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私は2018年8月からペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)の教員を勤めている。専門はスポーツに関する「心のトレーニング」として知られる、スポーツ心理学である。この記事では私の経験を、1)修士課程の経験、2)博士課程合格への道、3)博士課程の経験、4)大学教員の経験、5)新しいステージへ、の5つに分けてお伝えする。これらの経験に関しては私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でもアメリカ留学と合わせてお伝えしているのでそちらも併せて見てもらいたい。米国大学院進学に興味のある皆様へは、日本で英語を伸ばす、トーフルで高得点を取る、学費免除で留学する方法などを留学中の大学院生8人で対談した内容は興味深いものであろう(留学経験者8人との対談)。またトーフル23点で留学して、修士課程にたどり着くまでの1年間に関する記事はこちらを見ていただきたい。

修士課程の経験(2012〜2014)

修士としてまず経験したのは、英語の壁であろう。英語学校や聴講生として大学の授業を受けた1学期と比べ、課題の量もレベルも一気に上がった。授業について行く事に精一杯。課題をこなすにあたっては、英語の文法を毎回見てもらうなど、出来る限りの事をした。また、専攻にはメンタルトレーニングやカウンセリングも含まれていた為、授業でカウンセリングの練習があった。英語を理解するだけでも苦労していたところ、カウンセリングなど出来るわけがない。みんなの前でデモンストレーションをする時は、本当に辛かった。しかし、最新の内容を学べる環境は、非常に有り難かったし成長しているという実感も力の源になった。

幸いな事に、大学テニス部の大学院アシスタントコーチをしていた為、英語で会話する機会も多く、上達は早かった様に感じる。英語が上達すればするほど、授業は楽になるので他競技のコーチをしている大学院生など、友人が増えたことも幸いした。あらゆるスポーツを大勢で一緒にやり、大学のタレントショーに人生で初めてのダンスで友人と挑み優勝したこともある。スポーツを通した絆は、本当に有り難かった。

修士課程を振り返ると、アメリカの文化に馴染み、博士課程までの素晴らしい準備期間になった。修士号を頂く際に最優秀学生として表彰されたのは、嬉しい誤算であった。大学院生として2年間、その後の男女テニス部の総監督としての1年間(2014〜2015)とコーチは楽しくやりがいもあったので博士課程への進学を迷った事もあったのだが、アメリカに来た理由が「博士号を取り大学教員」だった為、ブレなかった。

博士課程合格への道(2012〜2015)

より確実に博士課程に合格出来るよう修士課程からテニス部の総監督時代の3年間、早いうちから指導教官の候補・大学を探し、連絡し、直接会いに行くこともした。修士課程が始まってすぐ、博士課程の大学を考え始めた。多くの研究論文を読み、博士課程で一緒に研究をしたい教員を探した。まずはアメリカでスポーツ心理学の学べるプログラムを全て確認し最初は、10個以上の候補があった。プログラムで一緒に研究したいと思う全ての教員に連絡して、学生を取る可能性があるか、そして大学院生アシスタントの仕事があるかをそれぞれ訊いた。暖かいメールを送ってくださる教員から、返信がない教員まで色々であったが返事をいただけた教員の方々には研究志望理由を送るまでの約2年間、2ヶ月に1回程度の頻度で自分の研究業績や、博士課程で研究したい内容を少しずつ紹介して関係を深め10個程度あった選択肢が最終的に3つになった。

第1志望として選んだプログラムには世界一と言えるほどの研究業績がある教員が務めておられ、その方に連絡を取り合ううちに良い方だと思えたので直接大学に出向き、学会では研究発表について会話する機会も作った(むしろその為に、学会発表へ行った)。このような準備を経て研究に対する意識・日本とアメリカでの研究活動(論文4本)を高く評価してもらい、研究アシスタントとしての仕事を頂き、博士課程に合格した。

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博士課程の経験(2015〜2018)

博士課程の授業は、明らかに難しかった。この一言に尽きる。この3年間が人生で1番勉強・研究した時期であると自信を持って言える。朝から大学に行き、夜にご飯だけ食べに家に帰ってきて、また大学に戻って深夜まで過ごすことも珍しくなかった。修士課程と博士課程はまるで別物であった。研究ミーティングは毎週あり、研究アシスタントとして働いた。指導教官との距離は、かなり近く、特に最初の1年は9割が研究の話であり、研究の話以外は正直そこまで話した記憶がない。研究活動、授業の受講、そして大学生を対象とした講義など毎日が充実していた。

修士課程までとは違い、「英語が…」などという言い訳はここではできない。アメリカ人と対等だ。博士号取得にかかる時間などは人それぞれだったし最初プログラムに15人程いた学生の中には途中で辞めるものもいた。私も、実験と論文を書くことに非常に多くの時間を費やし、データの取り直しなど上手くいかず進まない事もあった。

知識を詰め込むための授業、博士論文を書く前の審査、実験のデータ収集、論文の執筆(そして数えきれないほどの修正)、そして論文の発表に提出。ここには書き切れないほどの長く険しい道が、博士課程では待っている。これは私だけでなく、アメリカの博士課程へ進学する多くの留学生が経験するであろう。また私たち日本人の場合は英語を使うことそのものがその険しさをさらに際立たせる。しかしその反面得られる事も多い。博士課程の授業や研究活動から得た知識は、本当に役立っている。スポーツでは、上達する為に1)個人のモチベーション、2)指導者、3)環境が重要になる。留学も全く同じだ。

余談だが、在学中にヨーロッパ連合から研究費を頂き、1年目の夏は3ヶ月半の間、チェコで研究活動をする事が出来た。ヨーロッパ、アメリカ、そして日本の文化を比べる事が出来て、また経験が増えたと感じた期間でもあった。本当に世界は広い。

大学教員としての経験(2018〜現在)

まず、仕事獲得が大変であった。何度も面接の練習を行った記憶が蘇る。30人程度が応募。採用される人はわずかに1人。書類から絞られ、9人がスカイプ面接へ。そこから上位3人が2泊3日でキャンパス面接に呼ばれる。研究発表と模擬授業を1時間ずつなど非常にしっかり評価するアメリカの面接に驚いた。さらに驚いたのは、その費用を全てをアメリカの大学が払ったくれたことだ。研究論文、研究発表や、教えた授業の数など仕事を取ることを常に考えて博士課程に在籍していた事が、功を奏しただのろう。正直、博士号を取ることが目的で来たアメリカだったが、仕事を取ったときの方がその嬉しさは強かった。

大学教員として感じる事は人それぞれであろうが、私は博士課程の方が数倍忙しかった。自主性が重んじられるのが大学教員であり、授業への用意や研究を進めて行く時間など、学生の頃と比較して非常に融通が聞く。しかし、業績が残せないとクビになるというシビアなところは、日本と大きく異なるであろう。アメリカ特有の実力社会が前面に押し出されている。

学生からはHiro(ヒロ)と呼ばれている為、教員という感覚を持つ事はそこまでない。自分は「先生/教員なんだ」という感覚を強く覚えるのはむしろ、日本の大学に外部講師として伺った際、皆が口を揃えて、岩月先生と呼んでくれるときである。

新しいステージへ

アメリカでは、教員として精一杯活動したい。ちょっと大胆発言かもしれないが、私は「スポーツ心理学ならこの人だよね!」と言われるような人物になりたい。日本で知名度をあげたい。去年(2019年)、一時帰国の際には日本の16大学に外部講師として呼んで頂いた。国立では、大阪大学や名古屋大学、私学では、慶應義塾大学や同志社大学、スポーツ・健康科学の大学では、鹿屋体育大学、大阪体育大学や日本体育大学などだ。外部講師としての活動は今後も継続する予定である。

さらには高校・中学での外部講師としての活動や企業向けの研修なども含め、「役に立ったな!」・「楽しかったな!」・「視野が広がったな!」と思ってもらえる様な講師として日本の教育に貢献したい。スポーツ心理学者として、日本のスポーツ選手をサポートする事が出来たらこれ程、面白いことはないだろう。もちろん冒頭で述べたYouTubeでの情報発信も継続してゆく。

Only Oneを目指す

留学志望者の皆様が、この記事を見ているであろう。私は、留学に怖くて足がすくみ、前に進みだせない人を大勢見てきた。もし読者であるあなたがそんな中の1人であるなら、思い出してほしい。私のトーフルは当初23点で未来も全く見えていなかった。思い返せばリスクしかなかった様に感じる。それでもうまく行く例もあるのだと。

アメリカ留学から、皆様にしか出来ない経験をして頂きたい。この記事が、少しでも参考になり、留学の道への架け橋になれば、こんなに嬉しいことはない。近い将来、この記事を読んでさらにモチベーションが上がり、大活躍へ頑張っている皆様からの「記事読みましたよ!」といった、連絡を頂くことを、私は楽しみにしている。一歩踏み出し夢を叶えるには、今しかない。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)

私は、アメリカのペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)でスポーツ心理学、研究方法論、健康科学を教え、研究活動を行う教員である(2018年8月〜現在)。教員になる7年前の2011年6月から留学した。驚かれるかもしれないが、留学半年前のTOEFLは120点満点中23点だった。そこから留学し、約1年後(2012年8月)にスポーツ心理学の修士課程に入学。卒業時には全大学院生の500人中で最優秀学生として修士号を取得した(2014年)。男女テニス部の総監督など1年間就職した後、博士号を取得(2018年)し、現在に至る。自分は全く英語が出来ないところから、なんとか留学時の目標/夢の「博士号取得して大学教員」を叶える事が出来た。

今回の記事では、留学を決めた2010月11月から2012月5月の修士課程に合格するまでの道をお伝えしたい。また次号、「修士、博士で学び、その経験を生かし新たなステージへ」では、修士課程から現在までをお伝えする。この記事から、「英語力0からでも、こんなことをしている人がいる」と知っていただき、アメリカ留学は誰にでも可能であると、留学したいと思っている人を1人でも勇気づける事が出来れば、これ程嬉しいことはない。私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でも留学に関する色々な情報を発信しているので是非、見て頂きたい。

留学を決めるまでのストーリー

多くの優れた学生と違い、自分は勉強に関してはド素人であった。唯一、誇れるのは大学4年生まで打ち込んだテニスの経験だろう。テニスの特待推薦で高校に入学。スポーツクラスに在籍した。基本的には、学業のレベルが低い運動好きが集まり、部活に励む為のクラスとお伝えしてもよいだろう。インターハイ団体ベスト4・ダブルス高校ランキング10位に入賞し、テニス推薦で日本大学に進学。一般にいう「受験」などした事がなかった。大学も学業の成績(GPA)も、2.0とさっぱりで、教員免許だけ取得して卒業した。総じて勉強にはあまり縁がなかったのだ。だが、高校教員になる為に、大学院でしっかり勉強しようと考え、日本大学大学院に進学した。ここでの勉強は頑張ったが、英語が出来ない事には変わりなかった。高校教員になるために入学したのだが、この頃から、高校ではなく大学の教員になりたい、また英語を伸ばし、将来の可能性も広げたいと思うようになった。私が様々描ける夢の中から無謀にも、(1)アメリカに留学して、(2)英語を伸ばし、(3)修士号、(4)博士号、(5)大学教員を選んだのが2010年の12月だった。一念発起し、指導教官に進めて頂いた大学へ書類を出す準備に取り掛かった。まず、2ページの履歴書を作り、エッセイではなぜスポーツ心理学を勉強したいか、英語は苦手だがすでに研究の経験があり、論文も2本掲載されてると自己アピールをした。そして、英語の成績証明書と3人からの推薦書を集めて、急いで応募した。既に専門分野の知識を少し学んでいた、研究の実績があった、そして修士号を持っていたことから、英語が伸びたらという条件付きで「合格」をもらった。

英語学校に行く選択肢しかなかった(2011年6月〜12月)

この時点であと留学に必要なのは英語だけだった訳だが、2010年12月時点でTOEFLが23点。2011年6月に留学するまでの半年間、日本で英語学校に通い必死に英語を勉強した。そこでは語学力別に初球(1~3)、中級(4~6)に上級(7~9)に振り分けられ、私は、当初初級のレベル3に振り分けられた。

ここでは特別な勉強をするわけではない。例えば、金曜日は「週末は何をしますか?」などの日常会話をする。英語学校には、気晴らしに少し英語を学ぶために来る学生もいる。彼らは楽しそうにしていた。私も英語学校が私は楽しくなかったとは伝えない。非常に楽しい経験をさせて頂いた。しかし私の留学の目的は博士号取得であった為、「こんなことで自分は修士課程に辿り着けるのであろうか?」、「博士課程は大丈夫だろうか?」とひどく焦った。博士課程、修士課程などと比較しても、自分が1番焦ったのがこの頃である。とにかく自分の行き先が見えなかったためだ。

焦りを振り払おうと、とにかく日本語を使うのを避け、生活の全てで英語を使い、日本人とも英語で話した。英語学校が終わってからも毎日英語を聞き、出来るだけ色々人と話し、ひたすらに勉強した。将来のために、日本の修士過程の研究を英語で書く作業も並行して進めた。イワツキ大学(YouTube)でも私は、英語学校の場合は、「勝負は3時以降」とお伝えしている。それは多くの英語学校の授業が3時頃には終わり、そのあとが自由時間だからだ。そこでどれだけ英語に触れる事が出来るかが、英語学校で英語を伸ばす鍵になる。残念ながら半年で英語が大学院に入学出来る点数に届くわけもない(このとき受けたTOEFLは68点で修士課程入学には80点必要だった)、とはいえ努力がみのり、2011年12月には英語が上級のレベル7まで届いた為、2012年1月からアメリカの大学で聴講生として大学の授業を受ける事が出来るようになった。

聴講生として大学の授業を受けた1学期間(2012年1月〜5月)

アメリカでの聴講生としての日々はさらに毎日英語との戦いだった。大学から与えられた正式な大学院入学の条件とは履修生として大学の授業を4つの受けて、その全てでB以上をとることだった。当たり前だが、英語のレベルが低い人しか英語学校には行かない。その英語学校の上級に上がったところで、大学の授業はまだ難しい。正直、初めて聴講した授業は全くわからなかった。何がわからないのかすらわからなかった。個人的な見解であるが、何がわからないかわかると英語が伸びてくる。わからないことについて質問出来るからだ。それもできないほど当時の私の英語は酷かったのだ。ボイスレコーダーを使って、授業後になんども聞く事もあった。それでもわからない。英語が下手な私にとっては友人を作ることも簡単ではない。それでも、親切な友人を作り教えてもらった。課題を提出する前には、何度もライティングセンターに行った。文法など文章を添削してくれる大学のサービスである。ほんの1・2ページの課題であっても何度も添削を受けることが多々あった。(修士・博士課程入学の戦略はこちら、学費免除の戦略はこちらを参照)

テニス部のボランティアコーチ(2012年1月〜5月)

英語を伸ばす事に必死だった私は同じ頃、テニスチームの監督にお願いし、ボランティアコーチにしてもらった。コーチになる事によって、アメリカ人の周りにいる機会を増やしたかったからだ。私の場合、これが留学を成功に導いたと信じている。日本に住んでいる多くの読者の方々には、いまいち想像が難しいかもしれないが、日本人がアメリカでアメリカ人の友達を作るのは難しかったりする。しかし、英語を伸ばし留学を楽しみ成功させるには、留学中の時間を日本人とだけ過ごすのではダメだと私は思う。毎日最低2時間半のコーチとしてのアメリカ人との会話には予習も何も存在しない。しかし、幸いな事に、私はその大学でテニスがダントツで上手だった為、皆私のアドバイスをよく聞いてくれた(強いチームではない)。ここでは余談だがこのボランティアコーチが修士課程の2学期からは正式な大学院アシスタントに変わり、おかげで学費が免除になった。(修士・博士課程入学・学費免除の戦略はこちらを参照)

修士課程に合格

ともかく努力を重ね、なんとか全ての授業でB以上の成績を頂き、修士課程への入学が決まった。英語のレベルを考えても、間違いなく誰よりも授業に時間を使った。長い道であったのだが、勉強にコーチにと日々忙しかったので、振り返れば履修生の1学期間は短かったようにも感じる。

誰にでも「夢」は叶う

「英語が苦手」という理由で留学を諦める人は、多いかもしれない。だが、英語が出来ないから留学を諦める、という方程式にはならない。この記事を読まれている皆様の英語はきっと、留学前の私とは比べ物にならない程上手であろう。私は留学を決めてからひたすらに勉強し大学教員まで辿り着いた。そこでこんな言葉を読者の皆様に送りたい。"If I can do it, anybody can do it." 受験経験もなくセンター試験すらよくわかっていない私が留学出来るのだから、皆様に出来ない事はないと強く思う。留学は、今までの私の人生で1番良い決断であり、同時に1番恐ろしい決断でもあった。留学は、決して派手ではない。むしろ地味な勉強の嵐だ。しかし、夢を叶えたいと思う皆様が、この記事を読み、人生を大きく変える転機に留学する勇気を持って頂けるなら、これほど嬉しいことはない。もう1度、皆様にお伝えしたい。「夢」は叶う。次号の修士課程から現在の教員の仕事までの記事を書かせて頂くのでそちらも見て頂きたい。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)