塞翁がコロナ

新型コロナウイルスが猛威を振るっており、進学や留学でも大きく影響されている人も多い事かと思います。これに関して「1655年にはペストが大流行した。当時ケンブリッジ大学の学生であったアイザック・ニュートンは、2年ほど田舎に疎開したときに、リンゴが落ちるのを目撃して万有引力など物理学の驚異的な業績を上げた。これを創造的休暇と呼ばれる。」というような美談はよく引用されるが、正直、歴史上の出来事で偉大過ぎて実感がわきにくいと思います。今回はこの場をお借りし、偶然にも同じくケンブリッジ大学で物理学の研究を行っていた筆者の体験を共有したいと思います。お付き合いいただければ幸いです。

確か大学2年生の4月の事であった。大学入試で第一志望に落ち、喪失感にさいなまれていた私は、海外の大学院に進学する方法があることを知った。上手くやれば多くの外国では大学院生は労働者として扱われ、給料も支払われ学費も掛からないらしい。それには主に準備できることは、評定平均(GPA)を上げることとTOEFL iBTのテストのスコアであった。

英語は入学試験の際に勉強こそしたものの、学校名を検索すると関連に「ヤンキー」と表示される全国でも有数の荒れた地域の公立中学の英語の授業にもついていけずに、英作文で”He will is be going~”などと書いているレベルで全国模試の偏差値も30未満。親戚にも大学院はおろか大卒もほぼおらず、英才教育とは勿論無縁。受験の際にどうしても行きたかった予備校の費用の一部は、お年玉で払う状態。言うまでもなく純ジャパ。大学生2年生の時点で、パスポートも持っていなかった。そんな私にとってTOEFL iBTのスコアなんて、頂上が雲の上で見えもしない崖を、素手でよじ登るようなものであった。

さらに日本の大学の試験は何ともやる気が出ず、受験に代表される実力筆記試験文化になじんでいた当時の私は、学部1年生のGPAはオールB程度の3前後であった。一般的な海外有力大学の最低ライン言われるGPA3.6に到達するには、少なくとも3年前期までほぼオールAで行かないと到達できない計算であった。結果が変わるわけもないのに、事あるごとに評定平均を電卓で計算した。テスト範囲のある試験が出来て何になるのか?と斜に構えていた数か月前の自分を殴り倒してやりたいほどであった。GPAが低くても合格した人の話などを探し、無理やり希望を見出していた。

評定平均を高く保ちつつTOEFLのスコアもあげ、卒業研究も真剣に行い、どうにかこうにかアメリカの大学院の出願にこぎつけたが、当時はリーマンショック直後で財政的に厳しい情勢であった。結局、合格自体は出たもののRA等は全くつかず、事実上の不合格であった。当時は奨学財団の奨学金なんて天才しか受からないと思い、出願さえもしていなかった。

スコアや努力という主観的な要素ではない。時代のタイミングという、どうにもならない大きな力が原因であった。なんとも行き場のない思いに苛まれた。東日本大震災による混乱に巻き込まれる中、この時リーマンショック自体も、それに影響される奨学金も、世の中、金が勝負を分けることがあることも思い知らされた。

念ため出願していた修士課程に進学した。助成金を獲得し国際会議で発表。研究助成金を獲得し、後の進学先となる研究室に自力で交渉しインターンを行った。貪欲に有利になりそうなことは何でも行い、TA等も積極的にこなした。

前回の失敗を生かし用意周到に準備をした結果、PhDの出願の際には、奨学財団の留学奨学金にいくつも内定し、最終的に船井情報科学振興財団やブリティッシュカウンシル日本協会の奨学生として採用され、かつノーベル賞輩出数が世界最多の研究所であるケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のWinton Programme for the Physics of Sustainabilityという特待生制度にも日本人で初めて採用されて海外の大学の博士課程の進路を知り準備開始5年半の後、念願がかなって進学することとなった。

ケンブリッジ大学ではいろいろと衝撃を受けた。天は何物をも与えまくったような信じられないくらい多才で性格もいい人も多数。他国の皇族や貴族の末裔の学生も多くいた。人生のスタートラインとバックアップの環境が、自分とは何次元も違うような人々も数えていたらきりがないほどだ。他にも20代前半で教員になっているものなど、異星人のようなタイプも多く見かけた。自分の凡人さを改めて自覚する日々であった。

研究分野は量子物理学の物性物理。行っていた物質の合成実験で、結果が出たのちに、まとめる段階で再現性が取れないことが判明し、約2年分の研究が丸々無駄になった。進学前には全く聞いていなかった途中ではラボの引っ越しがあったり、実験装置が来るのが遅れ、大規模な故障も起こり、まさに踏んだり蹴ったりであった。自分のテーマではなく、手伝いをした人達の研究は軒並みうまくいった。やれやれである。運も実力のうちといわれてしまえばそれまでだが、サボっているわけではないし、能力的なものでもない(と見ていて少なくとも自分ではそう思っている)。しかし客観的には、当てない限り何もやっていない状態と大差がなくなるタイプの研究は精神的にくるものがあった。一回一回のプロセスに時間がかかり、回数が限られるためにバクチの要素の強くなる傾向にある基礎研究よりも、研究のサイクルが短く、多く発表ができる分野が羨ましく映った。

一方で、分かりづらくサイクルが長い研究を行ったことがきっかけで行ったことも多い。そもそも量子物理学の基礎分野なんて、同じ分野の人でも分かりづらい。立食パーティーやディナーの際にバイオや法律、MBAなど他専攻の人に説明しても”That’s Interesting(それは面白いといってはいるが実際は興味ないです。それ以上続けないでくださいの意味)”といわれる程である。

どうにか面白く分かってもらえないかと「分かりやすい発表とは何か?」を追究した結果、アウトリーチプレゼン大会のネイティブスピーカーを抑えて最優秀賞を何度か受賞、マイケルファラデーがロウソクの講演をしたことで知られるFaraday Lecture Theatre at Royal Institutiton of Great Britainやサッチャーやホーキング等名だたる歴史上の人物が講演したCambridge Unionでの講演の機会にも恵まれた(Fig1)。

Fig1. Three Minute Wonder 決勝にて。Royal Institution of Great Britain

ケンブリッジ大学の生活で得たものも多かったが、先述のように博士課程において最重要な研究自体がうまく行っていなかったわけである。そのため卒業も遅くなった(Fig2, Fig3)。VISAが失効になり、一時国外退去勧告になるほどであった。特に課程終了間際ではPhD取得が確定するまでは、その後のことについて考えられる余裕もなく、手も出せない状況であった。よってPhD取得直後に置かれている状況は、見方によっては「30歳・無職・シャカイジンケイケン無し」であった。無敵に近い強烈なプロフィールである。今思えばコーヒーのシミがついたよれよれのスウェットで、昼過ぎから駅前のゲーセンのメダルコーナーに連日入り浸りタバコをふかしていたりしていたら、より強くなっていたかもしれない。

Fig2. 博士論文の提出。直後に友人たちにシャンパンをかけてもらった。
Fig3. ラテン語で行われる卒業式の儀式

就活中とはいえ、数か月間の無職生活というものは暇なものであった。この暇を利用して、今後幅広く利用できると考えた基本的な機械学習を独習した。強化学習を駆使した自動でゲームが強くなるエージェントプログラムを回し続け、育てていた。この経験も業務にも生きている。なお就職こそしなかったものの、機械学習エンジニアとしてもオファーもいただいた。

紆余曲折はあったが、外資系の日本支社へ就職した。この時の私は「せっかく外国でも認められ始めた矢先にグローバルキャリアは終わった」と内心諦めていた。それでも入社後半年以内にはグローバルプロジェクト(本社案件)に早々に参画することになり、海外出張が続いた。どちらかというと海外進出したというよりも、むしろ日本に一時帰国をしたものの、再びグローバル社会へ呼び戻された感覚であった。これも外国で博士時代に身に着けたものが身を助けた形であった。

そして昇進もして勢いに乗って来たと思っていた矢先、今度は新型コロナウイルスの影響で、海外プロジェクトが軒並み延期・中止になり、引きこもり生活を余儀なくされた。大学を卒業し、無職生活を行った後に、やっと働き始めたかと思ったら、今度は強制引きこもりである。

慣れなのか、それとも麻痺なのか、内心「ああ、またか」と思っていた。現在は引きこもり生活を利用し今後に備え、国際的に通用する資格(いわゆる国際資格)を、既にいくつか取得した。他にも今出来ることに集中して取り組むことにしている。

世の中とは不平等なものである。どうやっても王子や貴族にはなれないし、人種の優位性を身に着けることもできない。今置かれた状況を嘆いても仕方がない。それがたとえ何の前触れもなく起きた世界的なパンデミックであったとしても。どうあがいても配られたカードは変わらない。全てを受け入れて勝負するほかない。

挑戦をすればするほど失敗は増えるし、やらなければ決して遭遇しないような心がえぐられるような思いも増える。実際、ここに書くのも憚られるような故意のハラスメントや、悪質な嫌がらせにも遭った。事実一部はトラウマである。執筆する際に色々思い出してしまい、手が震えたもの、動悸がしたもの、目が潤んだものまであった。故意の加害なんて許されたものではないし、法の下に裁かれてほしいものである。しかし私が被害を受けたという過去の事実は変わらないし、悔やんでもどうにもならない。ただ人生どこでどう転ぶかは分からない。何が良くて、何が悪かったかなんて死ぬまで分からないかもしれない。どんなことでも得た教訓と経験として生かしていきたい。

思い通りになんてなかなかならないし、期待するだけ無駄だと感じることも日常茶飯事。淡い期待どころか、友人や教師には簡単に裏切られ、運にも見放される。

しかし、芸は身を助ける。様々な過程で身に着けた実力やスキルだけはあなたを裏切らない。どこからともなく不意に訪れるチャンスの前に、十分に準備が整っていれば、幸運の女神の前髪を自然とつかむことが出来る。学問に王道がないように、人生に近道はない。出来ることは、日々着々と準備をすすめることだけである。混沌とした世の中の情勢と自分の実力の無さをありのままに受け入れ、日々淡々と次の前髪をつかめるように着々と準備を進めていくこととしよう。

拙著をお読みいただきありがとうございました。読者の皆様も新型コロナの影響で行き場のない思いをしている方も多い事と思います。読者の中で数年後に以下のセンテンスが頭によぎることが有れば、今回筆をとった甲斐があったように思います。

「ああ、今の自分があるのは、あの時コロナに阻まれたおかげかもしれない」

関連動画:2020夏 慶應大編 海外大学院留学説明会【ジョンズホプキンス大学、ライス大学、ケンブリッジ大学、ノースウェスタン大学】(1:06:55から、学位取得までの過程、アカデミア、企業研究職以外への就職活動、キャリア形成の展望など)https://youtu.be/f-04Dn6JHoA

篠原 肇(シノハラ ハジメ)
ケンブリッジ大学 キャベンディッシュ研究所 博士号取得。プロモントリーフィナンシャルグループ勤務。

個人ブログ https://hajime77.com/

作成者: Masashi Otani

アリゲーター🐊が大学のマスコットであるUniversity of Floridaでバイリンガル教育について研究しているPhD生。 2013年3月、創価大学国際言語教育専攻英語教育専修(TESOL)修士課程を修了。同大学ワールドランゲージセンター助教を経て、2016年7月に渡米。翌月よりフロリダ大学教育大学院教職研究科バイリンガル教育専攻にてPhD課程に在籍。現在はQualifying Exams(通称クオール)に合格してPhD Candidate(2021年8月の卒業が目標)。日本ではTESOLを専門分野としていたが、渡米後はバイリンガル教育という観点から一つの言語にとらわれずに専門性を磨いている。指導教授は、オランダ出身で、過去にTESOL International Association会長を務めたことのあるエスタ・ディヨン博士。指導教授による厳しい訓練の結果、日本では専門外であった小学校教員養成課程の授業を5セメスターに渡って担当する機会に恵まれた。留学経験はアメリカ以外にも、オーストラリアとメキシコでの経験がある。