前に)提出された出願の中から合格/保留/不合格が発表され、その後随時コースの定員が埋められていく(詳しい出願の情報は、各大学やコースのHPや該当する先輩方のブログ記事などを確認していただきたい)。英国ではオックスブリッジやロンドン大学のような人気の大学では、学部にもよるが、4月には多くのコースの定員が埋まり切るらしい。私の学部では、12月上旬にはそのアプリケーション・フォームが開設されるため、12月中旬(10~15日あたり)を目処に準備を進めた。12月15日までとしているのはあくまでも目安だが、英国の大学の試験官がクリスマス休暇を取る前に出願を大学に送り込むというイメージだ。

2) 出願書類と各スケジュール

 まず簡単に必要な出願書類について、言及し、それぞれの特性と準備のための各スケジュールを論じる。英国の修士課程への出願に必要な書類は一般的に、大学の成績、TOEFLやIELTSの英語スコア、推薦状、志望動機書(Statement of Purpose: 以下SoP)、CV(履歴書)である。多くの先輩方が指摘するようにSoPが最も重要で、次に推薦状、そしてその他の書類となる。従って、重要度の高いものから順番に論じていく。

i. 志望動機書(SoP)

 LSEの私が出願した学部では、1,500 WordかつA4で2ページ以内という制限があった。この字数制限で1,400 word以上書き、フォント12で通常の余白の設定の場合、上手くA42ページで収まらないことも多いので、フォントや余白の調整といったアウトラインから工夫を行った(フォントは10.5以上が目安だろう)。こうした工夫は、LSEを含め英国の大学院へと進学をされた先輩方のSoPを見せてもらいながら学んだ。次に内容についてだが、具体的かつ個別的であることが求められる。具体的な書き方について細かく書くことは紙面の都合で難しいが、「なぜあなたがその大学のコースで学びたいのか」、「なぜコースのトピックに関心があるのか」、そして「仮に希望のコースで学ぶことになったとして、どのように修士課程の間過ごすのか」という問いを終始意識しながら、試験官に試験管に出願者が有意義に修士課程を過ごせそうだと具体的に想像させることができれば、良いSoPということになる。

 私のスケジュール感について言えば、下書きとなるような文章は箇条書き程度にまとめて9月下旬頃にはつくり、推薦状を書いてくださる先生にも送っておいた。それは、推薦状を書いてもらう際に、参考になると考えたためで、またそれがSoPを書く上で適度なペースメーカーとなった。10月下旬までにはLSEのための自己ストーリを用意し、専門的な研究内容や大学院で問いたい問いや手法については、卒業論文の研究を進めながら深化させた。こうした背景には、2年間の米国の修士課程とは異なり、英国の1年の修士課程は、より具体的な研究テーマや処理可能な問いの大きさが求められるというアドバイスを受けたものだ。

 そして11月1ヶ月を使って、1,500 wordsのSoPを推敲に推敲を重ねた。細かな変更を含めておそらく50回ほど推敲を行ったが、大まかに4つのプロセスを経て、SoPに磨きをかけた。①英会話レッスンを利用した添削(少し禁じ手かもしれないが、IELTSのスピーキングで仲良くなった講師の先生に簡単な文法や語法のミスを確認してもらった)、②英国の大学院に進学した先輩方からの大まかな全体構想や論理構造についてのアドバイス、③ネイティブの友人によるより細かな文法ミスや単語/表現のニュアンスのチェック、④大学の教授や推薦状を書いて頂く先生によるアカデミアの人間からの客観的な最終のフィードバックという順番で、お世話になった。私の場合は、本当に恵まれすぎていたと振り返り感じる。添削サービスなどもあるので、もし金銭的に余裕があれば、利用してもいいだろう。

ii. 推薦状

 一般的には2通、多いところ(例えばオックスブリッジ)で3通まで提出が可能である。よく言われるように、推薦を頂く先生が希望する大学のOBOGや教授職、もしくは有名大学の教授だといいとされるが、実際にはそうした「知名度」や「地位」にも増して、出願者のことを知っているかがより重要とされる(もちろん前者の性質が後者の前提に加えて伴うと「強い」推薦状となるのは間違いないが)。「出願者を知っている」の定義としては、一学期以上のセミナーなどの少人数ゼミの受講や指導教員という立場が、最も説得性が高いと考えられ、従って、少なくとも1通はそうした先生から推薦をもらえるようにするといいだろう(実務よりの修士課程、たとえばMBAなどであれば、指導教官よりも職場の上司の方がいいなどの例外はもちろんあるが)。

 推薦状を書いて頂くにあたって、私が重要だと考えたことは、①自身の専門性の有無や程度を評価してもらうこと、②英語の運用力を評価してもらうこと、③人柄を評価してもらうこと、であり、①と③は多くの場合指導教員やゼミの先生が評価をする立場にあるだろう。一方で、②の評価を公平に下してもらうためにはどうすればよいかと考え、2人目の推薦状執筆者を探した。候補としては、(a)オックスフォード大学のサマースクールの先生、(b)オランダの留学先の先生、(c)4年生後期に受講していた英語授業の先生(京都にあるスタンフォード・センターというスタンフォード大学の海外機関)の3名で、そのなかで直近の自分を最も知り、また直接お願いしやすい状況にあるとし(c)の先生にお願いした。

 推薦状をお願いするタイミングとしては、余裕をもって出願から1ヶ月から1ヶ月半以上前にお願いすることが重要だ。またその際にはSoPの下書きやCVなど同封することで、出願者の進学の意志やモチベーション、能力などについて、アピールすることも重要だろう(もちろん、それが推薦状に盛り込まれるかは定かではないが)。

iii. 大学の成績、TOEFLやIELTSの英語スコア

 これらの書類で規定のスコアや成績を満たすことは、英国の受験において最低限必要なことではあるが、合格のための重要条件ではない(例えば英語力については、Conditional Offerという形で留学開始までに必要な英語スコアを取り直すかプレ・マスターコースというアカデミック・イングリッシュ用のコースを留学前の夏休みの約1ヶ月履修することなどを合格条件とする場合もある)。大学の成績については、ロンドン大学系列では一般的にはGPA3.6/4.0が基準として求められ、オックスフォードではGPA3.6以上が応募者の多数派になるという(ただし例外もしばしば聞くのであくまで目安であろう)。海外大学院への進学に関心のある読者の方は、学部時代からの成績に気をつけておくべきだろう(また社会人で海外修士に挑戦される方が学部時代のGPAでトップ校への出願を躊躇されるという話をしばしば聞くが、そうしたことも踏まえて、学部時代からの準備が大切かもしれない)。私がGPAや成績について悩んだことは、オランダ留学時代に異なる専門分野の授業を履修し、挑戦心から敢えて最終学年のゼミを受けた結果、留学時代の成績が芳しくなかったことだ。これについては、京都大学への単位変換を敢えて行わずに、京都大学での成績だけの提出を試みたが、SoPやCVに留学先を記述するとやはりそうした留学先の成績表の提出も求められたので、追加で提出した。この成績が、プラスとなったのか、マイナスとなったのかはわからないが、少なくとも交換留学に挑戦し、英語の環境でも約一年間生き残れたという証明にはなったのではないかと思う。

 英語のスコアについては、各大学のコースのアプリケーションの欄に必要スコアが記載されている。勉強法などについては、多くのブログなどの記事があるので、そちらに譲る。ただし、IELTSなどの教材は高いため、大学の図書館の利用(過去問集など)や、リスニングはYoutubeを利用、スピーキングはDMMなどのオンライン英会話を利用したとだけ、簡単に述べておく。

Fig1. LSEのOld Buildingの入り口にて

奨学金と京都大学大学院への進学の決意

 実用的な知識よりも、より根本的に社会のあり方を問えるような研究を行いたいという思いもあり、4年生の秋の時期には変な意地があったのであろうか、自分の研究を非常に「わかりにくく」説明して、奨学金へ応募したことで、多くの奨学金の獲得を逃した。LSEの合格を受け取った4年生の1月中旬(学部卒業まであと2ヶ月)でも奨学金は獲得できておらず、少し気がかりだった。その頃には、卒業論文を書き終え、研究のリテラシーが向上したのだろうか、その頃から、京都大学を含めた日本の大学で行われている研究が、面白いと再度認識できるようになった(それまではなぜ面白いのか、アカデミックな意味で理解できていなかったのだ)。そこで、京大の大学院にまずは進学して、LSEの留学までの期間を過ごそうと決意し、2月に無事大学院合格を果たした。

 そして、ちょうどその頃に、「トビタテ留学JAPAN」の応募があり、自分がその出願の資格があることを知る。条件として、日本の大学に所属し、帰国後にその大学を卒業することが条件だが、奨学金がなかったこともあり、なんとか出願してみようと考えた。

「トビタテ留学JAPAN」の応募で一番ネックになったのは、どのように自分の研究と実践活動(と呼ばれる実務的な課外活動)を関連付けるのか、そしてただでさえ忙しいと噂のLSEでの修士課程でどのようにして実践活動のための時間を捻出できるのかという問題だった(実際正規修士課程で同奨学金を利用されている方の多くは「理系」の方で、ラボでのインターンを実務活動に当てている印象があった)。たとえ計画書の上では上手くいきそうでも、現実としてどの程度ロンドンで実行できるかは不安だったからだ。しかしそれでもなんとか同奨学金に採用され、LSE留学の一部の資金を賄うことができた(残りは、家族からの支援)。そして英国留学では、研究+アルファを達成するための準備がはじまった。次回は、LSE留学時代とその後について書く。

Fig2. フロイト博物館前にて

次号へつづく。。。

森江建斗 (モリエ ケント)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)
MSc International Relations Theory
京都大学 人間環境学研究科修士課程

大学院生として海外で暮らしていると、どんなに充実した環境で自分の好きな研究をしていても気分が落ち込んでしまうことがあるのではないかと思います。私は素晴らしいメンターに恵まれ、申し分ない環境で研究に没頭させてもらってきましたが、時にニューヨークでの一人暮らしを寂しく感じたり、卒業や論文のプレッシャーから大きなストレスを感じることがあります。そんなときは身体を動かすことのほかに、読書をするようにしています。上記のような精神状態になると、私が度々手にとる「常備薬」のような本が何冊かあるので、その中から7冊を簡単に紹介させてください。

特に現在、新型コロナウイルスの蔓延を遅らせる目的で、ほとんどの研究所は閉鎖を余儀なくされていると思います。私もその一人ですが、日本国外で一人きりで生活しているとこのような状況はとても苦しいものです。もし以下の読書案内が何かの一助になればこれほど嬉しいことはありません。

1.規則正しく生活する『走ることについて語る時に、僕の語ること(村上春樹)』

村上さんは小説家であると同時に熱心なランナーでもあります。このエッセイ集は、村上さんが小説を書き続けられる力の源泉を、「走ること」と絡めながら解き明かしてくれます。私の受け取ったメッセージとしては、小説を書くという精神的に負荷のかかる仕事を継続的に行うためには、肉体的にもタフであり続けなければならず、そのためにもなるべく規則正しく健康的な生活習慣を意識的に維持するというものでした。これは博士課程を過ごす上でも非常に有益な考え方なのではないかと日々感じています。

2.誠実に働く『ペスト(カミュ)』

フランスの哲学者カミュの思想は、不条理な世界と闘うことに人間の尊厳をみる、というものです。ペストにはその思想がストレートに表現されています。ペストの大流行という絶望的な状況に、市井の人々は自分のできることを誠実に行う、という方法で立ち向かいました。この小説にはカミュの戦争体験が反映されています。自分のやるべきことを愚直に行うことがどれほど尊い行動で勇気を伴うものなのか、この物語は教えてくれます。

3.ヒューマニズムのために研究する『人間の土地(サン=テグジュペリ)』

『星の王子さま』が有名なサン=テグジュペリですが、彼は郵便飛行のパイロットでもありました。当時の郵便飛行は山脈を未発達な飛行機で越える命がけの行為で、その過酷な仕事をとおして磨かれた感性によって、サン=テグジュペリは人間の美徳に対する素晴らしい洞察を行なっています。この本では、人間は自分の外のものに対して「責任」があると語られます。それは、郵便物やそれを待つ人々、帰還を待つ家族などの小さな単位から、それらを超えて、人間が成し得る行為・勇気を示すこと、良い世界の建設に末端でもよいから加担すること、とされます。研究の目的を見失いそうになると、この本に戻ってくるようにしています。

4.踏み潰すまで進む『漱石人生論集(夏目漱石)』

この本の中の「私の個人主義」という公演録を頻繁に読み返します。この場で使う個人主義は自分勝手という意味ではなく、自分の中に揺るがない価値判断の基準を持つ、という程度に解釈できると思います。この公演録では夏目漱石が文学をする上での強い決意が語られ、何か物事に向かう際は、自分の心の中で「やりきった、踏み潰すまで進んだ」という点まで到達すべきだと説かれます。そして自らの個人主義(=個性や天職と置き換えても良いでしょう)を追求していく一方で、他人に対しても同様にそれを認められるようにならなければならない、それらはセットで考えられるべきであることが書かれています。博士課程の指針となり得るアドバイスだと思います。

5.他人の幸福を願う『グスコーブドリの伝記(宮沢賢治)』

この物語は『童話集 風の又三郎』に収められています。ブドリは妹のネリと両親と共にイーハトーヴの森の中に暮らしていましたが、冷夏による飢饉の影響で両親を亡くし、妹は連れ去られてしまいました。ブドリは生きていく為に必死で働き、その合間に本を読んで勉学に励みます。その本の中にクーボー博士の書いたものがあり、ブドリは彼に師事しその紹介で火山の仕事に従事します。そこでブドリは危険な火山の工作や肥料の空中散布などを行い人々の生活の為に尽力します。そして最後には生きては帰れない火山の仕事に赴き命を落とします。ブドリは辛い境遇においても他人を信頼し感謝します。そして科学が人々の生活を豊かにしていくことを喜び信頼します。彼の根底には純粋に他人の幸福を願う心があり、見返りを求めません。その優しくたくましい心に胸が熱くなります。宮沢賢治の物語からは他に『銀河鉄道の夜』も推薦したいと思います。この物語も他人の幸福を願う優しい物語で、幻想的な銀河鉄道の描写がとても美しいです。

6.命をかけて他国に学ぶ『天平の甍(井上靖)』

奈良時代に遣唐使として唐に渡った僧侶の物語です。僧の普照と栄叡は唐の仏教に学び、鑒真を日本に招く偉業を成します。彼らは留学生の先駆けでした。しかし、この時代の留学はまさに命を天に委ねるようなもので、まずは唐まで無事に渡れるのか、そして生きて帰国し学んだものを持ち帰ることができるのかも定かではありませんでした。そのような過酷な状況のなかでも、当時の遣唐使は外国に学び、日本の文化の発展に大きな貢献をしました。現代の留学はこの当時に比べれば随分易しいでしょうが、それでも本の中でそれぞれの遣唐使が経験する内面的葛藤や苦悩、喜びそして成長には現代の留学生にも通じるものがあるのではないかと思います。そして、私たち現代の留学生も遣唐使の時代から続く大きな人と歴史の流れの中にあると思うと力をもらえるような気がするのです。

7.心の奥に希望を見出す『Man’s Search for Meaning(邦題: 夜と霧)(Viktor E. Frankl)』

オーストリアの精神科医であったヴィクトール・フランクルは、第二次世界大戦中にナチスによってユダヤ人の強制収用にあいました。この本はヴィクトールの収容所での経験とヴィクトールの唱える「ロゴセラピー」に関してまとめられた本です。人は強制収容所のような凄惨な場所であっても、心の持ちようによって耐え忍び、物事に感動したり人を気遣ったりすることができることを証明しています。また、自分の人生や体験に意味を見出そうとする姿勢こそが、生きていく上で最も大きな糧になるといいます。この本では感動的な文章と対をなして収容所での目を覆いたくなるような実態が描かれています。現在の世界でも至る所で人種や性別による他者の排除が行われていますが、そういった間違った思想を突き詰めていくとどれほど恐ろしいことが待ち受けているのか、この本は警鐘を鳴らしています。米国の大学院では様々な背景をもつ人と出会い一緒に研究することになりますが、それは非常に価値のある経験なのだと思わされます。

上記の中から一冊でも、みなさんの心に寄り添うものを紹介できていたら嬉しいです。

山口 直哉
ニューヨーク大学 New York University, Sackler Institute of Graduate Biomedical Sciences

はじめに

 ニュースレターの読者の皆様、はじめまして。2018年9月から2019年9月までの約1年間、英国のLondon School of Economics and Political Science (以下LSE)にて、MSc International Relations Theoryという修士課程に在籍していました。そして、現在は京都大学人間環境学研究科修士課程にて2つ目の修士号の獲得を目指しています。このニュースレターでは、米国への大学院(修士・博士課程)進学をされた方の経験談が多いとは思いますが、いわゆる「文系」とされる分野でも、英国や日本での修士号を組み合わせて、研究の計画を立ててみることも可能なのだという参考になれば幸いです。また、こうした少し変わった経歴を踏むことになった経緯や意思決定の背景についても、簡単に述べられればと思います。

 本記事は、あくまで個人的な価値観・考え方を反映した記事です。また後から振り返り論理性や一貫性を「作り」きれいに見せるよりも、各時期に何を感じながら(多くは悩みながら)どのように意思決定を下していったのかが伝わるように少し叙述的に書きました。その点を踏まえて出願準備や海外留学中の合間にご笑覧頂ければ幸いです。

海外修士課程への挑戦を決まるまで

 英国の大学院進学に関心を抱いたのは、早く見積もれば大学2年生のオックスフォード大学でのサマースクールへの参加し、はじめて海外の教授から自らの専門分野を学んだことがきっかけであった。最終的に出願を決意したのは、4年生の春(4~5月)である。その頃私は就職するのか、それとも内定を断るのかという岐路に立たされていた。当時、オランダのユトレヒト大学に交換留学していたが、4月のロンドンキャリアフォーラムで運良く内定を頂き、就職か進学かという選択の淵に立つことになった。多方面で先輩・先生方に相談しながら、自分の進路について、1ヶ月(内定受諾か否かの返事の期限)悩んだ末に、大学院の進学を決め、今回の内定は断ることにした。

就職か海外大学院進学か

 就職か海外大学進学かを選ぶ際、決め手になった観点について、簡単に記しておきたい。最も大きかったのは、いま関心のあるテーマを深めたいという欲求であった。そしてせっかく修士課程に進むのなら、その分野で最先端の国で学んでみたいと、オックスフォード時代やユトレヒト留学を思い返しながら考えた(この時点では国内大学院への進学はあまり考えていなかったが、それは前述した海外での経験から、専門分野を海外で学んでみたいという気持ちが強かったためである)。多くの人が悩むであろう点は、一旦社会人になってから(海外)大学院に進学するか、そのまま学部卒業の後に(海外)大学院に進学するかであろう。この問いに対して、私は、前者のキャリアは可能なものの、それは実務的なキャリア(例えばビジネスにおけるキャリアアップや国際機関での勤務)を踏まえた内容の海外修士号の取得に限られがちではないかという考えを持つに至った。今現状で有している学術的な問いや視点を大切にしつつそれをそのまま深めていきたい場合、実際に社会経験を積み実務的な専門性を身に着けた上で学び直すという選択肢よりも、学部卒業後に直接大学院進学するほうが、当時の自分には魅力的に映ったのだ。

留学先の国選び

 次に、どこの国のどの大学に出願するかの判断軸について書きたい。まず、修士課程の制度は国によって大きく異なる。例えば、私の分野である国際関係学では、米国や大陸ヨーロッパ、アジアの大学の多くは2年間の修士課程となる一方、英国やオランダは1年の修士課程が主流で2年の修士課程は少数である。(2年のものの多くはResearch Masterで、1年制のコースワークに加え、米国で受けるとされるメソドロジー(量的分析と質的分析など)を受講する他、2年でゆっくりと修士論文を計画するもので、多くの場合はPhDへ進むための予備期間と見なされる)。その他にも、2大学での修士課程を2年(各大学1年)で完了させるDouble Degree Programも存在する。Double Degree Programは私が進学したLSEにも用意されていたためそちらにも大変関心があった。

 どの程度の海外大学院進学者の方々がどれほど広範な視野を以て論理的に意思決定を下すのかわからないが、私の場合は、それほど包括的にあらゆる選択肢を検討したわけではなかった。例えば、米国に関しては、出願のための準備(試験なども含む)が多く、卒業論文にも注力したかった自分にとって魅力的に映らなかった。 

 そうした消極的な背景に加えて、同じゼミの先輩が2年連続でLSEへ進学していたこと、また夏から本格的にはじめた卒業論文の研究が英国で盛んであることに気付いたことで、私の留学候補先は次第に英国に決まっていった。また、英国は米国と比べて必要な出願資料・要件が少なく、比較的出願に労力を割かれずに済むということも、その決断の後押しをした。

Fig1. バスの2階席より、通学風景

大学選びとコース選び

 そうして夏頃には出願を英国に絞り、オランダ留学より帰国した。次にどの大学へ出願するのかという問題に直面したが、ここは比較的スムーズに決定した。結論から言えば実際に出願したのはLSEのみで、他に「滑り止め」は何も受けなかった。それは、おそらく前述のオックスフォード大学のサマースクールの教授が修士課程でLSEを出ていたこと、身近な先輩・先生方からの影響、そして卒業論文で頻繁に引用していたGeorge Lawson先生やBarry Buzan先生(現在は名誉教授で教鞭は取っていない)がLSEで教鞭を取っていたことなどが、絡み合って、LSEしかないと思っていたのだ。LSEには、私の求めている知的土壌が存在したのだ。LSEに行けなければ英国留学しないと、半ば頑固に決めつけていた節があった。

 大学選びがスムーズに進んだ一方で、どのコースに出願するのかということに関しては大変悩んだ。悩み方としては、①やはり1年は修士課程として短いのではないか、(そこから派生して)②2年間のReserach MasterやDouble Degree Programに応募するのか、それとも③様子を見る形で一旦1年間のTaught Master(1年間でコースワークが中心となるがコース終了後には修論執筆もする「盛り沢山な」コース。英国では一般的)に出願するべきか、という悩みであった。一般に英国の1年間のTaught Masterに出願する場合、修士課程終了後にすぐに就職を目指すのであれば早い人であれば修士課程に入ったばかりの11月のボストンキャリアフォーラムを、遅い人でも3月のロンドンキャリアフォーラムを目指すと聞いていた。そもそも卒業後にすぐ就職するのかも当時決めておらず、自分の研究を深めたいのに就職活動に時間取られては意味がないだろうという贅沢な意地によって、英国の修士課程1年、単位取得によるTaught Masterの選択肢は4年生の秋頃には魅力的には映っていなかった。一方で、学びたいものがLSEにあることは明確であったものの、2年間海外で大学院生活を続けることの資金的な負担に関する不安もあった。

 結局、4年生の秋の段階では、LSEの1年コースとLSEが関係するDouble Degreeを比較検討し、もっとも求めている時間とはLSEでの学びであり、それを最も直接的に得られるのは「LSEでの1年ではないか」という結論に至り、シンプルにLSEの1年間のTaught Masterを選択し、その後の計画はまったく考えずにInternational RelationsとInternational Relations Theoryという2つのコースに出願した。2年間のResearch Masterの選択肢は、1年の間にシラバスや教授との繋がりを作れれば、満足するのではないかという考えに帰着した。その結論を導くに当たり、実際に6つほどの悩んでいた候補のコースを書き出し、卒業までの時間割を組み、可能であればシラバスを入手し、徹底的に具体性を引き出した上で結論をくだした。こうして行き当たりばったりな出願先の選定は4年生の10月下旬には決定し、あえて言うなら選択肢③へと落ち着いたのだ。

Fig2. LSE図書館の内部

次号、英国修士課程Taught Masterと日本の大学院の自家製「ダブル・マスター」ができるまで②(出願プロセス)につづく。。。

森江建斗 (モリエ ケント)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) MSc International Relations Theory
京都大学 人間環境学研究科修士課程

私は2018年8月からペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)の教員を勤めている。専門はスポーツに関する「心のトレーニング」として知られる、スポーツ心理学である。この記事では私の経験を、1)修士課程の経験、2)博士課程合格への道、3)博士課程の経験、4)大学教員の経験、5)新しいステージへ、の5つに分けてお伝えする。これらの経験に関しては私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でもアメリカ留学と合わせてお伝えしているのでそちらも併せて見てもらいたい。米国大学院進学に興味のある皆様へは、日本で英語を伸ばす、トーフルで高得点を取る、学費免除で留学する方法などを留学中の大学院生8人で対談した内容は興味深いものであろう(留学経験者8人との対談)。またトーフル23点で留学して、修士課程にたどり着くまでの1年間に関する記事はこちらを見ていただきたい。

修士課程の経験(2012〜2014)

修士としてまず経験したのは、英語の壁であろう。英語学校や聴講生として大学の授業を受けた1学期と比べ、課題の量もレベルも一気に上がった。授業について行く事に精一杯。課題をこなすにあたっては、英語の文法を毎回見てもらうなど、出来る限りの事をした。また、専攻にはメンタルトレーニングやカウンセリングも含まれていた為、授業でカウンセリングの練習があった。英語を理解するだけでも苦労していたところ、カウンセリングなど出来るわけがない。みんなの前でデモンストレーションをする時は、本当に辛かった。しかし、最新の内容を学べる環境は、非常に有り難かったし成長しているという実感も力の源になった。

幸いな事に、大学テニス部の大学院アシスタントコーチをしていた為、英語で会話する機会も多く、上達は早かった様に感じる。英語が上達すればするほど、授業は楽になるので他競技のコーチをしている大学院生など、友人が増えたことも幸いした。あらゆるスポーツを大勢で一緒にやり、大学のタレントショーに人生で初めてのダンスで友人と挑み優勝したこともある。スポーツを通した絆は、本当に有り難かった。

修士課程を振り返ると、アメリカの文化に馴染み、博士課程までの素晴らしい準備期間になった。修士号を頂く際に最優秀学生として表彰されたのは、嬉しい誤算であった。大学院生として2年間、その後の男女テニス部の総監督としての1年間(2014〜2015)とコーチは楽しくやりがいもあったので博士課程への進学を迷った事もあったのだが、アメリカに来た理由が「博士号を取り大学教員」だった為、ブレなかった。

博士課程合格への道(2012〜2015)

より確実に博士課程に合格出来るよう修士課程からテニス部の総監督時代の3年間、早いうちから指導教官の候補・大学を探し、連絡し、直接会いに行くこともした。修士課程が始まってすぐ、博士課程の大学を考え始めた。多くの研究論文を読み、博士課程で一緒に研究をしたい教員を探した。まずはアメリカでスポーツ心理学の学べるプログラムを全て確認し最初は、10個以上の候補があった。プログラムで一緒に研究したいと思う全ての教員に連絡して、学生を取る可能性があるか、そして大学院生アシスタントの仕事があるかをそれぞれ訊いた。暖かいメールを送ってくださる教員から、返信がない教員まで色々であったが返事をいただけた教員の方々には研究志望理由を送るまでの約2年間、2ヶ月に1回程度の頻度で自分の研究業績や、博士課程で研究したい内容を少しずつ紹介して関係を深め10個程度あった選択肢が最終的に3つになった。

第1志望として選んだプログラムには世界一と言えるほどの研究業績がある教員が務めておられ、その方に連絡を取り合ううちに良い方だと思えたので直接大学に出向き、学会では研究発表について会話する機会も作った(むしろその為に、学会発表へ行った)。このような準備を経て研究に対する意識・日本とアメリカでの研究活動(論文4本)を高く評価してもらい、研究アシスタントとしての仕事を頂き、博士課程に合格した。

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博士課程の経験(2015〜2018)

博士課程の授業は、明らかに難しかった。この一言に尽きる。この3年間が人生で1番勉強・研究した時期であると自信を持って言える。朝から大学に行き、夜にご飯だけ食べに家に帰ってきて、また大学に戻って深夜まで過ごすことも珍しくなかった。修士課程と博士課程はまるで別物であった。研究ミーティングは毎週あり、研究アシスタントとして働いた。指導教官との距離は、かなり近く、特に最初の1年は9割が研究の話であり、研究の話以外は正直そこまで話した記憶がない。研究活動、授業の受講、そして大学生を対象とした講義など毎日が充実していた。

修士課程までとは違い、「英語が…」などという言い訳はここではできない。アメリカ人と対等だ。博士号取得にかかる時間などは人それぞれだったし最初プログラムに15人程いた学生の中には途中で辞めるものもいた。私も、実験と論文を書くことに非常に多くの時間を費やし、データの取り直しなど上手くいかず進まない事もあった。

知識を詰め込むための授業、博士論文を書く前の審査、実験のデータ収集、論文の執筆(そして数えきれないほどの修正)、そして論文の発表に提出。ここには書き切れないほどの長く険しい道が、博士課程では待っている。これは私だけでなく、アメリカの博士課程へ進学する多くの留学生が経験するであろう。また私たち日本人の場合は英語を使うことそのものがその険しさをさらに際立たせる。しかしその反面得られる事も多い。博士課程の授業や研究活動から得た知識は、本当に役立っている。スポーツでは、上達する為に1)個人のモチベーション、2)指導者、3)環境が重要になる。留学も全く同じだ。

余談だが、在学中にヨーロッパ連合から研究費を頂き、1年目の夏は3ヶ月半の間、チェコで研究活動をする事が出来た。ヨーロッパ、アメリカ、そして日本の文化を比べる事が出来て、また経験が増えたと感じた期間でもあった。本当に世界は広い。

大学教員としての経験(2018〜現在)

まず、仕事獲得が大変であった。何度も面接の練習を行った記憶が蘇る。30人程度が応募。採用される人はわずかに1人。書類から絞られ、9人がスカイプ面接へ。そこから上位3人が2泊3日でキャンパス面接に呼ばれる。研究発表と模擬授業を1時間ずつなど非常にしっかり評価するアメリカの面接に驚いた。さらに驚いたのは、その費用を全てをアメリカの大学が払ったくれたことだ。研究論文、研究発表や、教えた授業の数など仕事を取ることを常に考えて博士課程に在籍していた事が、功を奏しただのろう。正直、博士号を取ることが目的で来たアメリカだったが、仕事を取ったときの方がその嬉しさは強かった。

大学教員として感じる事は人それぞれであろうが、私は博士課程の方が数倍忙しかった。自主性が重んじられるのが大学教員であり、授業への用意や研究を進めて行く時間など、学生の頃と比較して非常に融通が聞く。しかし、業績が残せないとクビになるというシビアなところは、日本と大きく異なるであろう。アメリカ特有の実力社会が前面に押し出されている。

学生からはHiro(ヒロ)と呼ばれている為、教員という感覚を持つ事はそこまでない。自分は「先生/教員なんだ」という感覚を強く覚えるのはむしろ、日本の大学に外部講師として伺った際、皆が口を揃えて、岩月先生と呼んでくれるときである。

新しいステージへ

アメリカでは、教員として精一杯活動したい。ちょっと大胆発言かもしれないが、私は「スポーツ心理学ならこの人だよね!」と言われるような人物になりたい。日本で知名度をあげたい。去年(2019年)、一時帰国の際には日本の16大学に外部講師として呼んで頂いた。国立では、大阪大学や名古屋大学、私学では、慶應義塾大学や同志社大学、スポーツ・健康科学の大学では、鹿屋体育大学、大阪体育大学や日本体育大学などだ。外部講師としての活動は今後も継続する予定である。

さらには高校・中学での外部講師としての活動や企業向けの研修なども含め、「役に立ったな!」・「楽しかったな!」・「視野が広がったな!」と思ってもらえる様な講師として日本の教育に貢献したい。スポーツ心理学者として、日本のスポーツ選手をサポートする事が出来たらこれ程、面白いことはないだろう。もちろん冒頭で述べたYouTubeでの情報発信も継続してゆく。

Only Oneを目指す

留学志望者の皆様が、この記事を見ているであろう。私は、留学に怖くて足がすくみ、前に進みだせない人を大勢見てきた。もし読者であるあなたがそんな中の1人であるなら、思い出してほしい。私のトーフルは当初23点で未来も全く見えていなかった。思い返せばリスクしかなかった様に感じる。それでもうまく行く例もあるのだと。

アメリカ留学から、皆様にしか出来ない経験をして頂きたい。この記事が、少しでも参考になり、留学の道への架け橋になれば、こんなに嬉しいことはない。近い将来、この記事を読んでさらにモチベーションが上がり、大活躍へ頑張っている皆様からの「記事読みましたよ!」といった、連絡を頂くことを、私は楽しみにしている。一歩踏み出し夢を叶えるには、今しかない。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)

私は、アメリカのペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)でスポーツ心理学、研究方法論、健康科学を教え、研究活動を行う教員である(2018年8月〜現在)。教員になる7年前の2011年6月から留学した。驚かれるかもしれないが、留学半年前のTOEFLは120点満点中23点だった。そこから留学し、約1年後(2012年8月)にスポーツ心理学の修士課程に入学。卒業時には全大学院生の500人中で最優秀学生として修士号を取得した(2014年)。男女テニス部の総監督など1年間就職した後、博士号を取得(2018年)し、現在に至る。自分は全く英語が出来ないところから、なんとか留学時の目標/夢の「博士号取得して大学教員」を叶える事が出来た。

今回の記事では、留学を決めた2010月11月から2012月5月の修士課程に合格するまでの道をお伝えしたい。また次号、「修士、博士で学び、その経験を生かし新たなステージへ」では、修士課程から現在までをお伝えする。この記事から、「英語力0からでも、こんなことをしている人がいる」と知っていただき、アメリカ留学は誰にでも可能であると、留学したいと思っている人を1人でも勇気づける事が出来れば、これ程嬉しいことはない。私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でも留学に関する色々な情報を発信しているので是非、見て頂きたい。

留学を決めるまでのストーリー

多くの優れた学生と違い、自分は勉強に関してはド素人であった。唯一、誇れるのは大学4年生まで打ち込んだテニスの経験だろう。テニスの特待推薦で高校に入学。スポーツクラスに在籍した。基本的には、学業のレベルが低い運動好きが集まり、部活に励む為のクラスとお伝えしてもよいだろう。インターハイ団体ベスト4・ダブルス高校ランキング10位に入賞し、テニス推薦で日本大学に進学。一般にいう「受験」などした事がなかった。大学も学業の成績(GPA)も、2.0とさっぱりで、教員免許だけ取得して卒業した。総じて勉強にはあまり縁がなかったのだ。だが、高校教員になる為に、大学院でしっかり勉強しようと考え、日本大学大学院に進学した。ここでの勉強は頑張ったが、英語が出来ない事には変わりなかった。高校教員になるために入学したのだが、この頃から、高校ではなく大学の教員になりたい、また英語を伸ばし、将来の可能性も広げたいと思うようになった。私が様々描ける夢の中から無謀にも、(1)アメリカに留学して、(2)英語を伸ばし、(3)修士号、(4)博士号、(5)大学教員を選んだのが2010年の12月だった。一念発起し、指導教官に進めて頂いた大学へ書類を出す準備に取り掛かった。まず、2ページの履歴書を作り、エッセイではなぜスポーツ心理学を勉強したいか、英語は苦手だがすでに研究の経験があり、論文も2本掲載されてると自己アピールをした。そして、英語の成績証明書と3人からの推薦書を集めて、急いで応募した。既に専門分野の知識を少し学んでいた、研究の実績があった、そして修士号を持っていたことから、英語が伸びたらという条件付きで「合格」をもらった。

英語学校に行く選択肢しかなかった(2011年6月〜12月)

この時点であと留学に必要なのは英語だけだった訳だが、2010年12月時点でTOEFLが23点。2011年6月に留学するまでの半年間、日本で英語学校に通い必死に英語を勉強した。そこでは語学力別に初球(1~3)、中級(4~6)に上級(7~9)に振り分けられ、私は、当初初級のレベル3に振り分けられた。

ここでは特別な勉強をするわけではない。例えば、金曜日は「週末は何をしますか?」などの日常会話をする。英語学校には、気晴らしに少し英語を学ぶために来る学生もいる。彼らは楽しそうにしていた。私も英語学校が私は楽しくなかったとは伝えない。非常に楽しい経験をさせて頂いた。しかし私の留学の目的は博士号取得であった為、「こんなことで自分は修士課程に辿り着けるのであろうか?」、「博士課程は大丈夫だろうか?」とひどく焦った。博士課程、修士課程などと比較しても、自分が1番焦ったのがこの頃である。とにかく自分の行き先が見えなかったためだ。

焦りを振り払おうと、とにかく日本語を使うのを避け、生活の全てで英語を使い、日本人とも英語で話した。英語学校が終わってからも毎日英語を聞き、出来るだけ色々人と話し、ひたすらに勉強した。将来のために、日本の修士過程の研究を英語で書く作業も並行して進めた。イワツキ大学(YouTube)でも私は、英語学校の場合は、「勝負は3時以降」とお伝えしている。それは多くの英語学校の授業が3時頃には終わり、そのあとが自由時間だからだ。そこでどれだけ英語に触れる事が出来るかが、英語学校で英語を伸ばす鍵になる。残念ながら半年で英語が大学院に入学出来る点数に届くわけもない(このとき受けたTOEFLは68点で修士課程入学には80点必要だった)、とはいえ努力がみのり、2011年12月には英語が上級のレベル7まで届いた為、2012年1月からアメリカの大学で聴講生として大学の授業を受ける事が出来るようになった。

聴講生として大学の授業を受けた1学期間(2012年1月〜5月)

アメリカでの聴講生としての日々はさらに毎日英語との戦いだった。大学から与えられた正式な大学院入学の条件とは履修生として大学の授業を4つの受けて、その全てでB以上をとることだった。当たり前だが、英語のレベルが低い人しか英語学校には行かない。その英語学校の上級に上がったところで、大学の授業はまだ難しい。正直、初めて聴講した授業は全くわからなかった。何がわからないのかすらわからなかった。個人的な見解であるが、何がわからないかわかると英語が伸びてくる。わからないことについて質問出来るからだ。それもできないほど当時の私の英語は酷かったのだ。ボイスレコーダーを使って、授業後になんども聞く事もあった。それでもわからない。英語が下手な私にとっては友人を作ることも簡単ではない。それでも、親切な友人を作り教えてもらった。課題を提出する前には、何度もライティングセンターに行った。文法など文章を添削してくれる大学のサービスである。ほんの1・2ページの課題であっても何度も添削を受けることが多々あった。(修士・博士課程入学の戦略はこちら、学費免除の戦略はこちらを参照)

テニス部のボランティアコーチ(2012年1月〜5月)

英語を伸ばす事に必死だった私は同じ頃、テニスチームの監督にお願いし、ボランティアコーチにしてもらった。コーチになる事によって、アメリカ人の周りにいる機会を増やしたかったからだ。私の場合、これが留学を成功に導いたと信じている。日本に住んでいる多くの読者の方々には、いまいち想像が難しいかもしれないが、日本人がアメリカでアメリカ人の友達を作るのは難しかったりする。しかし、英語を伸ばし留学を楽しみ成功させるには、留学中の時間を日本人とだけ過ごすのではダメだと私は思う。毎日最低2時間半のコーチとしてのアメリカ人との会話には予習も何も存在しない。しかし、幸いな事に、私はその大学でテニスがダントツで上手だった為、皆私のアドバイスをよく聞いてくれた(強いチームではない)。ここでは余談だがこのボランティアコーチが修士課程の2学期からは正式な大学院アシスタントに変わり、おかげで学費が免除になった。(修士・博士課程入学・学費免除の戦略はこちらを参照)

修士課程に合格

ともかく努力を重ね、なんとか全ての授業でB以上の成績を頂き、修士課程への入学が決まった。英語のレベルを考えても、間違いなく誰よりも授業に時間を使った。長い道であったのだが、勉強にコーチにと日々忙しかったので、振り返れば履修生の1学期間は短かったようにも感じる。

誰にでも「夢」は叶う

「英語が苦手」という理由で留学を諦める人は、多いかもしれない。だが、英語が出来ないから留学を諦める、という方程式にはならない。この記事を読まれている皆様の英語はきっと、留学前の私とは比べ物にならない程上手であろう。私は留学を決めてからひたすらに勉強し大学教員まで辿り着いた。そこでこんな言葉を読者の皆様に送りたい。"If I can do it, anybody can do it." 受験経験もなくセンター試験すらよくわかっていない私が留学出来るのだから、皆様に出来ない事はないと強く思う。留学は、今までの私の人生で1番良い決断であり、同時に1番恐ろしい決断でもあった。留学は、決して派手ではない。むしろ地味な勉強の嵐だ。しかし、夢を叶えたいと思う皆様が、この記事を読み、人生を大きく変える転機に留学する勇気を持って頂けるなら、これほど嬉しいことはない。もう1度、皆様にお伝えしたい。「夢」は叶う。次号の修士課程から現在の教員の仕事までの記事を書かせて頂くのでそちらも見て頂きたい。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)

現在スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)で博士課程の学生をしている渡辺です。交換留学・正規留学について、アメリカ・イギリスなど英語圏の国の情報は多く入って入る中、ヨーロッパ留学についての情報が少ないと感じています。今回はスイスへの留学について少しでも知ってもらうために筆を取らせていただきました。

スイスには連邦工科大学が二つ、チューリッヒ(スイス連邦工科大学チューリッヒ校、ETH)とローザンヌにあります。日本ではあまり知られていない大学ですが、実は大学ランキングでは、ETHがドイツ圏、EPFLがフランス語圏でともに1位です。世界ランキングでも両校が上位20位に属しています。修士コースは学部によりますが、英語で受けられるところが多く、博士課程は英語が必須です。僕は博士課程からEPFLに所属しているためそれについて触れさせていただきます。

Fig1. 研究室の集合写真(筆者、最右)

大学入学について

EPFLに入学する際は、研究室ではなく応募したい学科に直接応募する必要があります。その際「statement of objectives」「3人分の推薦状」「CV」「成績表」などを用意する必要があります。応募の際に自分の所属したい研究室を複数選択することができます。学科内の委員会の中で審議がかけられ、それに通ったらEPFLに所属することができます。その際希望の研究室のポジションに空きがあり、教授が認めれば研究生活をはじめることができます。逆にいうと、希望研究室の教授がOKを出しても、学科内の委員会の許可が出ない限り、入学することはできません。学科内審議に合格後、希望研究室に空きがない場合もあります。ですが、一年間以内に研究室のポジションを見つけることができれば、晴れて研究生活をはじめることができます。また、研究室のポジションを見つけられていないが優秀であると判断された学生は、年に1度(または2度)ある「hiring day」に招待され、自身の研究について発表する機会を得ることができます。事前に連絡をした教授、または学生の研究テーマに興味のある教授が出席し、学生はその後インタビュー等をセッティングすることができます。経費はすべて大学が負担してくれます。基本的には修士を取り終えた(または修了見込みの)学生が博士課程に応募することが可能です。また、4年生の大学を終えた学部生でも、見込みがありと判断されれば、直接博士課程に応募することができます。(僕の所属する材料工学科では可能です。)

卒業までの一連のながれ

大学の入学金・授業料はありません。また、教授の取ってきた研究資金から給料が支払われることになります。EPFL内では給料が一律で決まっており、研究年数ごとに増えていきます(初年度:CHF51,900)。スイスは物価が高いことで有名ですが、この給料のおかけで、安心して研究に打ち込むことができます。博士学生は80%を研究に費やし、20%をティーチングアシスタント・公の場へのアウトリーチをすることを承諾する雇用契約書にサインすることになります。博士の学生は研究のほか、4年間でいくつかの授業(12単位)を受ける必要があり、これも卒業条件の一部となります。博士学生に向けての授業のため、修士学生にむけての授業に比べ、当然ながら難しいものになります。最初の一年の研究を終えると、Candidacyといわれる中間試験を受けることになります。アメリカでいうQualifying examに近く、自身がEPFL内で研究を続ける能力があることを示すための試験です。EPFLでは基本的に4年間かけて研究をおこないます。そのため1年間かけて得た研究成果に加え、今後3年間の研究計画をどのように行うかを、10数ページのレポートにまとめ、それを口頭でを教授陣の前で発表します。2度まで受けることが可能で、これに通れば、その後3年間の研究を続けることができます。また、毎年一度Annual reportの提出、(学科によっては)Candidacyの際の審査員の前での発表もする必要があります。4年間の研究後の論文提出、口頭試問、そしてPublic defenseと呼ばれる、誰もが参加できる公聴会をおえることで、博士を受理することができます。Public defenseの後はAperoとよばれる軽食・酒を伴うパーティーが開かれます。ここで、卒業をする人を研究室の仲間、友人、家族で祝い、学生生活を終えることとなります。

大学の入学金・授業料はありません。また、教授の取ってきた研究資金から給料が支払われることになります。EPFL内では給料が一律で決まっており、研究年数ごとに増えていきます(初年度:CHF 51,900)。スイスは物価が高いことで有名ですが、この給料のおかけで、安心して研究に打ち込むことができます。博士学生は80%を研究に、残りの20%をティーチングアシスタント・公の場へのアウトリーチに充てることを承諾する雇用契約書にサインすることになります。博士の学生は研究のほか、4年間でいくつかの授業(12ECT)を受ける必要があり、これも卒業条件の一部となります。博士学生に向けての授業のため、修士学生にむけての授業に比べ、当然ながら難しいものになります。最初の一年の研究を終えると、Candidacyといわれる中間試験を受けることになります。アメリカでいうQualifying examに近く、自身がEPFL内で研究を続ける能力があることを示すための試験です。EPFLでは基本的に4年間かけて研究をおこないます。そのため1年間かけて得た研究成果に加え、今後3年間の研究計画をどのように行うかを、10数ページのレポートにまとめ、それを口頭で教授陣の前で発表します。2度まで受けることが可能で、これに通れば、その後3年間の研究を続けることができます。また、毎年一度Annual reportの提出、更に学科によってはCandidacyの際の審査員の前での発表も必要になります。4年間の研究後の論文提出、口頭試問、そしてPublic defenseと呼ばれる、誰でも参加できる公聴会を行うことで、博士号を取得することができます。Public defenseの後はAperoとよばれる軽食・酒を伴うパーティーが開かれます。ここで、卒業をする人を研究室の仲間、友人、家族で祝い、学生生活を終えることとなります。

EPFLについて

世界ランキング上位にいる大学ということもあり、研究資金が潤沢です。世界中から著名な教授が集まるため、研究レベルが高く、それに伴い学生のレベルが高いです。最先端の研究のための研究装置がそろえられており、自由度の高い研究計画を練ることが可能です。また、自分は微細加工のためクリーンルームを利用します。大学が1400㎡の大きいクリーンルームを保有しているため、数多くの装置の中から最適なものを使うことができます。また、各装置に専門の技術者の方がいるため、実験サンプルの質を高いレベルに保つことが可能です。大学は国際色豊かで、現在博士課程に在学する学生はスイス出身者が20%、その他ヨーロッパ諸国が50%、それ以外の国30%の割合となっています。また、男女平等政策をおしすすめており全体の約30%が女子学生です。僕の所属する研究室にはドイツ、イタリア、スロバキア、中国、日本、イランから学生がきており、博士課程の学生は男4人、女3人の計7人です。また、教授はドイツ人で秘書は日本の方です。時間管理に優れている学生が多く、平日9時-18時まで働き、しっかりと研究成果を挙げています。これはヨーロッパのカルチャーでもあると思います。有給休暇の日数も25日と定められており、全日数の消化が義務付けられています。大学内では、他大学からの研究所によるセミナーなどが頻繁に行われており、最先端の研究について知る機会が必然的に多くなります。

研究以外の面について

大学内にはSatelliteと呼ばれるバーがあり、連日学生でにぎわっています。研究後に気軽に一杯のめるため、金曜の夜に行けば、誰かしらと遭遇することになります。誰かの誕生日や、Candidcacyの試験に合格した後などは、ここで祝うことが多いです。大学の中でPolygrillと呼ばれる無料のバーベキュー上があり、各自で肉や野菜を持ち寄ることで昼や夜にバーベキューを行うことができます。僕のCandidacy試験合格のお祝いはここでやりました。僕の研究室の教授の奥さんの研究室のつながりも多く、お互いに誘い合ってご飯を食べたり飲み会を催すことも多いです。

ローザンヌは自然に囲まれています。大学から徒歩10分でスイス最大の湖であるレマン湖にたどり着くことができます。夏はここで友達と泳ぎに行ったりビールを飲みにいくことが多いです。バーベーキュー上も近いです。また、山に囲まれているため、ローザンヌ駅から電車で30分-1時間くらいの距離でハイキングに出かけることもできます。冬にはスノースポーツも盛んになります。一時間でスキー場につけてしまうのは魅力的で、週末に日帰りでのスキーを気軽に楽しめます。

Fig2. レマン湖沿いで撮影。ワインテイスティングにて。

いかがでしたでしょうか?自然に囲まれた土地で、世界中の国々からきた研究者と仲良くなり、最先端の研究ができることはとても魅力的です。メリハリのある研究姿勢は、自分が短時間で最高の結果をだす訓練の場になっています。留学する場所を検討中の方はスイスの大学も候補に入れてみてはいかがでしょうか?

渡辺翔 (わたなべしょう)
スイス連邦工科大学
ローザンヌ校
材料工学科

ボストンに移り住んで早数ヶ月、訪問の度にMITのグレート・ドームに羨望を抱いていたことも、今ではもはや懐かしい。私はスイス・バーゼルにあるFriedrich Miescher Institute for Biomedical Research (FMI)でPh.D.を取得したのち、現在ここボストンにあるBroad Instituteでポスドクとして働いている。スイスのPh.D.コース、そしてFMIは知名度がそれほど高くないため、4年前にその概要について寄稿させていただいた (かけはし2015年2月号参照)。本記事では、その後のPh.D.取得からアメリカ移住に関連して、私が学んだことをシェアしたい。

その1. キャリアプランは自分の気持ちが第一

ディフェンスに向けて動き始めたのは、Ph.D.開始から5年経過して投稿論文がアクセプトに近づいた頃である。大学・専攻によってPh.D.取得のための要件は千差万別であり、FMIには明確な基準はない。単純に、ボス(を含むthesis committee)がOKを出せば、ディフェンスを行える。極端な話、論文が一報もなくとも、ボスが納得すれば終わりである。学生を囲い込むPrincipal Investigator (PI)もいるが、私の指導教官は完全に対照的で、3年経ったあたりで「もう十分やっただろう、卒業に向けて準備してもいいよ」とGoサインを出し始めた。しかし、当時私は自らが筆頭著者となる論文を一本も持っていなかった。Ph.D.時代の論文はキャリア形成において重要だろうし、何より論文の有無はアカデミアにおいてポスドク先を探す上でキーファクターになるだろう。卒業しても行き場のないのが目に見えていた。そのため、アカデミアでポスドクとして研究を続けるために、1.論文アクセプト→2.ポスドク先確定(と並行して博論提出)→3.Ph.D.ディフェンス、という流れに固執し、のらりくらりと雇用期間を延長してもらうことになった。結局その後2年ほどかけて、この流れに沿って何とか卒業まで漕ぎつけたわけである。

その2. 信念をもって足掻くこと

私はスクリーニングに基づいたプロジェクトを行っており、面白そうなタンパク質を解析対象として見つけてはいたものの、新規性のある発見には至っていなかった。Ph.D.の初めの3年間は、あれこれと試行錯誤を繰り返しており、ネガティブデータを山のように蓄積させていた。指導教官が認めているのであるから、さっさと卒業して、新しいラボで心機一転を図るのも一つの選択肢であったかもしれない。しかし、持ち前の諦めの悪い性格もあり、自分が手をつけたプロジェクトから逃げ出す気にはなれなかった。ノーベル賞受賞者のインタビュー記事などで、「この実験こそが発見の鍵だった」などとドラマティックに語っているのを目にするたびに、自分にとって次の実験こそが運命を変えるものだと思わずにはいられなかった。現実はそんなに華やかなものではなかったが、幸運にも、淡々とプロジェクトの流れが変わっていくのを私は実際に感じることになった。指導教官が卒業のGoサインを出し始めた頃、当時新しく流行り始めたコンセプトを取り入れると、私の解析している現象に理論的根拠が与えられそうだと気づいたのである。新しいコンセプトであるため、それを示すための種々の実験系がラボには存在せず、自分ひとりで立ち上げることになった。時間のかかるプロセスではあったが、その後2年ほどの実験はポジティブデータの連続で、無事論文はアクセプトに至った。生産的なPh.D.課程であったとは決して言えないものの、自分を信じて最後まで足掻くことの重要さを学んだ。

FMI最終日にラボメンバーと。前列中央が筆者。後列中央が指導教官。

その3. 何事にも全力を尽くすこと

ポスドク先を決めるにあたってはもちろん研究テーマを第一に考慮した。ヨーロッパ文化は十分に体験した感があったため、アメリカも視野に入れた。ポスドク時代をMITで過ごした指導教官曰く、「アメリカの一流大学のビックラボに行くならば新しい経験ができるだろうが、そうでなければヨーロッパの研究水準も負けてはいないし、むしろヨーロッパの方が適切にオーガナイズされている」とのことで、ボストン、ニューヨーク、カリフォルニアの一流大学に焦点を合わせて、興味のあるラボをいくつかピックアップした。とはいっても、分野を大きく変えようとしていたため、そう簡単にアプリケーションメールに返事がもらえるとは思えなかった。そこで、ポスドク期間の詳細な研究計画を書いた、かなーり長いカバーレターを作成し、意中のPIに送付した。詳細を書けば書くほど「柔軟性のなさそうな候補者だ」と捉えられる可能性もあるため、必ずしも良い戦略であるとは言えないだろう。どんなに準備したところで、いわゆる大御所のPIの元にはアプリケーションが山のように届くため、返事すらもらえないこともよくあると聞く。そんな中、提案した研究計画が、幸運にもボスの興味と完全に一致して、トントン拍子にことが進んだのが第一志望であった現在のラボである。ポスドク先探しは、運や縁といったコントロールできない要素に左右されるプロセスであることを実感した。
バーゼル大学でのPh.D.取得のプロセスは論文が1本でも出版されていれば、それほど厳しくはない。基本的に、出版された論文をそのままResultsのセクションとして挿入し、やや詳細なIntroductionとDiscussionを付け加えれば博士論文の完成である。聞くところによると、他のヨーロッパ諸国では、出版された論文の挿入は認められず、新たにResultsを再構成しなければならない場合もあるらしい。博士論文の提出後、1ヶ月程度でディフェンスの日取りを決めることができる。ディフェンスそれ自体も、口頭発表によるプレゼンテーションと、それに続くthesis committeeとのディスカッション(※博士論文のリバイスを求められることもある)という形式で穏やかなものであった。ディフェンス当日における受け答えが評価され、ラテン・オナーズとよばれる学位に付随する称号も与えられる。その後、博士論文の最終稿を大学に提出し、晴れてPh.D.となった。

Ph.D. hatと友人たちからのFarewellプレゼント。実用的なものが多く非常にありがたい。

その4. Science is tough.

学位留学を夢見ていた頃の私は、海外の有名研究所で働けばいい論文が出る、そういう研究所のPIは上手くラボ内で指揮をとってテーマが面白くなるよう誘導するものだ、と他人任せの甘えた考えを持っていたように思える。指導教官の口癖のひとつは“Science is tough.”で、自らが口を出して学生やポスドクに結果を与えてしまうと、彼らが科学の険しさに気付くことができなくなると繰り返し言っていた。研究分野が細分化され、求められる知識・技術が多様化されてきている今、1人で研究を行うのは非常に困難であり、適切な共同研究が求められるのは言うまでもない。その一方で、科学者は結局のところ孤独であり、自分の学説を打ち立てるには自分のみが頼りであるということを身をもって学んだ。Ph.D.課程に、こういった教育を受けられたことは私の研究者人生にとって大きな財産であり、指導教官に深く感謝したい。指導教官曰く、研究者として生きていくのに大切なのは頭の良さ、勤勉さ、そして運(!!!)の3つであるという。国も分野も変えての新しい挑戦は始まったばかりである。気持ちを新たにサイエンスを楽しんでいきたい。

齋藤諒(さいとうまこと)
Broad Institute of MIT and Harvard (Feng Zhang lab)
中島記念国際交流財団・元奨学生