コンテンツへスキップ

新型コロナウイルスが猛威を振るっており、進学や留学でも大きく影響されている人も多い事かと思います。これに関して「1655年にはペストが大流行した。当時ケンブリッジ大学の学生であったアイザック・ニュートンは、2年ほど田舎に疎開したときに、リンゴが落ちるのを目撃して万有引力など物理学の驚異的な業績を上げた。これを創造的休暇と呼ばれる。」というような美談はよく引用されるが、正直、歴史上の出来事で偉大過ぎて実感がわきにくいと思います。今回はこの場をお借りし、偶然にも同じくケンブリッジ大学で物理学の研究を行っていた筆者の体験を共有したいと思います。お付き合いいただければ幸いです。

---

確か大学2年生の4月の事であった。大学入試で第一志望に落ち、喪失感にさいなまれていた私は、海外の大学院に進学する方法があることを知った。上手くやれば多くの外国では大学院生は労働者として扱われ、給料も支払われ学費も掛からないらしい。それには主に準備できることは、評定平均(GPA)を上げることとTOEFL iBTのテストのスコアであった。

英語は入学試験の際に勉強こそしたものの、学校名を検索すると関連に「ヤンキー」と表示される全国でも有数の荒れた地域の公立中学の英語の授業にもついていけずに、英作文で"He will is be going~"などと書いているレベルで全国模試の偏差値も30未満。親戚にも大学院はおろか大卒もほぼおらず、英才教育とは勿論無縁。受験の際にどうしても行きたかった予備校の費用の一部は、お年玉で払う状態。言うまでもなく純ジャパ。大学生2年生の時点で、パスポートも持っていなかった。そんな私にとってTOEFL iBTのスコアなんて、頂上が雲の上で見えもしない崖を、素手でよじ登るようなものであった。

さらに日本の大学の試験は何ともやる気が出ず、受験に代表される実力筆記試験文化になじんでいた当時の私は、学部1年生のGPAはオールB程度の3前後であった。一般的な海外有力大学の最低ライン言われるGPA3.6に到達するには、少なくとも3年前期までほぼオールAで行かないと到達できない計算であった。結果が変わるわけもないのに、事あるごとに評定平均を電卓で計算した。テスト範囲のある試験が出来て何になるのか?と斜に構えていた数か月前の自分を殴り倒してやりたいほどであった。GPAが低くても合格した人の話などを探し、無理やり希望を見出していた。

評定平均を高く保ちつつTOEFLのスコアもあげ、卒業研究も真剣に行い、どうにかこうにかアメリカの大学院の出願にこぎつけたが、当時はリーマンショック直後で財政的に厳しい情勢であった。結局、合格自体は出たもののRA等は全くつかず、事実上の不合格であった。当時は奨学財団の奨学金なんて天才しか受からないと思い、出願さえもしていなかった。

スコアや努力という主観的な要素ではない。時代のタイミングという、どうにもならない大きな力が原因であった。なんとも行き場のない思いに苛まれた。東日本大震災による混乱に巻き込まれる中、この時リーマンショック自体も、それに影響される奨学金も、世の中、金が勝負を分けることがあることも思い知らされた。

念ため出願していた修士課程に進学した。助成金を獲得し国際会議で発表。研究助成金を獲得し、後の進学先となる研究室に自力で交渉しインターンを行った。貪欲に有利になりそうなことは何でも行い、TA等も積極的にこなした。

前回の失敗を生かし用意周到に準備をした結果、PhDの出願の際には、奨学財団の留学奨学金にいくつも内定し、最終的に船井情報科学振興財団やブリティッシュカウンシル日本協会の奨学生として採用され、かつノーベル賞輩出数が世界最多の研究所であるケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のWinton Programme for the Physics of Sustainabilityという特待生制度にも日本人で初めて採用されて海外の大学の博士課程の進路を知り準備開始5年半の後、念願がかなって進学することとなった。

ケンブリッジ大学ではいろいろと衝撃を受けた。天は何物をも与えまくったような信じられないくらい多才で性格もいい人も多数。他国の皇族や貴族の末裔の学生も多くいた。人生のスタートラインとバックアップの環境が、自分とは何次元も違うような人々も数えていたらきりがないほどだ。他にも20代前半で教員になっているものなど、異星人のようなタイプも多く見かけた。自分の凡人さを改めて自覚する日々であった。

研究分野は量子物理学の物性物理。行っていた物質の合成実験で、結果が出たのちに、まとめる段階で再現性が取れないことが判明し、約2年分の研究が丸々無駄になった。進学前には全く聞いていなかった途中ではラボの引っ越しがあったり、実験装置が来るのが遅れ、大規模な故障も起こり、まさに踏んだり蹴ったりであった。自分のテーマではなく、手伝いをした人達の研究は軒並みうまくいった。やれやれである。運も実力のうちといわれてしまえばそれまでだが、サボっているわけではないし、能力的なものでもない(と見ていて少なくとも自分ではそう思っている)。しかし客観的には、当てない限り何もやっていない状態と大差がなくなるタイプの研究は精神的にくるものがあった。一回一回のプロセスに時間がかかり、回数が限られるためにバクチの要素の強くなる傾向にある基礎研究よりも、研究のサイクルが短く、多く発表ができる分野が羨ましく映った。

一方で、分かりづらくサイクルが長い研究を行ったことがきっかけで行ったことも多い。そもそも量子物理学の基礎分野なんて、同じ分野の人でも分かりづらい。立食パーティーやディナーの際にバイオや法律、MBAなど他専攻の人に説明しても”That’s Interesting(それは面白いといってはいるが実際は興味ないです。それ以上続けないでくださいの意味)”といわれる程である。

どうにか面白く分かってもらえないかと「分かりやすい発表とは何か?」を追究した結果、アウトリーチプレゼン大会のネイティブスピーカーを抑えて最優秀賞を何度か受賞、マイケルファラデーがロウソクの講演をしたことで知られるFaraday Lecture Theatre at Royal Institutiton of Great Britainやサッチャーやホーキング等名だたる歴史上の人物が講演したCambridge Unionでの講演の機会にも恵まれた(Fig1)。

Fig1. Three Minute Wonder 決勝にて。Royal Institution of Great Britain

ケンブリッジ大学の生活で得たものも多かったが、先述のように博士課程において最重要な研究自体がうまく行っていなかったわけである。そのため卒業も遅くなった(Fig2, Fig3)。VISAが失効になり、一時国外退去勧告になるほどであった。特に課程終了間際ではPhD取得が確定するまでは、その後のことについて考えられる余裕もなく、手も出せない状況であった。よってPhD取得直後に置かれている状況は、見方によっては「30歳・無職・シャカイジンケイケン無し」であった。無敵に近い強烈なプロフィールである。今思えばコーヒーのシミがついたよれよれのスウェットで、昼過ぎから駅前のゲーセンのメダルコーナーに連日入り浸りタバコをふかしていたりしていたら、より強くなっていたかもしれない。

Fig2. 博士論文の提出。直後に友人たちにシャンパンをかけてもらった。
Fig3. ラテン語で行われる卒業式の儀式

就活中とはいえ、数か月間の無職生活というものは暇なものであった。この暇を利用して、今後幅広く利用できると考えた基本的な機械学習を独習した。強化学習を駆使した自動でゲームが強くなるエージェントプログラムを回し続け、育てていた。この経験も業務にも生きている。なお就職こそしなかったものの、機械学習エンジニアとしてもオファーもいただいた。

紆余曲折はあったが、外資系の日本支社へ就職した。この時の私は「せっかく外国でも認められ始めた矢先にグローバルキャリアは終わった」と内心諦めていた。それでも入社後半年以内にはグローバルプロジェクト(本社案件)に早々に参画することになり、海外出張が続いた。どちらかというと海外進出したというよりも、むしろ日本に一時帰国をしたものの、再びグローバル社会へ呼び戻された感覚であった。これも外国で博士時代に身に着けたものが身を助けた形であった。

そして昇進もして勢いに乗って来たと思っていた矢先、今度は新型コロナウイルスの影響で、海外プロジェクトが軒並み延期・中止になり、引きこもり生活を余儀なくされた。大学を卒業し、無職生活を行った後に、やっと働き始めたかと思ったら、今度は強制引きこもりである。

慣れなのか、それとも麻痺なのか、内心「ああ、またか」と思っていた。現在は引きこもり生活を利用し今後に備え、国際的に通用する資格(いわゆる国際資格)を、既にいくつか取得した。他にも今出来ることに集中して取り組むことにしている。

世の中とは不平等なものである。どうやっても王子や貴族にはなれないし、人種の優位性を身に着けることもできない。今置かれた状況を嘆いても仕方がない。それがたとえ何の前触れもなく起きた世界的なパンデミックであったとしても。どうあがいても配られたカードは変わらない。全てを受け入れて勝負するほかない。

挑戦をすればするほど失敗は増えるし、やらなければ決して遭遇しないような心がえぐられるような思いも増える。実際、ここに書くのも憚られるような故意のハラスメントや、悪質な嫌がらせにも遭った。事実一部はトラウマである。執筆する際に色々思い出してしまい、手が震えたもの、動悸がしたもの、目が潤んだものまであった。故意の加害なんて許されたものではないし、法の下に裁かれてほしいものである。しかし私が被害を受けたという過去の事実は変わらないし、悔やんでもどうにもならない。ただ人生どこでどう転ぶかは分からない。何が良くて、何が悪かったかなんて死ぬまで分からないかもしれない。どんなことでも得た教訓と経験として生かしていきたい。

思い通りになんてなかなかならないし、期待するだけ無駄だと感じることも日常茶飯事。淡い期待どころか、友人や教師には簡単に裏切られ、運にも見放される。

しかし、芸は身を助ける。様々な過程で身に着けた実力やスキルだけはあなたを裏切らない。どこからともなく不意に訪れるチャンスの前に、十分に準備が整っていれば、幸運の女神の前髪を自然とつかむことが出来る。学問に王道がないように、人生に近道はない。出来ることは、日々着々と準備をすすめることだけである。混沌とした世の中の情勢と自分の実力の無さをありのままに受け入れ、日々淡々と次の前髪をつかめるように着々と準備を進めていくこととしよう。

---

拙著をお読みいただきありがとうございました。読者の皆様も新型コロナの影響で行き場のない思いをしている方も多い事と思います。読者の中で数年後に以下のセンテンスが頭によぎることが有れば、今回筆をとった甲斐があったように思います。

「ああ、今の自分があるのは、あの時コロナに阻まれたおかげかもしれない」

関連動画:2020夏 慶應大編 海外大学院留学説明会【ジョンズホプキンス大学、ライス大学、ケンブリッジ大学、ノースウェスタン大学】(1:06:55から、学位取得までの過程、アカデミア、企業研究職以外への就職活動、キャリア形成の展望など)https://youtu.be/f-04Dn6JHoA

篠原 肇(シノハラ ハジメ)
ケンブリッジ大学 キャベンディッシュ研究所 博士号取得。プロモントリーフィナンシャルグループ勤務。

個人ブログ https://hajime77.com/

「日本とブラジルの言語・文化を理解した日本語教師になろう」と将来の夢を抱いたのは、高校2年生の時だった。私は、自動車産業が盛んな愛知県で生まれた。小学生の頃から、日本語が話せず困っているブラジル人のクラスメートが周りにいる環境で育った。この夢を叶えるため故郷を離れ、大阪で大学進学し、地球の反対側のブラジル・サンパウロ大学大学院の修士課程に進学した。日本に帰国して大阪大学で博士号取得後、現在は、日本国内の大学で留学生に日本語を教えながら、外国にルーツをもつ子どもの言語教育に関して国内外での研究に従事している。

ブラジルの大学院に進学を目指すに当たり、周りにブラジルの大学院に進学する人などおらず、大学院進学方法を見つけるのに多くの時間を費やした(合格した後分かったのだが、サンパウロ大学に正規大学院生として入学し、修士号を取得した日本人としては2人目だったそうだ)。今回講演を引き受け、また筆を執っているのは、少しでも私のようにブラジルの大学院進学を目指す人の役に立てばと思ったからである。

サンパウロ大学を選んだ理由

ブラジルの大学院で学ぼうと本格的に思ったのは、2008年9月からのリーマンショックの影響で多くの外国人が国に帰国した時期であった。学部生の頃から日本国内でブラジル人を中心に外国にルーツをもつ子どもたちに日本語支援や学習支援をしてきた。そのためブラジルに帰って行く子どもたちの教育、言語の問題は帰国後どうなってしまうのか心配になったのだ。そこで、ブラジルで日本から帰国した子どもたちの教育について研究しよう、将来両国のかけはしとなる人材になりたいと思いブラジルの大学院進学を目指すようになった。

サンパウロ大学(Universidade de São Paulo)は1934年設立された南米の難関大学の一つである。大統領など各分野の要人を輩出している。

サンパウロ大学を選んだの理由は大きく3つある。

①フィールドとしてサンパウロは世界一の日系人人口であること

②サンパウロ大学は当時南米トップの大学で、日本語分野でもブラジルの中で最も古く優秀な大学であること

③先行研究を読む中で、サンパウロ大学の先生の論文・研究に興味をもったこと

自分からサンパウロ大学の先生にコンタクトを取り、半年間の研究生を経て、大学院入試に挑戦した(ポルトガル語・英語筆記、面接)。大学院進学する際には自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかは日本・ブラジルの場所を問わず重要である。

サンパウロ大学の大学院(日本語・日本文化・日本文学専攻)への出願での主な必要書類は、研究計画書、外国語の試験(日本語や英語)である。日本人(外国人)の場合は、外国語の試験は日本語ではなく英語が必須で、さらにポルトガル語試験(ポルトガル語能力試験)も必要である。最新情報は公式HPを参考にされたい。

サンパウロ大学の良さ

次に、サンパウロ大学に入学して、良かったことを2点あげる。

①福利厚生が充実していること

まず、ブラジルの大学は国立大学なら学費が無料である。これは外国人にも適応される。今振り返ってみても無料で高レベルの教育を受けることができたのはとても幸せなことであったと思う。学食は、政府からの補助があり、2レアル(約100円)で食べることができた。学内と最寄り駅を繋ぐスクールバスも無料で乗れる。広大な敷地には学部ごとに付属図書館があり学習する環境が整っている。メインキャンパス内に日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)が併設されている。日本文化センター内の図書館には日本語の図書が多数所蔵されており、その他先生方の研究室や日本語・茶道・華道の公開講座が開講されている。私は国内外でいくつかの大学に留学したり、所属したりしてきたが、今の所福利厚生面でサンパウロ大学を超える大学は出会ったことがない。

Fig1.日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)

②南米有数の教員・学生のレベルの高さ

日本語・日本文学・日本文化専攻の教員陣は、ポルトガル語、日本語、英語を操るバイリンガル、マルチリンガルである。また、半期に一度日本から客員教員を招き、直接授業を受講できた。日本では受講が難しい著名な先生の講義をむしろブラジルで受講できたことは大きな財産となったと感じている。

サンパウロ大学の大学院生活

サンパウロ大学院時代の生活について授業、研究、課外活動の3点に分けて述べたいと思う。

①授業

1コマは驚きの4時間であった。ノンストップで続く白熱の議論についていくのは簡単なことではなかった。授業についていくのが大変な時、現地人の友人が沢山助けてくれたことは今でも感謝している。留学を充実させるポイントとして、何でも話せ相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ることは大変重要である。また外国にルーツをもつ子どもたちの大変さを自分自身も実体験できたことは、現在の職においても糧になっていると感じている。

研究

研究費の面では、返済不要のブラジル政府の奨学生CAPES(Coordination for Improvement of Higher Education Personal:日本学術振興会特別研究員DC1相当)に選出されたことが大きかった。

研究の手法はライフストーリーだったので、理系のように研究室に籠るわけではなく、研究協力者を探し、信頼関係をつくりながらインタビューしていった。インタビューデータの文字起こしをし、分析、論文執筆というサイクルで生活していた。

最も大変だったのは、ポルトガル語での学会発表であった。指導教官に毎週ご指導いただいたことは今でも感謝している。また、修士論文の一部を国際学会で発表する機会を与えていただく幸運にも恵まれた。初めて日本語で学会発表をしたのだが、優秀発表賞を受賞できたことは異国の地で研究してきたすべてが報われ、支えてくださった多くの方々に恩返しをできたのではと感じている。  

課外活動

国際交流のサークル立ち上げ、ブラジル人や多国籍な仲間たちとポルトガル語・英語・韓国語の3か国語を駆使しながら活動をした日々のお陰で、語学力だけでなく人と人をつなげる能力も伸ばすことができたと感じている。異国・異文化での困難を乗り越える秘訣は、「うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる」、「感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る」ことだと常々考えている。そのためには、文化の違いを「笑える」力も重要だと思う。ブラジル留学生活で一番学んだことは「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」というブラジル人の気質である。物事が思い通り、計画通りに行かないときも、臨機応変に「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」と二度と戻ってこないその瞬間を楽しむ心の大切さを教えていただいた。

Fig2.サンパウロの旧市街にあるセー広場の大聖堂

卒業後のキャリア

サンパウロ大学で修士号を取得した後に日本に帰国した。サンパウロ大学で修士号を取ったことを進学や就職など大切な場面で評価していただいたと感じている。これは、南米トップのサンパウロ大学卒という学歴面だけではなく、そこで培ってきたバイタリティ―、忍耐力を認めていただくことができたと理解している。また、人との出会いとつながりのありがたさも感じている。現在でもブラジルをフィールドとし国際交流基金、JICAなどと共同研究ができている。また、国内では地元をフィールドに科学研究費を受領しながら研究を行い、研究を通して夢が叶いつつあるのを実感している。

まとめ

上記のポイントを以下の3つにまとめる。

①大学院進学:自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかが重要。

②留学を充実させるポイント:何でも話せる・相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ろう。

③異国・異文化での困難を乗り越える秘訣:うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる。感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る。Vai dar Certo(なんとかなるよ!)

最後に、修士論文の一節をメッセージとして記し、筆を置こうと思う。少しでも読者のお役に立ったのであれば幸いである。

O caminho do sucesso é um caminho em que você tem que agir até o fim, enquanto enfrenta problemas, aprende, e se torna habilidoso em como ser bem sucedido. Você atinge sucesso ao vivenciar provações e erros nesse caminho, sofrendo, aprendendo e percebendo como ser bem sucedido; e agindo.

成功の道は、進みながら成功することにぶつかって、学び、有能になっていきながら最後までしなければならない。成功に行く過程で試行錯誤を経て、苦労し、自分が会得しながら、成功する方法を悟って行うようになることで、成功するようになる

出典:Sayaka Izawa (2015) O percurso escolar dos filhos de decasséguis brasileiros retornados. Biblioteca Digital USP. URL: https://www.teses.usp.br/teses/disponiveis/8/8157/tde-19102015-130134/pt-br.php (2020/12/24アクセス確認)

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会 (ブラジルは10:01から) https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

伊澤 明香(イザワ サヤカ)
大阪経済法科大学 教養部 助教。大阪大学 外国語学部を卒業後、グローバル企業でのポルトガル語通訳を経てブラジル・サンパウロ大学 大学院 哲学・文学・人文科学(東洋文学)研究科 日本語・日本文学・日本文化専攻で修士号を取得。帰国後、大阪大学で博士号を取得。

本記事は、今年の夏季留学説明会の京都大学会場に登壇してくださった、鈴木崇夫さんに執筆していただきました。学位留学経験者なら誰もが一度は考える、「留学後現地に残るか、日本に帰国するか」という問いについて、鈴木さんの経験をふまえて印象深くまとめていただきました。ぜひ最後まで読んでみてください!

高校生・大学生向けの講演で、こんな質問をしたことがある。「次の元メジャーリーガの共通点は何でしょう:野茂英雄、鈴木イチロー、長谷川滋利、松井秀喜、大塚昌則、斎藤隆、黒田博樹、上原浩治、松坂大輔。」正解は後述するとして、一年だけの留学で日本に帰るつもりが、通算で二十年以上もアメリカで生活して現在に至ってしまった私の経緯をお話したい。

京都大学の学部(航空工学科)在学中に、留学の準備をしていた時は、「航空宇宙工学の最先端を行くアメリカの大学ではどんな学生が、何をどんなふうに学んでいるのだろうか」との好奇心がその動機だったと記憶している(その答えは、基礎から応用まで根本原理をしっかり説明するという、良い意味で思っていたよりシンプルなスタイルだった)。一方で、日本の研究室では、朝から晩までオフィスにいる大学院生の先輩を見ながら、「博士課程は自分には勤まらないな」と確信したものである。そこで、一年だけで修士号が取れるStanford University の航空宇宙工学科に留学して(そもそも、TOEFL の点がはるかに足りない私には、夏期英語集中コースから入学する条件付きで、唯一入学を許可した大学だったので)、当初はすぐ日本に帰って就職する予定だった。

周りの環境というのは恐ろしいものである。Stanford University などでは、大学院一年生の半分以上が博士進学を目指している(Stanford 大学の航空宇宙工学科は、出願時に博士課程進学を希望したかどうかにかかわらず、修士号を取得後、希望者は博士課程に進学できる)。私自身は純粋に、日本と違い講義の終了後も学生に対し、熱心に解説する時間を惜しまない教授に毎日質問するが楽しかったのを覚えている。特に当時のベテラン教授陣の学問に対する懐の深さには驚嘆した。幸い、アメリカの大学にいる人は、学生・教員・職員を問わず、片言でしか英語を喋れない人に比較的寛容であるように思う。TOEFL の試験結果などはおそらくクラスで最下位であった私の議論にも、教授・学生とも対等に付き合ってくれた(さらに罪深いことに、そんな私が有償のTeaching/course assistance を三期も務めてさせていただいた)。

そうこうしているうちに、周りも自分も博士課程に進学するつもりになっていた。アメリカの大学院生に対する手厚い経済的サポートなどは、他の方の記述を参考にして頂けたらと思うが、キャンパスライフの面でも、博士課程になっても他学科の講義を受講し、指導教官以外の教授と自由に議論したり(それが縁で指導教官を変更することも、アメリカの大学院ではままある)、新入の外国人留学生サポートのための夏期英語講座アシスタントをしたりと、日本の大学院に比べて開放的な生活ができたので、五年間の博士課程の生活も私に勤まった。日本の研究室と比べると、アメリカの大学院の方が指導教官が直轄統治する(ポスドクや博士学生が下級生を指導するのではなく、指導教官が直接指導する)スタイルの教授が多かったことも、疑問を持ったら納得するまで議論したい私には向いていたと思う。日本でのおよそ五年間(学部四年に加えて、某大学院に約一年だけ通ったため)の学生生活と比べても、アメリカの学生生活で悩むことは少なかった。その頃には、博士号収得後、アメリカで働いてくことを疑っていなかった。

その後、現在のボーイング社での二か月のインターンに当たる仕事を経て、Caltech で三年半ほどポスドクをすることになるが、その間、多くの大学でインタビューを受けた挙句、アメリカで教員の職に就けず、その後日本に帰ることになったのは、逆に全くの想定外であった。幸い、福井大学が私を拾ってくれたので日本で教員として働くことになった。帰国した時よく、「日本とアメリカと、どちらが生活しやすいですか」と問われることがあった。この頃の私の答えは「アメリカの方が働きやすいが、日本の方が住みやすい」であった。ちなみに、福井大学に在籍中は、周りの先生方にはたいへん親切にしていただいた。ただ、キャリアの途中から日本の(昇進なり教育なりの)システムに入る場合は、初めからそのシステムで進んできた場合に比べてデメリットが大きいと思う。それから、研究や教育の本業以外の業務にかかる時間が年々増えていく日本の地方大学の現状にも大きな不安を抱くようになった。結局その後、日本で不安を抱きながら教員として残るか、教育の楽しみを捨ててアメリカにエンジニアとして戻るかの二択から後者を選択し、インターンとして働いていたころのマネージャーにボーイングの社員として戻りたい旨を伝えた。それでも、私が実際に再びアメリカに渡るときには、そもそも会社員として何年も勤まる自信はなく、「十年くらい経ったら日本に帰ってくるかな」とおぼろげに思っていたのを覚えている。それだけ、日本で暮らすことも、日本で教えることも魅力を感じていたんだと思う。

Fig1. 久しぶりに訪れたCaltech のFaculty Club “Athenaeum” にて

再びアメリカに戻り、六年ぶりにボーイング社で働き始めてから、(首になることなく!)約十三年が経過してしまった。幸い現職で、大学で行われるような基礎研究から、実際の民間航空機の開発・製造にかかわる仕事まで、幅広く担当させていただいているので、仕事で飽きることはない。私の部署は(例外的にではあるが)、半数程度、アメリカ以外の国で育ってきた社員がいるので、特に仕事レベルで外国人だからというハンデを感じたこともない(ただし、英語能力は長い目で見て仕事の評価に大きく影響を与える可能性は否定できないと思う)。そもそも永住権さえないステータスで働いていながら(永住権がない場合は、仕事上のハンデがある)、諸所の理由でその申請を遅らせてきたくらいである。アクセントのある、こなれない英単語を繋げながらも、昼食時間に同僚と社内の四方山ごとにジョークを交えて愚痴を楽しむのは、どこの国でも共通の息抜きだろう。一方で、アメリカの会社も以前より、個人主義から組織で動くことを重視するようになり、形式を重んじ、立場で物を言う人が多くなった印象である。その点では、残念ながらアメリカで働く環境はだいぶ「日本的」になった感がある。

さて、最初の質問に戻ろう。私の簡単な検索によれば答えは、「アメリカでの現役引退後も、家族をアメリカに残してきている」元メジャーリーガである。できることなら、彼らのうち何人が渡米当初からそれを計画していたのか聞いてみたい。調べていてこの結果に最初は少し驚いたが、最近は納得することが多い。これは近年、私の周りにいる日本から留学してきて、「アメリカでひとたび職に就いた」友人・知人を見渡しても、似たような傾向にある(つまり、彼らのうちで自ら日本に帰国する選択をした人はほとんどいない)。これには経済的格差(この言葉がだんだん適切になってきた気がする)も確かに影響してはいると思う。ただ、それだけが理由ではないと思う。私の場合は、現在に至るのは自らの選択というより与えられた機会によるところが大きい(そもそも日本で私を積極的に雇うところは、過去も現在もほぼなかったですから)。

最近日本に住む人から、久しぶりに「日本とアメリカと、どちらが生活しやすいですか」と問われた。私はしばらく答えに困った挙句、「昔は『アメリカの方が働きやすいが、日本の方が住みやすい』と答えていました。」とだけ答えた。今、この記事を読んでこれから留学していく大学生がアメリカで(あるいは別の異国で)博士課程を終わるころに、「卒業後、日本とアメリカ(あるいはその異国)、どちらで働き、暮らしていくことに魅力を感じますか」と問われたとしよう。この答えに日本の将来がかかっていると思う。学生がその答えに迷うためには、我々日本人一人ひとり、これから大変な努力がいると思う。私が日本の大学生に伝えたいことがあるとすれば、正しいと思う行動を貫き、勇気を持って真実を伝え、その困難に立ち向い、乗り越えられるだけの実力をつけてもらいたいと思う。今日ますます、忖度することなくこれを全うするためには、職業人としての真の実力とたゆまぬ努力が必要なことを痛感する。

鈴木 祟夫
スタンフォード大学航空宇宙工学専攻博士課程修了
ボーイング社民間航空機部門

私は東京工業大学の生命工学科を2016年に卒業後、米国のカリフォルニア大学デービス校(通称UC Davis)に進学し、食品科学の修士課程を2018年に修了しました。現在は、サントリーホールディングスに入社し、日本で健康食品の商品化業務に携わっています。本稿では、留学中の企業への就職活動についてお話ししたいと思います。海外大学院への留学と聞くと、PhDからアカデミアの道に進むイメージがあるとは思いますが、企業への就職も一つの選択肢として考えられる際にお役に立てれば幸いです。

日本企業vs︎米国企業

職活動を始めるにあたり、日本企業と米国企業どちらに就職するか悩まれるかもしれません。両者で選考方法や採用で重視するポイントが大きく異なりますので、ここではそれぞれの特徴について触れたいと思います。アメリカの就活にはまず、日本のような解禁日が設けられていません。日本では総合職や一般職という大枠で新卒生を一斉採用し、部署に割り振りますが、アメリカではポジションごとに必要なスキルを持った即戦力を採用するため、スポットが空けば随時募集をします。また、日本は研修を通して新入社員育成に力を入れていますが、アメリカは入社後すぐ即戦力として働くことが求められます。この方針の違いは選考方法にも現れており、人間性(ポテンシャル)重視の日本は対人で時間をかけて採用するのに対し、経験や能力重視のアメリカでは書類選考〜面接まで全てオンラインかつ短期間で選考することがあります。また、アメリカはコネがものをいうため、そもそも求人情報が公開されていないケースも多いです。企業はまず大学院の共同研究先や教授との繋がりで人材を探し、コネで採用できない場合に一般募集をかける流れが一般的なようです。研究職を希望する方にとっては、必要な学位も両国で違ってきます。日本では修士卒以上で研究職へ応募が可能ですが、アメリカでは博士号が必要とされ、修士卒で就ける職種は学部卒と大きく変わらないこともあります。このように、日本とアメリカでは選考の進め方や重視されるポイント、研究職への応募条件が異なっていることがわかります。私は日本企業の新人育成に力を入れている点、修士卒で研究に携われる点が自分に合っていると思い、日本企業への就職を選択しました。

ボストンキャリアフォーラム(BCF)

日本人留学生の就職活動の場として、BCFをご存知の方は多いと思います。毎年11月に3日間開催され、日系・外資系合わせて200社以上が参加する世界最大規模の就活フェアです。私は修士2年目の秋に参加し、日本企業の選考を受けました。ここではBCF選考の流れについて、体験談を交えてお話したいと思います。

1) 準備留学先では就活中の日本人が周りにいなかったので、BCFの選考方法や対策といった基本情報を調べることから就活がスタートしました。前述の情報収集を9月に行い、10月上旬にESやレジュメの作成、10月中旬から事前応募を受付けている企業にエントリーを始めました。ES・レジュメについては、何人かに添削頂くことを強くお勧めします。また、予想以上に書類作成に時間がかかるので、今後参加される方は、少し余裕を持ってBCF3〜4ヶ月前から準備に取り掛かると良いと思います。

2) エントリー事前応募にエントリー後、いよいよ選考が始まりました。書類選考を通過すると、応募から1週間程で結果が送られてくるので、Webテストの受験やSkypeでの一次面接、BCF当日の面接予約に進みました。会場での面接枠は早い者順で埋まっていくため、期限前に応募を締切る場合があり、注意が必要です。志望度の高い企業は応募受付開始後、なるべく早くエントリーするのが良いと感じました。また、事前応募の他に、履歴書を当日企業ブースで提出する方法(通称Walk-in)もあるので、志望度に合わせて事前応募とWalk-inを使い分けました。Webテストに関しては、日本での選考ほど重視はされていませんでした。足切りの位置付けではなく、形式的にやっている企業が多かったです。対策は例題を解くなど最低限にとどめ、その分の時間を面接練習などに充てる方が有効だと感じました。

3) BCF当日とその後BCF当日は、予約していた面接やWalk-in応募を行いました。面接の合間も、次の面接の準備やお礼メール作成などに追われ、一日があっという間に過ぎていきます。BCFは本選考の場であり、企業の説明会に参加する時間はあまりないのだと実感しました。BCFと言えば、企業の方とのディナーも醍醐味の一つだと思います。私も一社からBCF前日の夜、ディナーに呼んで頂き、会社の雰囲気や仕事の話などを聞くことができました。翌日に面接を控えていましたが、ディナーで面接官の方にお会いしていたお陰で、当日は落ち着いて臨むことができました。面接では、志望理由や学位留学に至った経緯、留学での苦労について聞かれました。研究職志望でしたが、自分の研究について説明を求められることは少なく、留学していること自体を評価している企業が多かったです。面接結果は遅くとも翌日中に電話やメールで連絡があり、その後12月にSkype若しくは日本の本社で最終面接を受け、選考を終えました。最終的に、エントリーした8社のうち2社から内定を頂く事ができました。

Fig 2. 会場内の様

BCF以外の選考

BCFの他に、日本人留学生向け就活情報サイトを通して1社に10月頃エントリーしました。サイトに掲載している企業についてはES添削や模擬面接も無料で提供しており、BCF前の良い練習になりました。また、掲載企業の中には海外大学を直接訪問して説明会を開催して下さる所もあり、じっくりお話を聞ける利点もありました。説明会前にESを提出すると、Skypeで一次面接、説明会当日に2次(最終)面接を受ける事ができ、短期間で選考を終えられます。訪問先大学は限られていますが、興味のある企業があればBCFと併せてご検討頂くと良いかもしれません。

就活を振り返って

日本での一般的な就活と比べ、かなり早いペースで選考が進んでいきました。就活にかける時間が短くて済むメリットはありますが、応募できる企業(特に研究職の場合)が限られることや、企業の説明会に参加する機会が少ないのは大きなデメリットだったと感じています。OB訪問も難しいため、面接官を通しての会社のイメージしか持てず、企業を選ぶ判断材料が限られている点に苦労しました。そこで就職先を決めるにあたっては、内定を頂いた企業の人事の方にお願いし、冬の一時帰国に合わせて社員面談をセッティングして頂きました。面談では社風や社員の方の雰囲気などを知る事ができ、就職先選びの決め手になりました。

昨今のコロナの影響で、留学中の日常生活だけでなく就職活動のあり方も大きく変わっていることと思います。オンライン化が進むことで、今後はエリアの制限を受けずに選考を受けやすくなるかもしれません。私が受けた当時と状況は違ってしまいますが、就活を検討される方にとって、本稿が少しでもお役に立てれば幸いです。

村瀬 彩華(ムラセ アヤカ)
カリフォルニア大学デービス校 食品科学科 修士課程修了
University of California, Davis, Department of Food Science and Technology

私は2018年8月からペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)の教員を勤めている。専門はスポーツに関する「心のトレーニング」として知られる、スポーツ心理学である。この記事では私の経験を、1)修士課程の経験、2)博士課程合格への道、3)博士課程の経験、4)大学教員の経験、5)新しいステージへ、の5つに分けてお伝えする。これらの経験に関しては私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でもアメリカ留学と合わせてお伝えしているのでそちらも併せて見てもらいたい。米国大学院進学に興味のある皆様へは、日本で英語を伸ばす、トーフルで高得点を取る、学費免除で留学する方法などを留学中の大学院生8人で対談した内容は興味深いものであろう(留学経験者8人との対談)。またトーフル23点で留学して、修士課程にたどり着くまでの1年間に関する記事はこちらを見ていただきたい。

修士課程の経験(2012〜2014)

修士としてまず経験したのは、英語の壁であろう。英語学校や聴講生として大学の授業を受けた1学期と比べ、課題の量もレベルも一気に上がった。授業について行く事に精一杯。課題をこなすにあたっては、英語の文法を毎回見てもらうなど、出来る限りの事をした。また、専攻にはメンタルトレーニングやカウンセリングも含まれていた為、授業でカウンセリングの練習があった。英語を理解するだけでも苦労していたところ、カウンセリングなど出来るわけがない。みんなの前でデモンストレーションをする時は、本当に辛かった。しかし、最新の内容を学べる環境は、非常に有り難かったし成長しているという実感も力の源になった。

幸いな事に、大学テニス部の大学院アシスタントコーチをしていた為、英語で会話する機会も多く、上達は早かった様に感じる。英語が上達すればするほど、授業は楽になるので他競技のコーチをしている大学院生など、友人が増えたことも幸いした。あらゆるスポーツを大勢で一緒にやり、大学のタレントショーに人生で初めてのダンスで友人と挑み優勝したこともある。スポーツを通した絆は、本当に有り難かった。

修士課程を振り返ると、アメリカの文化に馴染み、博士課程までの素晴らしい準備期間になった。修士号を頂く際に最優秀学生として表彰されたのは、嬉しい誤算であった。大学院生として2年間、その後の男女テニス部の総監督としての1年間(2014〜2015)とコーチは楽しくやりがいもあったので博士課程への進学を迷った事もあったのだが、アメリカに来た理由が「博士号を取り大学教員」だった為、ブレなかった。

博士課程合格への道(2012〜2015)

より確実に博士課程に合格出来るよう修士課程からテニス部の総監督時代の3年間、早いうちから指導教官の候補・大学を探し、連絡し、直接会いに行くこともした。修士課程が始まってすぐ、博士課程の大学を考え始めた。多くの研究論文を読み、博士課程で一緒に研究をしたい教員を探した。まずはアメリカでスポーツ心理学の学べるプログラムを全て確認し最初は、10個以上の候補があった。プログラムで一緒に研究したいと思う全ての教員に連絡して、学生を取る可能性があるか、そして大学院生アシスタントの仕事があるかをそれぞれ訊いた。暖かいメールを送ってくださる教員から、返信がない教員まで色々であったが返事をいただけた教員の方々には研究志望理由を送るまでの約2年間、2ヶ月に1回程度の頻度で自分の研究業績や、博士課程で研究したい内容を少しずつ紹介して関係を深め10個程度あった選択肢が最終的に3つになった。

第1志望として選んだプログラムには世界一と言えるほどの研究業績がある教員が務めておられ、その方に連絡を取り合ううちに良い方だと思えたので直接大学に出向き、学会では研究発表について会話する機会も作った(むしろその為に、学会発表へ行った)。このような準備を経て研究に対する意識・日本とアメリカでの研究活動(論文4本)を高く評価してもらい、研究アシスタントとしての仕事を頂き、博士課程に合格した。

Corporate and Commercial Photography by Mark Skalny 1-888-658-3686 www.markskalny.com #MSP1207

博士課程の経験(2015〜2018)

博士課程の授業は、明らかに難しかった。この一言に尽きる。この3年間が人生で1番勉強・研究した時期であると自信を持って言える。朝から大学に行き、夜にご飯だけ食べに家に帰ってきて、また大学に戻って深夜まで過ごすことも珍しくなかった。修士課程と博士課程はまるで別物であった。研究ミーティングは毎週あり、研究アシスタントとして働いた。指導教官との距離は、かなり近く、特に最初の1年は9割が研究の話であり、研究の話以外は正直そこまで話した記憶がない。研究活動、授業の受講、そして大学生を対象とした講義など毎日が充実していた。

修士課程までとは違い、「英語が…」などという言い訳はここではできない。アメリカ人と対等だ。博士号取得にかかる時間などは人それぞれだったし最初プログラムに15人程いた学生の中には途中で辞めるものもいた。私も、実験と論文を書くことに非常に多くの時間を費やし、データの取り直しなど上手くいかず進まない事もあった。

知識を詰め込むための授業、博士論文を書く前の審査、実験のデータ収集、論文の執筆(そして数えきれないほどの修正)、そして論文の発表に提出。ここには書き切れないほどの長く険しい道が、博士課程では待っている。これは私だけでなく、アメリカの博士課程へ進学する多くの留学生が経験するであろう。また私たち日本人の場合は英語を使うことそのものがその険しさをさらに際立たせる。しかしその反面得られる事も多い。博士課程の授業や研究活動から得た知識は、本当に役立っている。スポーツでは、上達する為に1)個人のモチベーション、2)指導者、3)環境が重要になる。留学も全く同じだ。

余談だが、在学中にヨーロッパ連合から研究費を頂き、1年目の夏は3ヶ月半の間、チェコで研究活動をする事が出来た。ヨーロッパ、アメリカ、そして日本の文化を比べる事が出来て、また経験が増えたと感じた期間でもあった。本当に世界は広い。

大学教員としての経験(2018〜現在)

まず、仕事獲得が大変であった。何度も面接の練習を行った記憶が蘇る。30人程度が応募。採用される人はわずかに1人。書類から絞られ、9人がスカイプ面接へ。そこから上位3人が2泊3日でキャンパス面接に呼ばれる。研究発表と模擬授業を1時間ずつなど非常にしっかり評価するアメリカの面接に驚いた。さらに驚いたのは、その費用を全てをアメリカの大学が払ったくれたことだ。研究論文、研究発表や、教えた授業の数など仕事を取ることを常に考えて博士課程に在籍していた事が、功を奏しただのろう。正直、博士号を取ることが目的で来たアメリカだったが、仕事を取ったときの方がその嬉しさは強かった。

大学教員として感じる事は人それぞれであろうが、私は博士課程の方が数倍忙しかった。自主性が重んじられるのが大学教員であり、授業への用意や研究を進めて行く時間など、学生の頃と比較して非常に融通が聞く。しかし、業績が残せないとクビになるというシビアなところは、日本と大きく異なるであろう。アメリカ特有の実力社会が前面に押し出されている。

学生からはHiro(ヒロ)と呼ばれている為、教員という感覚を持つ事はそこまでない。自分は「先生/教員なんだ」という感覚を強く覚えるのはむしろ、日本の大学に外部講師として伺った際、皆が口を揃えて、岩月先生と呼んでくれるときである。

新しいステージへ

アメリカでは、教員として精一杯活動したい。ちょっと大胆発言かもしれないが、私は「スポーツ心理学ならこの人だよね!」と言われるような人物になりたい。日本で知名度をあげたい。去年(2019年)、一時帰国の際には日本の16大学に外部講師として呼んで頂いた。国立では、大阪大学や名古屋大学、私学では、慶應義塾大学や同志社大学、スポーツ・健康科学の大学では、鹿屋体育大学、大阪体育大学や日本体育大学などだ。外部講師としての活動は今後も継続する予定である。

さらには高校・中学での外部講師としての活動や企業向けの研修なども含め、「役に立ったな!」・「楽しかったな!」・「視野が広がったな!」と思ってもらえる様な講師として日本の教育に貢献したい。スポーツ心理学者として、日本のスポーツ選手をサポートする事が出来たらこれ程、面白いことはないだろう。もちろん冒頭で述べたYouTubeでの情報発信も継続してゆく。

Only Oneを目指す

留学志望者の皆様が、この記事を見ているであろう。私は、留学に怖くて足がすくみ、前に進みだせない人を大勢見てきた。もし読者であるあなたがそんな中の1人であるなら、思い出してほしい。私のトーフルは当初23点で未来も全く見えていなかった。思い返せばリスクしかなかった様に感じる。それでもうまく行く例もあるのだと。

アメリカ留学から、皆様にしか出来ない経験をして頂きたい。この記事が、少しでも参考になり、留学の道への架け橋になれば、こんなに嬉しいことはない。近い将来、この記事を読んでさらにモチベーションが上がり、大活躍へ頑張っている皆様からの「記事読みましたよ!」といった、連絡を頂くことを、私は楽しみにしている。一歩踏み出し夢を叶えるには、今しかない。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)

私は、アメリカのペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)でスポーツ心理学、研究方法論、健康科学を教え、研究活動を行う教員である(2018年8月〜現在)。教員になる7年前の2011年6月から留学した。驚かれるかもしれないが、留学半年前のTOEFLは120点満点中23点だった。そこから留学し、約1年後(2012年8月)にスポーツ心理学の修士課程に入学。卒業時には全大学院生の500人中で最優秀学生として修士号を取得した(2014年)。男女テニス部の総監督など1年間就職した後、博士号を取得(2018年)し、現在に至る。自分は全く英語が出来ないところから、なんとか留学時の目標/夢の「博士号取得して大学教員」を叶える事が出来た。

今回の記事では、留学を決めた2010月11月から2012月5月の修士課程に合格するまでの道をお伝えしたい。また次号、「修士、博士で学び、その経験を生かし新たなステージへ」では、修士課程から現在までをお伝えする。この記事から、「英語力0からでも、こんなことをしている人がいる」と知っていただき、アメリカ留学は誰にでも可能であると、留学したいと思っている人を1人でも勇気づける事が出来れば、これ程嬉しいことはない。私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でも留学に関する色々な情報を発信しているので是非、見て頂きたい。

留学を決めるまでのストーリー

多くの優れた学生と違い、自分は勉強に関してはド素人であった。唯一、誇れるのは大学4年生まで打ち込んだテニスの経験だろう。テニスの特待推薦で高校に入学。スポーツクラスに在籍した。基本的には、学業のレベルが低い運動好きが集まり、部活に励む為のクラスとお伝えしてもよいだろう。インターハイ団体ベスト4・ダブルス高校ランキング10位に入賞し、テニス推薦で日本大学に進学。一般にいう「受験」などした事がなかった。大学も学業の成績(GPA)も、2.0とさっぱりで、教員免許だけ取得して卒業した。総じて勉強にはあまり縁がなかったのだ。だが、高校教員になる為に、大学院でしっかり勉強しようと考え、日本大学大学院に進学した。ここでの勉強は頑張ったが、英語が出来ない事には変わりなかった。高校教員になるために入学したのだが、この頃から、高校ではなく大学の教員になりたい、また英語を伸ばし、将来の可能性も広げたいと思うようになった。私が様々描ける夢の中から無謀にも、(1)アメリカに留学して、(2)英語を伸ばし、(3)修士号、(4)博士号、(5)大学教員を選んだのが2010年の12月だった。一念発起し、指導教官に進めて頂いた大学へ書類を出す準備に取り掛かった。まず、2ページの履歴書を作り、エッセイではなぜスポーツ心理学を勉強したいか、英語は苦手だがすでに研究の経験があり、論文も2本掲載されてると自己アピールをした。そして、英語の成績証明書と3人からの推薦書を集めて、急いで応募した。既に専門分野の知識を少し学んでいた、研究の実績があった、そして修士号を持っていたことから、英語が伸びたらという条件付きで「合格」をもらった。

英語学校に行く選択肢しかなかった(2011年6月〜12月)

この時点であと留学に必要なのは英語だけだった訳だが、2010年12月時点でTOEFLが23点。2011年6月に留学するまでの半年間、日本で英語学校に通い必死に英語を勉強した。そこでは語学力別に初球(1~3)、中級(4~6)に上級(7~9)に振り分けられ、私は、当初初級のレベル3に振り分けられた。

ここでは特別な勉強をするわけではない。例えば、金曜日は「週末は何をしますか?」などの日常会話をする。英語学校には、気晴らしに少し英語を学ぶために来る学生もいる。彼らは楽しそうにしていた。私も英語学校が私は楽しくなかったとは伝えない。非常に楽しい経験をさせて頂いた。しかし私の留学の目的は博士号取得であった為、「こんなことで自分は修士課程に辿り着けるのであろうか?」、「博士課程は大丈夫だろうか?」とひどく焦った。博士課程、修士課程などと比較しても、自分が1番焦ったのがこの頃である。とにかく自分の行き先が見えなかったためだ。

焦りを振り払おうと、とにかく日本語を使うのを避け、生活の全てで英語を使い、日本人とも英語で話した。英語学校が終わってからも毎日英語を聞き、出来るだけ色々人と話し、ひたすらに勉強した。将来のために、日本の修士過程の研究を英語で書く作業も並行して進めた。イワツキ大学(YouTube)でも私は、英語学校の場合は、「勝負は3時以降」とお伝えしている。それは多くの英語学校の授業が3時頃には終わり、そのあとが自由時間だからだ。そこでどれだけ英語に触れる事が出来るかが、英語学校で英語を伸ばす鍵になる。残念ながら半年で英語が大学院に入学出来る点数に届くわけもない(このとき受けたTOEFLは68点で修士課程入学には80点必要だった)、とはいえ努力がみのり、2011年12月には英語が上級のレベル7まで届いた為、2012年1月からアメリカの大学で聴講生として大学の授業を受ける事が出来るようになった。

聴講生として大学の授業を受けた1学期間(2012年1月〜5月)

アメリカでの聴講生としての日々はさらに毎日英語との戦いだった。大学から与えられた正式な大学院入学の条件とは履修生として大学の授業を4つの受けて、その全てでB以上をとることだった。当たり前だが、英語のレベルが低い人しか英語学校には行かない。その英語学校の上級に上がったところで、大学の授業はまだ難しい。正直、初めて聴講した授業は全くわからなかった。何がわからないのかすらわからなかった。個人的な見解であるが、何がわからないかわかると英語が伸びてくる。わからないことについて質問出来るからだ。それもできないほど当時の私の英語は酷かったのだ。ボイスレコーダーを使って、授業後になんども聞く事もあった。それでもわからない。英語が下手な私にとっては友人を作ることも簡単ではない。それでも、親切な友人を作り教えてもらった。課題を提出する前には、何度もライティングセンターに行った。文法など文章を添削してくれる大学のサービスである。ほんの1・2ページの課題であっても何度も添削を受けることが多々あった。(修士・博士課程入学の戦略はこちら、学費免除の戦略はこちらを参照)

テニス部のボランティアコーチ(2012年1月〜5月)

英語を伸ばす事に必死だった私は同じ頃、テニスチームの監督にお願いし、ボランティアコーチにしてもらった。コーチになる事によって、アメリカ人の周りにいる機会を増やしたかったからだ。私の場合、これが留学を成功に導いたと信じている。日本に住んでいる多くの読者の方々には、いまいち想像が難しいかもしれないが、日本人がアメリカでアメリカ人の友達を作るのは難しかったりする。しかし、英語を伸ばし留学を楽しみ成功させるには、留学中の時間を日本人とだけ過ごすのではダメだと私は思う。毎日最低2時間半のコーチとしてのアメリカ人との会話には予習も何も存在しない。しかし、幸いな事に、私はその大学でテニスがダントツで上手だった為、皆私のアドバイスをよく聞いてくれた(強いチームではない)。ここでは余談だがこのボランティアコーチが修士課程の2学期からは正式な大学院アシスタントに変わり、おかげで学費が免除になった。(修士・博士課程入学・学費免除の戦略はこちらを参照)

修士課程に合格

ともかく努力を重ね、なんとか全ての授業でB以上の成績を頂き、修士課程への入学が決まった。英語のレベルを考えても、間違いなく誰よりも授業に時間を使った。長い道であったのだが、勉強にコーチにと日々忙しかったので、振り返れば履修生の1学期間は短かったようにも感じる。

誰にでも「夢」は叶う

「英語が苦手」という理由で留学を諦める人は、多いかもしれない。だが、英語が出来ないから留学を諦める、という方程式にはならない。この記事を読まれている皆様の英語はきっと、留学前の私とは比べ物にならない程上手であろう。私は留学を決めてからひたすらに勉強し大学教員まで辿り着いた。そこでこんな言葉を読者の皆様に送りたい。"If I can do it, anybody can do it." 受験経験もなくセンター試験すらよくわかっていない私が留学出来るのだから、皆様に出来ない事はないと強く思う。留学は、今までの私の人生で1番良い決断であり、同時に1番恐ろしい決断でもあった。留学は、決して派手ではない。むしろ地味な勉強の嵐だ。しかし、夢を叶えたいと思う皆様が、この記事を読み、人生を大きく変える転機に留学する勇気を持って頂けるなら、これほど嬉しいことはない。もう1度、皆様にお伝えしたい。「夢」は叶う。次号の修士課程から現在の教員の仕事までの記事を書かせて頂くのでそちらも見て頂きたい。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)

ボストンに移り住んで早数ヶ月、訪問の度にMITのグレート・ドームに羨望を抱いていたことも、今ではもはや懐かしい。私はスイス・バーゼルにあるFriedrich Miescher Institute for Biomedical Research (FMI)でPh.D.を取得したのち、現在ここボストンにあるBroad Instituteでポスドクとして働いている。スイスのPh.D.コース、そしてFMIは知名度がそれほど高くないため、4年前にその概要について寄稿させていただいた (かけはし2015年2月号参照)。本記事では、その後のPh.D.取得からアメリカ移住に関連して、私が学んだことをシェアしたい。

その1. キャリアプランは自分の気持ちが第一

ディフェンスに向けて動き始めたのは、Ph.D.開始から5年経過して投稿論文がアクセプトに近づいた頃である。大学・専攻によってPh.D.取得のための要件は千差万別であり、FMIには明確な基準はない。単純に、ボス(を含むthesis committee)がOKを出せば、ディフェンスを行える。極端な話、論文が一報もなくとも、ボスが納得すれば終わりである。学生を囲い込むPrincipal Investigator (PI)もいるが、私の指導教官は完全に対照的で、3年経ったあたりで「もう十分やっただろう、卒業に向けて準備してもいいよ」とGoサインを出し始めた。しかし、当時私は自らが筆頭著者となる論文を一本も持っていなかった。Ph.D.時代の論文はキャリア形成において重要だろうし、何より論文の有無はアカデミアにおいてポスドク先を探す上でキーファクターになるだろう。卒業しても行き場のないのが目に見えていた。そのため、アカデミアでポスドクとして研究を続けるために、1.論文アクセプト→2.ポスドク先確定(と並行して博論提出)→3.Ph.D.ディフェンス、という流れに固執し、のらりくらりと雇用期間を延長してもらうことになった。結局その後2年ほどかけて、この流れに沿って何とか卒業まで漕ぎつけたわけである。

その2. 信念をもって足掻くこと

私はスクリーニングに基づいたプロジェクトを行っており、面白そうなタンパク質を解析対象として見つけてはいたものの、新規性のある発見には至っていなかった。Ph.D.の初めの3年間は、あれこれと試行錯誤を繰り返しており、ネガティブデータを山のように蓄積させていた。指導教官が認めているのであるから、さっさと卒業して、新しいラボで心機一転を図るのも一つの選択肢であったかもしれない。しかし、持ち前の諦めの悪い性格もあり、自分が手をつけたプロジェクトから逃げ出す気にはなれなかった。ノーベル賞受賞者のインタビュー記事などで、「この実験こそが発見の鍵だった」などとドラマティックに語っているのを目にするたびに、自分にとって次の実験こそが運命を変えるものだと思わずにはいられなかった。現実はそんなに華やかなものではなかったが、幸運にも、淡々とプロジェクトの流れが変わっていくのを私は実際に感じることになった。指導教官が卒業のGoサインを出し始めた頃、当時新しく流行り始めたコンセプトを取り入れると、私の解析している現象に理論的根拠が与えられそうだと気づいたのである。新しいコンセプトであるため、それを示すための種々の実験系がラボには存在せず、自分ひとりで立ち上げることになった。時間のかかるプロセスではあったが、その後2年ほどの実験はポジティブデータの連続で、無事論文はアクセプトに至った。生産的なPh.D.課程であったとは決して言えないものの、自分を信じて最後まで足掻くことの重要さを学んだ。

FMI最終日にラボメンバーと。前列中央が筆者。後列中央が指導教官。

その3. 何事にも全力を尽くすこと

ポスドク先を決めるにあたってはもちろん研究テーマを第一に考慮した。ヨーロッパ文化は十分に体験した感があったため、アメリカも視野に入れた。ポスドク時代をMITで過ごした指導教官曰く、「アメリカの一流大学のビックラボに行くならば新しい経験ができるだろうが、そうでなければヨーロッパの研究水準も負けてはいないし、むしろヨーロッパの方が適切にオーガナイズされている」とのことで、ボストン、ニューヨーク、カリフォルニアの一流大学に焦点を合わせて、興味のあるラボをいくつかピックアップした。とはいっても、分野を大きく変えようとしていたため、そう簡単にアプリケーションメールに返事がもらえるとは思えなかった。そこで、ポスドク期間の詳細な研究計画を書いた、かなーり長いカバーレターを作成し、意中のPIに送付した。詳細を書けば書くほど「柔軟性のなさそうな候補者だ」と捉えられる可能性もあるため、必ずしも良い戦略であるとは言えないだろう。どんなに準備したところで、いわゆる大御所のPIの元にはアプリケーションが山のように届くため、返事すらもらえないこともよくあると聞く。そんな中、提案した研究計画が、幸運にもボスの興味と完全に一致して、トントン拍子にことが進んだのが第一志望であった現在のラボである。ポスドク先探しは、運や縁といったコントロールできない要素に左右されるプロセスであることを実感した。
バーゼル大学でのPh.D.取得のプロセスは論文が1本でも出版されていれば、それほど厳しくはない。基本的に、出版された論文をそのままResultsのセクションとして挿入し、やや詳細なIntroductionとDiscussionを付け加えれば博士論文の完成である。聞くところによると、他のヨーロッパ諸国では、出版された論文の挿入は認められず、新たにResultsを再構成しなければならない場合もあるらしい。博士論文の提出後、1ヶ月程度でディフェンスの日取りを決めることができる。ディフェンスそれ自体も、口頭発表によるプレゼンテーションと、それに続くthesis committeeとのディスカッション(※博士論文のリバイスを求められることもある)という形式で穏やかなものであった。ディフェンス当日における受け答えが評価され、ラテン・オナーズとよばれる学位に付随する称号も与えられる。その後、博士論文の最終稿を大学に提出し、晴れてPh.D.となった。

Ph.D. hatと友人たちからのFarewellプレゼント。実用的なものが多く非常にありがたい。

その4. Science is tough.

学位留学を夢見ていた頃の私は、海外の有名研究所で働けばいい論文が出る、そういう研究所のPIは上手くラボ内で指揮をとってテーマが面白くなるよう誘導するものだ、と他人任せの甘えた考えを持っていたように思える。指導教官の口癖のひとつは“Science is tough.”で、自らが口を出して学生やポスドクに結果を与えてしまうと、彼らが科学の険しさに気付くことができなくなると繰り返し言っていた。研究分野が細分化され、求められる知識・技術が多様化されてきている今、1人で研究を行うのは非常に困難であり、適切な共同研究が求められるのは言うまでもない。その一方で、科学者は結局のところ孤独であり、自分の学説を打ち立てるには自分のみが頼りであるということを身をもって学んだ。Ph.D.課程に、こういった教育を受けられたことは私の研究者人生にとって大きな財産であり、指導教官に深く感謝したい。指導教官曰く、研究者として生きていくのに大切なのは頭の良さ、勤勉さ、そして運(!!!)の3つであるという。国も分野も変えての新しい挑戦は始まったばかりである。気持ちを新たにサイエンスを楽しんでいきたい。

齋藤諒(さいとうまこと)
Broad Institute of MIT and Harvard (Feng Zhang lab)
中島記念国際交流財団・元奨学生