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「日本とブラジルの言語・文化を理解した日本語教師になろう」と将来の夢を抱いたのは、高校2年生の時だった。私は、自動車産業が盛んな愛知県で生まれた。小学生の頃から、日本語が話せず困っているブラジル人のクラスメートが周りにいる環境で育った。この夢を叶えるため故郷を離れ、大阪で大学進学し、地球の反対側のブラジル・サンパウロ大学大学院の修士課程に進学した。日本に帰国して大阪大学で博士号取得後、現在は、日本国内の大学で留学生に日本語を教えながら、外国にルーツをもつ子どもの言語教育に関して国内外での研究に従事している。

ブラジルの大学院に進学を目指すに当たり、周りにブラジルの大学院に進学する人などおらず、大学院進学方法を見つけるのに多くの時間を費やした(合格した後分かったのだが、サンパウロ大学に正規大学院生として入学し、修士号を取得した日本人としては2人目だったそうだ)。今回講演を引き受け、また筆を執っているのは、少しでも私のようにブラジルの大学院進学を目指す人の役に立てばと思ったからである。

サンパウロ大学を選んだ理由

ブラジルの大学院で学ぼうと本格的に思ったのは、2008年9月からのリーマンショックの影響で多くの外国人が国に帰国した時期であった。学部生の頃から日本国内でブラジル人を中心に外国にルーツをもつ子どもたちに日本語支援や学習支援をしてきた。そのためブラジルに帰って行く子どもたちの教育、言語の問題は帰国後どうなってしまうのか心配になったのだ。そこで、ブラジルで日本から帰国した子どもたちの教育について研究しよう、将来両国のかけはしとなる人材になりたいと思いブラジルの大学院進学を目指すようになった。

サンパウロ大学(Universidade de São Paulo)は1934年設立された南米の難関大学の一つである。大統領など各分野の要人を輩出している。

サンパウロ大学を選んだの理由は大きく3つある。

①フィールドとしてサンパウロは世界一の日系人人口であること

②サンパウロ大学は当時南米トップの大学で、日本語分野でもブラジルの中で最も古く優秀な大学であること

③先行研究を読む中で、サンパウロ大学の先生の論文・研究に興味をもったこと

自分からサンパウロ大学の先生にコンタクトを取り、半年間の研究生を経て、大学院入試に挑戦した(ポルトガル語・英語筆記、面接)。大学院進学する際には自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかは日本・ブラジルの場所を問わず重要である。

サンパウロ大学の大学院(日本語・日本文化・日本文学専攻)への出願での主な必要書類は、研究計画書、外国語の試験(日本語や英語)である。日本人(外国人)の場合は、外国語の試験は日本語ではなく英語が必須で、さらにポルトガル語試験(ポルトガル語能力試験)も必要である。最新情報は公式HPを参考にされたい。

サンパウロ大学の良さ

次に、サンパウロ大学に入学して、良かったことを2点あげる。

①福利厚生が充実していること

まず、ブラジルの大学は国立大学なら学費が無料である。これは外国人にも適応される。今振り返ってみても無料で高レベルの教育を受けることができたのはとても幸せなことであったと思う。学食は、政府からの補助があり、2レアル(約100円)で食べることができた。学内と最寄り駅を繋ぐスクールバスも無料で乗れる。広大な敷地には学部ごとに付属図書館があり学習する環境が整っている。メインキャンパス内に日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)が併設されている。日本文化センター内の図書館には日本語の図書が多数所蔵されており、その他先生方の研究室や日本語・茶道・華道の公開講座が開講されている。私は国内外でいくつかの大学に留学したり、所属したりしてきたが、今の所福利厚生面でサンパウロ大学を超える大学は出会ったことがない。

Fig1.日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)

②南米有数の教員・学生のレベルの高さ

日本語・日本文学・日本文化専攻の教員陣は、ポルトガル語、日本語、英語を操るバイリンガル、マルチリンガルである。また、半期に一度日本から客員教員を招き、直接授業を受講できた。日本では受講が難しい著名な先生の講義をむしろブラジルで受講できたことは大きな財産となったと感じている。

サンパウロ大学の大学院生活

サンパウロ大学院時代の生活について授業、研究、課外活動の3点に分けて述べたいと思う。

①授業

1コマは驚きの4時間であった。ノンストップで続く白熱の議論についていくのは簡単なことではなかった。授業についていくのが大変な時、現地人の友人が沢山助けてくれたことは今でも感謝している。留学を充実させるポイントとして、何でも話せ相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ることは大変重要である。また外国にルーツをもつ子どもたちの大変さを自分自身も実体験できたことは、現在の職においても糧になっていると感じている。

研究

研究費の面では、返済不要のブラジル政府の奨学生CAPES(Coordination for Improvement of Higher Education Personal:日本学術振興会特別研究員DC1相当)に選出されたことが大きかった。

研究の手法はライフストーリーだったので、理系のように研究室に籠るわけではなく、研究協力者を探し、信頼関係をつくりながらインタビューしていった。インタビューデータの文字起こしをし、分析、論文執筆というサイクルで生活していた。

最も大変だったのは、ポルトガル語での学会発表であった。指導教官に毎週ご指導いただいたことは今でも感謝している。また、修士論文の一部を国際学会で発表する機会を与えていただく幸運にも恵まれた。初めて日本語で学会発表をしたのだが、優秀発表賞を受賞できたことは異国の地で研究してきたすべてが報われ、支えてくださった多くの方々に恩返しをできたのではと感じている。  

課外活動

国際交流のサークル立ち上げ、ブラジル人や多国籍な仲間たちとポルトガル語・英語・韓国語の3か国語を駆使しながら活動をした日々のお陰で、語学力だけでなく人と人をつなげる能力も伸ばすことができたと感じている。異国・異文化での困難を乗り越える秘訣は、「うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる」、「感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る」ことだと常々考えている。そのためには、文化の違いを「笑える」力も重要だと思う。ブラジル留学生活で一番学んだことは「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」というブラジル人の気質である。物事が思い通り、計画通りに行かないときも、臨機応変に「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」と二度と戻ってこないその瞬間を楽しむ心の大切さを教えていただいた。

Fig2.サンパウロの旧市街にあるセー広場の大聖堂

卒業後のキャリア

サンパウロ大学で修士号を取得した後に日本に帰国した。サンパウロ大学で修士号を取ったことを進学や就職など大切な場面で評価していただいたと感じている。これは、南米トップのサンパウロ大学卒という学歴面だけではなく、そこで培ってきたバイタリティ―、忍耐力を認めていただくことができたと理解している。また、人との出会いとつながりのありがたさも感じている。現在でもブラジルをフィールドとし国際交流基金、JICAなどと共同研究ができている。また、国内では地元をフィールドに科学研究費を受領しながら研究を行い、研究を通して夢が叶いつつあるのを実感している。

まとめ

上記のポイントを以下の3つにまとめる。

①大学院進学:自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかが重要。

②留学を充実させるポイント:何でも話せる・相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ろう。

③異国・異文化での困難を乗り越える秘訣:うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる。感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る。Vai dar Certo(なんとかなるよ!)

最後に、修士論文の一節をメッセージとして記し、筆を置こうと思う。少しでも読者のお役に立ったのであれば幸いである。

O caminho do sucesso é um caminho em que você tem que agir até o fim, enquanto enfrenta problemas, aprende, e se torna habilidoso em como ser bem sucedido. Você atinge sucesso ao vivenciar provações e erros nesse caminho, sofrendo, aprendendo e percebendo como ser bem sucedido; e agindo.

成功の道は、進みながら成功することにぶつかって、学び、有能になっていきながら最後までしなければならない。成功に行く過程で試行錯誤を経て、苦労し、自分が会得しながら、成功する方法を悟って行うようになることで、成功するようになる

出典:Sayaka Izawa (2015) O percurso escolar dos filhos de decasséguis brasileiros retornados. Biblioteca Digital USP. URL: https://www.teses.usp.br/teses/disponiveis/8/8157/tde-19102015-130134/pt-br.php (2020/12/24アクセス確認)

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会 (ブラジルは10:01から) https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

伊澤 明香(イザワ サヤカ)
大阪経済法科大学 教養部 助教。大阪大学 外国語学部を卒業後、グローバル企業でのポルトガル語通訳を経てブラジル・サンパウロ大学 大学院 哲学・文学・人文科学(東洋文学)研究科 日本語・日本文学・日本文化専攻で修士号を取得。帰国後、大阪大学で博士号を取得。

私は東京工業大学の生命工学科を2016年に卒業後、米国のカリフォルニア大学デービス校(通称UC Davis)に進学し、食品科学の修士課程を2018年に修了しました。現在は、サントリーホールディングスに入社し、日本で健康食品の商品化業務に携わっています。本稿では、留学中の企業への就職活動についてお話ししたいと思います。海外大学院への留学と聞くと、PhDからアカデミアの道に進むイメージがあるとは思いますが、企業への就職も一つの選択肢として考えられる際にお役に立てれば幸いです。

日本企業vs︎米国企業

職活動を始めるにあたり、日本企業と米国企業どちらに就職するか悩まれるかもしれません。両者で選考方法や採用で重視するポイントが大きく異なりますので、ここではそれぞれの特徴について触れたいと思います。アメリカの就活にはまず、日本のような解禁日が設けられていません。日本では総合職や一般職という大枠で新卒生を一斉採用し、部署に割り振りますが、アメリカではポジションごとに必要なスキルを持った即戦力を採用するため、スポットが空けば随時募集をします。また、日本は研修を通して新入社員育成に力を入れていますが、アメリカは入社後すぐ即戦力として働くことが求められます。この方針の違いは選考方法にも現れており、人間性(ポテンシャル)重視の日本は対人で時間をかけて採用するのに対し、経験や能力重視のアメリカでは書類選考〜面接まで全てオンラインかつ短期間で選考することがあります。また、アメリカはコネがものをいうため、そもそも求人情報が公開されていないケースも多いです。企業はまず大学院の共同研究先や教授との繋がりで人材を探し、コネで採用できない場合に一般募集をかける流れが一般的なようです。研究職を希望する方にとっては、必要な学位も両国で違ってきます。日本では修士卒以上で研究職へ応募が可能ですが、アメリカでは博士号が必要とされ、修士卒で就ける職種は学部卒と大きく変わらないこともあります。このように、日本とアメリカでは選考の進め方や重視されるポイント、研究職への応募条件が異なっていることがわかります。私は日本企業の新人育成に力を入れている点、修士卒で研究に携われる点が自分に合っていると思い、日本企業への就職を選択しました。

ボストンキャリアフォーラム(BCF)

日本人留学生の就職活動の場として、BCFをご存知の方は多いと思います。毎年11月に3日間開催され、日系・外資系合わせて200社以上が参加する世界最大規模の就活フェアです。私は修士2年目の秋に参加し、日本企業の選考を受けました。ここではBCF選考の流れについて、体験談を交えてお話したいと思います。

1) 準備留学先では就活中の日本人が周りにいなかったので、BCFの選考方法や対策といった基本情報を調べることから就活がスタートしました。前述の情報収集を9月に行い、10月上旬にESやレジュメの作成、10月中旬から事前応募を受付けている企業にエントリーを始めました。ES・レジュメについては、何人かに添削頂くことを強くお勧めします。また、予想以上に書類作成に時間がかかるので、今後参加される方は、少し余裕を持ってBCF3〜4ヶ月前から準備に取り掛かると良いと思います。

2) エントリー事前応募にエントリー後、いよいよ選考が始まりました。書類選考を通過すると、応募から1週間程で結果が送られてくるので、Webテストの受験やSkypeでの一次面接、BCF当日の面接予約に進みました。会場での面接枠は早い者順で埋まっていくため、期限前に応募を締切る場合があり、注意が必要です。志望度の高い企業は応募受付開始後、なるべく早くエントリーするのが良いと感じました。また、事前応募の他に、履歴書を当日企業ブースで提出する方法(通称Walk-in)もあるので、志望度に合わせて事前応募とWalk-inを使い分けました。Webテストに関しては、日本での選考ほど重視はされていませんでした。足切りの位置付けではなく、形式的にやっている企業が多かったです。対策は例題を解くなど最低限にとどめ、その分の時間を面接練習などに充てる方が有効だと感じました。

3) BCF当日とその後BCF当日は、予約していた面接やWalk-in応募を行いました。面接の合間も、次の面接の準備やお礼メール作成などに追われ、一日があっという間に過ぎていきます。BCFは本選考の場であり、企業の説明会に参加する時間はあまりないのだと実感しました。BCFと言えば、企業の方とのディナーも醍醐味の一つだと思います。私も一社からBCF前日の夜、ディナーに呼んで頂き、会社の雰囲気や仕事の話などを聞くことができました。翌日に面接を控えていましたが、ディナーで面接官の方にお会いしていたお陰で、当日は落ち着いて臨むことができました。面接では、志望理由や学位留学に至った経緯、留学での苦労について聞かれました。研究職志望でしたが、自分の研究について説明を求められることは少なく、留学していること自体を評価している企業が多かったです。面接結果は遅くとも翌日中に電話やメールで連絡があり、その後12月にSkype若しくは日本の本社で最終面接を受け、選考を終えました。最終的に、エントリーした8社のうち2社から内定を頂く事ができました。

Fig 2. 会場内の様

BCF以外の選考

BCFの他に、日本人留学生向け就活情報サイトを通して1社に10月頃エントリーしました。サイトに掲載している企業についてはES添削や模擬面接も無料で提供しており、BCF前の良い練習になりました。また、掲載企業の中には海外大学を直接訪問して説明会を開催して下さる所もあり、じっくりお話を聞ける利点もありました。説明会前にESを提出すると、Skypeで一次面接、説明会当日に2次(最終)面接を受ける事ができ、短期間で選考を終えられます。訪問先大学は限られていますが、興味のある企業があればBCFと併せてご検討頂くと良いかもしれません。

就活を振り返って

日本での一般的な就活と比べ、かなり早いペースで選考が進んでいきました。就活にかける時間が短くて済むメリットはありますが、応募できる企業(特に研究職の場合)が限られることや、企業の説明会に参加する機会が少ないのは大きなデメリットだったと感じています。OB訪問も難しいため、面接官を通しての会社のイメージしか持てず、企業を選ぶ判断材料が限られている点に苦労しました。そこで就職先を決めるにあたっては、内定を頂いた企業の人事の方にお願いし、冬の一時帰国に合わせて社員面談をセッティングして頂きました。面談では社風や社員の方の雰囲気などを知る事ができ、就職先選びの決め手になりました。

昨今のコロナの影響で、留学中の日常生活だけでなく就職活動のあり方も大きく変わっていることと思います。オンライン化が進むことで、今後はエリアの制限を受けずに選考を受けやすくなるかもしれません。私が受けた当時と状況は違ってしまいますが、就活を検討される方にとって、本稿が少しでもお役に立てれば幸いです。

村瀬 彩華(ムラセ アヤカ)
カリフォルニア大学デービス校 食品科学科 修士課程修了
University of California, Davis, Department of Food Science and Technology

この記事では、英国と日本の両大学院での修士号取得を目指されている森江建斗さんの「ダブル・マスター」についての情報をお届けしています。前号「出願までの意思決定」に続き、今回は出願プロセスについて紹介します。

出願プロセスとタイムライン

 出願の過程については、述べたとおりLSEしか出願をしていないので、LSEの場合(しかもDepartment of International Relations)しか記すことができないので大変恐縮だが、あくまで一人の体験として出願のタイムラインの概要を記述しておく。

1)出願時期

 英国の出願は、一般的には、rolling application systemといって、アプリケーション・フォームが開設され次第、アプリケーションが可能で、出願が提出された順番に審査にかけられる。1月の中旬から下旬に第一回の結果発表があり、それより前に(実際には審査される時間を含めて十分前に)提出された出願の中から合格/保留/不合格が発表され、その後随時コースの定員が埋められていく(詳しい出願の情報は、各大学やコースのHPや該当する先輩方のブログ記事などを確認していただきたい)。英国ではオックスブリッジやロンドン大学のような人気の大学では、学部にもよるが、4月には多くのコースの定員が埋まり切るらしい。私の学部では、12月上旬にはそのアプリケーション・フォームが開設されるため、12月中旬(10~15日あたり)を目処に準備を進めた。12月15日までとしているのはあくまでも目安だが、英国の大学の試験官がクリスマス休暇を取る前に出願を大学に送り込むというイメージだ。

2) 出願書類と各スケジュール

 まず簡単に必要な出願書類について、言及し、それぞれの特性と準備のための各スケジュールを論じる。英国の修士課程への出願に必要な書類は一般的に、大学の成績、TOEFLやIELTSの英語スコア、推薦状、志望動機書(Statement of Purpose: 以下SoP)、CV(履歴書)である。多くの先輩方が指摘するようにSoPが最も重要で、次に推薦状、そしてその他の書類となる。従って、重要度の高いものから順番に論じていく。

i. 志望動機書(SoP)

 LSEの私が出願した学部では、1,500 WordかつA4で2ページ以内という制限があった。この字数制限で1,400 word以上書き、フォント12で通常の余白の設定の場合、上手くA42ページで収まらないことも多いので、フォントや余白の調整といったアウトラインから工夫を行った(フォントは10.5以上が目安だろう)。こうした工夫は、LSEを含め英国の大学院へと進学をされた先輩方のSoPを見せてもらいながら学んだ。次に内容についてだが、具体的かつ個別的であることが求められる。具体的な書き方について細かく書くことは紙面の都合で難しいが、「なぜあなたがその大学のコースで学びたいのか」、「なぜコースのトピックに関心があるのか」、そして「仮に希望のコースで学ぶことになったとして、どのように修士課程の間過ごすのか」という問いを終始意識しながら、試験官に試験管に出願者が有意義に修士課程を過ごせそうだと具体的に想像させることができれば、良いSoPということになる。

 私のスケジュール感について言えば、下書きとなるような文章は箇条書き程度にまとめて9月下旬頃にはつくり、推薦状を書いてくださる先生にも送っておいた。それは、推薦状を書いてもらう際に、参考になると考えたためで、またそれがSoPを書く上で適度なペースメーカーとなった。10月下旬までにはLSEのための自己ストーリを用意し、専門的な研究内容や大学院で問いたい問いや手法については、卒業論文の研究を進めながら深化させた。こうした背景には、2年間の米国の修士課程とは異なり、英国の1年の修士課程は、より具体的な研究テーマや処理可能な問いの大きさが求められるというアドバイスを受けたものだ。

 そして11月1ヶ月を使って、1,500 wordsのSoPを推敲に推敲を重ねた。細かな変更を含めておそらく50回ほど推敲を行ったが、大まかに4つのプロセスを経て、SoPに磨きをかけた。①英会話レッスンを利用した添削(少し禁じ手かもしれないが、IELTSのスピーキングで仲良くなった講師の先生に簡単な文法や語法のミスを確認してもらった)、②英国の大学院に進学した先輩方からの大まかな全体構想や論理構造についてのアドバイス、③ネイティブの友人によるより細かな文法ミスや単語/表現のニュアンスのチェック、④大学の教授や推薦状を書いて頂く先生によるアカデミアの人間からの客観的な最終のフィードバックという順番で、お世話になった。私の場合は、本当に恵まれすぎていたと振り返り感じる。添削サービスなどもあるので、もし金銭的に余裕があれば、利用してもいいだろう。

ii. 推薦状

 一般的には2通、多いところ(例えばオックスブリッジ)で3通まで提出が可能である。よく言われるように、推薦を頂く先生が希望する大学のOBOGや教授職、もしくは有名大学の教授だといいとされるが、実際にはそうした「知名度」や「地位」にも増して、出願者のことを知っているかがより重要とされる(もちろん前者の性質が後者の前提に加えて伴うと「強い」推薦状となるのは間違いないが)。「出願者を知っている」の定義としては、一学期以上のセミナーなどの少人数ゼミの受講や指導教員という立場が、最も説得性が高いと考えられ、従って、少なくとも1通はそうした先生から推薦をもらえるようにするといいだろう(実務よりの修士課程、たとえばMBAなどであれば、指導教官よりも職場の上司の方がいいなどの例外はもちろんあるが)。

 推薦状を書いて頂くにあたって、私が重要だと考えたことは、①自身の専門性の有無や程度を評価してもらうこと、②英語の運用力を評価してもらうこと、③人柄を評価してもらうこと、であり、①と③は多くの場合指導教員やゼミの先生が評価をする立場にあるだろう。一方で、②の評価を公平に下してもらうためにはどうすればよいかと考え、2人目の推薦状執筆者を探した。候補としては、(a)オックスフォード大学のサマースクールの先生、(b)オランダの留学先の先生、(c)4年生後期に受講していた英語授業の先生(京都にあるスタンフォード・センターというスタンフォード大学の海外機関)の3名で、そのなかで直近の自分を最も知り、また直接お願いしやすい状況にあるとし(c)の先生にお願いした。

 推薦状をお願いするタイミングとしては、余裕をもって出願から1ヶ月から1ヶ月半以上前にお願いすることが重要だ。またその際にはSoPの下書きやCVなど同封することで、出願者の進学の意志やモチベーション、能力などについて、アピールすることも重要だろう(もちろん、それが推薦状に盛り込まれるかは定かではないが)。

iii. 大学の成績、TOEFLやIELTSの英語スコア

 これらの書類で規定のスコアや成績を満たすことは、英国の受験において最低限必要なことではあるが、合格のための重要条件ではない(例えば英語力については、Conditional Offerという形で留学開始までに必要な英語スコアを取り直すかプレ・マスターコースというアカデミック・イングリッシュ用のコースを留学前の夏休みの約1ヶ月履修することなどを合格条件とする場合もある)。大学の成績については、ロンドン大学系列では一般的にはGPA3.6/4.0が基準として求められ、オックスフォードではGPA3.6以上が応募者の多数派になるという(ただし例外もしばしば聞くのであくまで目安であろう)。海外大学院への進学に関心のある読者の方は、学部時代からの成績に気をつけておくべきだろう(また社会人で海外修士に挑戦される方が学部時代のGPAでトップ校への出願を躊躇されるという話をしばしば聞くが、そうしたことも踏まえて、学部時代からの準備が大切かもしれない)。私がGPAや成績について悩んだことは、オランダ留学時代に異なる専門分野の授業を履修し、挑戦心から敢えて最終学年のゼミを受けた結果、留学時代の成績が芳しくなかったことだ。これについては、京都大学への単位変換を敢えて行わずに、京都大学での成績だけの提出を試みたが、SoPやCVに留学先を記述するとやはりそうした留学先の成績表の提出も求められたので、追加で提出した。この成績が、プラスとなったのか、マイナスとなったのかはわからないが、少なくとも交換留学に挑戦し、英語の環境でも約一年間生き残れたという証明にはなったのではないかと思う。

 英語のスコアについては、各大学のコースのアプリケーションの欄に必要スコアが記載されている。勉強法などについては、多くのブログなどの記事があるので、そちらに譲る。ただし、IELTSなどの教材は高いため、大学の図書館の利用(過去問集など)や、リスニングはYoutubeを利用、スピーキングはDMMなどのオンライン英会話を利用したとだけ、簡単に述べておく。

Fig1. LSEのOld Buildingの入り口にて

奨学金と京都大学大学院への進学の決意

 実用的な知識よりも、より根本的に社会のあり方を問えるような研究を行いたいという思いもあり、4年生の秋の時期には変な意地があったのであろうか、自分の研究を非常に「わかりにくく」説明して、奨学金へ応募したことで、多くの奨学金の獲得を逃した。LSEの合格を受け取った4年生の1月中旬(学部卒業まであと2ヶ月)でも奨学金は獲得できておらず、少し気がかりだった。その頃には、卒業論文を書き終え、研究のリテラシーが向上したのだろうか、その頃から、京都大学を含めた日本の大学で行われている研究が、面白いと再度認識できるようになった(それまではなぜ面白いのか、アカデミックな意味で理解できていなかったのだ)。そこで、京大の大学院にまずは進学して、LSEの留学までの期間を過ごそうと決意し、2月に無事大学院合格を果たした。

 そして、ちょうどその頃に、「トビタテ留学JAPAN」の応募があり、自分がその出願の資格があることを知る。条件として、日本の大学に所属し、帰国後にその大学を卒業することが条件だが、奨学金がなかったこともあり、なんとか出願してみようと考えた。

「トビタテ留学JAPAN」の応募で一番ネックになったのは、どのように自分の研究と実践活動(と呼ばれる実務的な課外活動)を関連付けるのか、そしてただでさえ忙しいと噂のLSEでの修士課程でどのようにして実践活動のための時間を捻出できるのかという問題だった(実際正規修士課程で同奨学金を利用されている方の多くは「理系」の方で、ラボでのインターンを実務活動に当てている印象があった)。たとえ計画書の上では上手くいきそうでも、現実としてどの程度ロンドンで実行できるかは不安だったからだ。しかしそれでもなんとか同奨学金に採用され、LSE留学の一部の資金を賄うことができた(残りは、家族からの支援)。そして英国留学では、研究+アルファを達成するための準備がはじまった。次回は、LSE留学時代とその後について書く。

Fig2. フロイト博物館前にて

次号へつづく。。。

森江建斗 (モリエ ケント)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)
MSc International Relations Theory
京都大学 人間環境学研究科修士課程

はじめに

 ニュースレターの読者の皆様、はじめまして。2018年9月から2019年9月までの約1年間、英国のLondon School of Economics and Political Science (以下LSE)にて、MSc International Relations Theoryという修士課程に在籍していました。そして、現在は京都大学人間環境学研究科修士課程にて2つ目の修士号の獲得を目指しています。このニュースレターでは、米国への大学院(修士・博士課程)進学をされた方の経験談が多いとは思いますが、いわゆる「文系」とされる分野でも、英国や日本での修士号を組み合わせて、研究の計画を立ててみることも可能なのだという参考になれば幸いです。また、こうした少し変わった経歴を踏むことになった経緯や意思決定の背景についても、簡単に述べられればと思います。

 本記事は、あくまで個人的な価値観・考え方を反映した記事です。また後から振り返り論理性や一貫性を「作り」きれいに見せるよりも、各時期に何を感じながら(多くは悩みながら)どのように意思決定を下していったのかが伝わるように少し叙述的に書きました。その点を踏まえて出願準備や海外留学中の合間にご笑覧頂ければ幸いです。

海外修士課程への挑戦を決まるまで

 英国の大学院進学に関心を抱いたのは、早く見積もれば大学2年生のオックスフォード大学でのサマースクールへの参加し、はじめて海外の教授から自らの専門分野を学んだことがきっかけであった。最終的に出願を決意したのは、4年生の春(4~5月)である。その頃私は就職するのか、それとも内定を断るのかという岐路に立たされていた。当時、オランダのユトレヒト大学に交換留学していたが、4月のロンドンキャリアフォーラムで運良く内定を頂き、就職か進学かという選択の淵に立つことになった。多方面で先輩・先生方に相談しながら、自分の進路について、1ヶ月(内定受諾か否かの返事の期限)悩んだ末に、大学院の進学を決め、今回の内定は断ることにした。

就職か海外大学院進学か

 就職か海外大学進学かを選ぶ際、決め手になった観点について、簡単に記しておきたい。最も大きかったのは、いま関心のあるテーマを深めたいという欲求であった。そしてせっかく修士課程に進むのなら、その分野で最先端の国で学んでみたいと、オックスフォード時代やユトレヒト留学を思い返しながら考えた(この時点では国内大学院への進学はあまり考えていなかったが、それは前述した海外での経験から、専門分野を海外で学んでみたいという気持ちが強かったためである)。多くの人が悩むであろう点は、一旦社会人になってから(海外)大学院に進学するか、そのまま学部卒業の後に(海外)大学院に進学するかであろう。この問いに対して、私は、前者のキャリアは可能なものの、それは実務的なキャリア(例えばビジネスにおけるキャリアアップや国際機関での勤務)を踏まえた内容の海外修士号の取得に限られがちではないかという考えを持つに至った。今現状で有している学術的な問いや視点を大切にしつつそれをそのまま深めていきたい場合、実際に社会経験を積み実務的な専門性を身に着けた上で学び直すという選択肢よりも、学部卒業後に直接大学院進学するほうが、当時の自分には魅力的に映ったのだ。

留学先の国選び

 次に、どこの国のどの大学に出願するかの判断軸について書きたい。まず、修士課程の制度は国によって大きく異なる。例えば、私の分野である国際関係学では、米国や大陸ヨーロッパ、アジアの大学の多くは2年間の修士課程となる一方、英国やオランダは1年の修士課程が主流で2年の修士課程は少数である。(2年のものの多くはResearch Masterで、1年制のコースワークに加え、米国で受けるとされるメソドロジー(量的分析と質的分析など)を受講する他、2年でゆっくりと修士論文を計画するもので、多くの場合はPhDへ進むための予備期間と見なされる)。その他にも、2大学での修士課程を2年(各大学1年)で完了させるDouble Degree Programも存在する。Double Degree Programは私が進学したLSEにも用意されていたためそちらにも大変関心があった。

 どの程度の海外大学院進学者の方々がどれほど広範な視野を以て論理的に意思決定を下すのかわからないが、私の場合は、それほど包括的にあらゆる選択肢を検討したわけではなかった。例えば、米国に関しては、出願のための準備(試験なども含む)が多く、卒業論文にも注力したかった自分にとって魅力的に映らなかった。 

 そうした消極的な背景に加えて、同じゼミの先輩が2年連続でLSEへ進学していたこと、また夏から本格的にはじめた卒業論文の研究が英国で盛んであることに気付いたことで、私の留学候補先は次第に英国に決まっていった。また、英国は米国と比べて必要な出願資料・要件が少なく、比較的出願に労力を割かれずに済むということも、その決断の後押しをした。

Fig1. バスの2階席より、通学風景

大学選びとコース選び

 そうして夏頃には出願を英国に絞り、オランダ留学より帰国した。次にどの大学へ出願するのかという問題に直面したが、ここは比較的スムーズに決定した。結論から言えば実際に出願したのはLSEのみで、他に「滑り止め」は何も受けなかった。それは、おそらく前述のオックスフォード大学のサマースクールの教授が修士課程でLSEを出ていたこと、身近な先輩・先生方からの影響、そして卒業論文で頻繁に引用していたGeorge Lawson先生やBarry Buzan先生(現在は名誉教授で教鞭は取っていない)がLSEで教鞭を取っていたことなどが、絡み合って、LSEしかないと思っていたのだ。LSEには、私の求めている知的土壌が存在したのだ。LSEに行けなければ英国留学しないと、半ば頑固に決めつけていた節があった。

 大学選びがスムーズに進んだ一方で、どのコースに出願するのかということに関しては大変悩んだ。悩み方としては、①やはり1年は修士課程として短いのではないか、(そこから派生して)②2年間のReserach MasterやDouble Degree Programに応募するのか、それとも③様子を見る形で一旦1年間のTaught Master(1年間でコースワークが中心となるがコース終了後には修論執筆もする「盛り沢山な」コース。英国では一般的)に出願するべきか、という悩みであった。一般に英国の1年間のTaught Masterに出願する場合、修士課程終了後にすぐに就職を目指すのであれば早い人であれば修士課程に入ったばかりの11月のボストンキャリアフォーラムを、遅い人でも3月のロンドンキャリアフォーラムを目指すと聞いていた。そもそも卒業後にすぐ就職するのかも当時決めておらず、自分の研究を深めたいのに就職活動に時間取られては意味がないだろうという贅沢な意地によって、英国の修士課程1年、単位取得によるTaught Masterの選択肢は4年生の秋頃には魅力的には映っていなかった。一方で、学びたいものがLSEにあることは明確であったものの、2年間海外で大学院生活を続けることの資金的な負担に関する不安もあった。

 結局、4年生の秋の段階では、LSEの1年コースとLSEが関係するDouble Degreeを比較検討し、もっとも求めている時間とはLSEでの学びであり、それを最も直接的に得られるのは「LSEでの1年ではないか」という結論に至り、シンプルにLSEの1年間のTaught Masterを選択し、その後の計画はまったく考えずにInternational RelationsとInternational Relations Theoryという2つのコースに出願した。2年間のResearch Masterの選択肢は、1年の間にシラバスや教授との繋がりを作れれば、満足するのではないかという考えに帰着した。その結論を導くに当たり、実際に6つほどの悩んでいた候補のコースを書き出し、卒業までの時間割を組み、可能であればシラバスを入手し、徹底的に具体性を引き出した上で結論をくだした。こうして行き当たりばったりな出願先の選定は4年生の10月下旬には決定し、あえて言うなら選択肢③へと落ち着いたのだ。

Fig2. LSE図書館の内部

次号、英国修士課程Taught Masterと日本の大学院の自家製「ダブル・マスター」ができるまで②(出願プロセス)につづく。。。

森江建斗 (モリエ ケント)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) MSc International Relations Theory
京都大学 人間環境学研究科修士課程

私は2018年8月からペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)の教員を勤めている。専門はスポーツに関する「心のトレーニング」として知られる、スポーツ心理学である。この記事では私の経験を、1)修士課程の経験、2)博士課程合格への道、3)博士課程の経験、4)大学教員の経験、5)新しいステージへ、の5つに分けてお伝えする。これらの経験に関しては私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でもアメリカ留学と合わせてお伝えしているのでそちらも併せて見てもらいたい。米国大学院進学に興味のある皆様へは、日本で英語を伸ばす、トーフルで高得点を取る、学費免除で留学する方法などを留学中の大学院生8人で対談した内容は興味深いものであろう(留学経験者8人との対談)。またトーフル23点で留学して、修士課程にたどり着くまでの1年間に関する記事はこちらを見ていただきたい。

修士課程の経験(2012〜2014)

修士としてまず経験したのは、英語の壁であろう。英語学校や聴講生として大学の授業を受けた1学期と比べ、課題の量もレベルも一気に上がった。授業について行く事に精一杯。課題をこなすにあたっては、英語の文法を毎回見てもらうなど、出来る限りの事をした。また、専攻にはメンタルトレーニングやカウンセリングも含まれていた為、授業でカウンセリングの練習があった。英語を理解するだけでも苦労していたところ、カウンセリングなど出来るわけがない。みんなの前でデモンストレーションをする時は、本当に辛かった。しかし、最新の内容を学べる環境は、非常に有り難かったし成長しているという実感も力の源になった。

幸いな事に、大学テニス部の大学院アシスタントコーチをしていた為、英語で会話する機会も多く、上達は早かった様に感じる。英語が上達すればするほど、授業は楽になるので他競技のコーチをしている大学院生など、友人が増えたことも幸いした。あらゆるスポーツを大勢で一緒にやり、大学のタレントショーに人生で初めてのダンスで友人と挑み優勝したこともある。スポーツを通した絆は、本当に有り難かった。

修士課程を振り返ると、アメリカの文化に馴染み、博士課程までの素晴らしい準備期間になった。修士号を頂く際に最優秀学生として表彰されたのは、嬉しい誤算であった。大学院生として2年間、その後の男女テニス部の総監督としての1年間(2014〜2015)とコーチは楽しくやりがいもあったので博士課程への進学を迷った事もあったのだが、アメリカに来た理由が「博士号を取り大学教員」だった為、ブレなかった。

博士課程合格への道(2012〜2015)

より確実に博士課程に合格出来るよう修士課程からテニス部の総監督時代の3年間、早いうちから指導教官の候補・大学を探し、連絡し、直接会いに行くこともした。修士課程が始まってすぐ、博士課程の大学を考え始めた。多くの研究論文を読み、博士課程で一緒に研究をしたい教員を探した。まずはアメリカでスポーツ心理学の学べるプログラムを全て確認し最初は、10個以上の候補があった。プログラムで一緒に研究したいと思う全ての教員に連絡して、学生を取る可能性があるか、そして大学院生アシスタントの仕事があるかをそれぞれ訊いた。暖かいメールを送ってくださる教員から、返信がない教員まで色々であったが返事をいただけた教員の方々には研究志望理由を送るまでの約2年間、2ヶ月に1回程度の頻度で自分の研究業績や、博士課程で研究したい内容を少しずつ紹介して関係を深め10個程度あった選択肢が最終的に3つになった。

第1志望として選んだプログラムには世界一と言えるほどの研究業績がある教員が務めておられ、その方に連絡を取り合ううちに良い方だと思えたので直接大学に出向き、学会では研究発表について会話する機会も作った(むしろその為に、学会発表へ行った)。このような準備を経て研究に対する意識・日本とアメリカでの研究活動(論文4本)を高く評価してもらい、研究アシスタントとしての仕事を頂き、博士課程に合格した。

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博士課程の経験(2015〜2018)

博士課程の授業は、明らかに難しかった。この一言に尽きる。この3年間が人生で1番勉強・研究した時期であると自信を持って言える。朝から大学に行き、夜にご飯だけ食べに家に帰ってきて、また大学に戻って深夜まで過ごすことも珍しくなかった。修士課程と博士課程はまるで別物であった。研究ミーティングは毎週あり、研究アシスタントとして働いた。指導教官との距離は、かなり近く、特に最初の1年は9割が研究の話であり、研究の話以外は正直そこまで話した記憶がない。研究活動、授業の受講、そして大学生を対象とした講義など毎日が充実していた。

修士課程までとは違い、「英語が…」などという言い訳はここではできない。アメリカ人と対等だ。博士号取得にかかる時間などは人それぞれだったし最初プログラムに15人程いた学生の中には途中で辞めるものもいた。私も、実験と論文を書くことに非常に多くの時間を費やし、データの取り直しなど上手くいかず進まない事もあった。

知識を詰め込むための授業、博士論文を書く前の審査、実験のデータ収集、論文の執筆(そして数えきれないほどの修正)、そして論文の発表に提出。ここには書き切れないほどの長く険しい道が、博士課程では待っている。これは私だけでなく、アメリカの博士課程へ進学する多くの留学生が経験するであろう。また私たち日本人の場合は英語を使うことそのものがその険しさをさらに際立たせる。しかしその反面得られる事も多い。博士課程の授業や研究活動から得た知識は、本当に役立っている。スポーツでは、上達する為に1)個人のモチベーション、2)指導者、3)環境が重要になる。留学も全く同じだ。

余談だが、在学中にヨーロッパ連合から研究費を頂き、1年目の夏は3ヶ月半の間、チェコで研究活動をする事が出来た。ヨーロッパ、アメリカ、そして日本の文化を比べる事が出来て、また経験が増えたと感じた期間でもあった。本当に世界は広い。

大学教員としての経験(2018〜現在)

まず、仕事獲得が大変であった。何度も面接の練習を行った記憶が蘇る。30人程度が応募。採用される人はわずかに1人。書類から絞られ、9人がスカイプ面接へ。そこから上位3人が2泊3日でキャンパス面接に呼ばれる。研究発表と模擬授業を1時間ずつなど非常にしっかり評価するアメリカの面接に驚いた。さらに驚いたのは、その費用を全てをアメリカの大学が払ったくれたことだ。研究論文、研究発表や、教えた授業の数など仕事を取ることを常に考えて博士課程に在籍していた事が、功を奏しただのろう。正直、博士号を取ることが目的で来たアメリカだったが、仕事を取ったときの方がその嬉しさは強かった。

大学教員として感じる事は人それぞれであろうが、私は博士課程の方が数倍忙しかった。自主性が重んじられるのが大学教員であり、授業への用意や研究を進めて行く時間など、学生の頃と比較して非常に融通が聞く。しかし、業績が残せないとクビになるというシビアなところは、日本と大きく異なるであろう。アメリカ特有の実力社会が前面に押し出されている。

学生からはHiro(ヒロ)と呼ばれている為、教員という感覚を持つ事はそこまでない。自分は「先生/教員なんだ」という感覚を強く覚えるのはむしろ、日本の大学に外部講師として伺った際、皆が口を揃えて、岩月先生と呼んでくれるときである。

新しいステージへ

アメリカでは、教員として精一杯活動したい。ちょっと大胆発言かもしれないが、私は「スポーツ心理学ならこの人だよね!」と言われるような人物になりたい。日本で知名度をあげたい。去年(2019年)、一時帰国の際には日本の16大学に外部講師として呼んで頂いた。国立では、大阪大学や名古屋大学、私学では、慶應義塾大学や同志社大学、スポーツ・健康科学の大学では、鹿屋体育大学、大阪体育大学や日本体育大学などだ。外部講師としての活動は今後も継続する予定である。

さらには高校・中学での外部講師としての活動や企業向けの研修なども含め、「役に立ったな!」・「楽しかったな!」・「視野が広がったな!」と思ってもらえる様な講師として日本の教育に貢献したい。スポーツ心理学者として、日本のスポーツ選手をサポートする事が出来たらこれ程、面白いことはないだろう。もちろん冒頭で述べたYouTubeでの情報発信も継続してゆく。

Only Oneを目指す

留学志望者の皆様が、この記事を見ているであろう。私は、留学に怖くて足がすくみ、前に進みだせない人を大勢見てきた。もし読者であるあなたがそんな中の1人であるなら、思い出してほしい。私のトーフルは当初23点で未来も全く見えていなかった。思い返せばリスクしかなかった様に感じる。それでもうまく行く例もあるのだと。

アメリカ留学から、皆様にしか出来ない経験をして頂きたい。この記事が、少しでも参考になり、留学の道への架け橋になれば、こんなに嬉しいことはない。近い将来、この記事を読んでさらにモチベーションが上がり、大活躍へ頑張っている皆様からの「記事読みましたよ!」といった、連絡を頂くことを、私は楽しみにしている。一歩踏み出し夢を叶えるには、今しかない。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)

私は、アメリカのペンシルベニア州立大学(アルトゥーナ校)でスポーツ心理学、研究方法論、健康科学を教え、研究活動を行う教員である(2018年8月〜現在)。教員になる7年前の2011年6月から留学した。驚かれるかもしれないが、留学半年前のTOEFLは120点満点中23点だった。そこから留学し、約1年後(2012年8月)にスポーツ心理学の修士課程に入学。卒業時には全大学院生の500人中で最優秀学生として修士号を取得した(2014年)。男女テニス部の総監督など1年間就職した後、博士号を取得(2018年)し、現在に至る。自分は全く英語が出来ないところから、なんとか留学時の目標/夢の「博士号取得して大学教員」を叶える事が出来た。

今回の記事では、留学を決めた2010月11月から2012月5月の修士課程に合格するまでの道をお伝えしたい。また次号、「修士、博士で学び、その経験を生かし新たなステージへ」では、修士課程から現在までをお伝えする。この記事から、「英語力0からでも、こんなことをしている人がいる」と知っていただき、アメリカ留学は誰にでも可能であると、留学したいと思っている人を1人でも勇気づける事が出来れば、これ程嬉しいことはない。私のYouTubeチャンネル「イワツキ大学」でも留学に関する色々な情報を発信しているので是非、見て頂きたい。

留学を決めるまでのストーリー

多くの優れた学生と違い、自分は勉強に関してはド素人であった。唯一、誇れるのは大学4年生まで打ち込んだテニスの経験だろう。テニスの特待推薦で高校に入学。スポーツクラスに在籍した。基本的には、学業のレベルが低い運動好きが集まり、部活に励む為のクラスとお伝えしてもよいだろう。インターハイ団体ベスト4・ダブルス高校ランキング10位に入賞し、テニス推薦で日本大学に進学。一般にいう「受験」などした事がなかった。大学も学業の成績(GPA)も、2.0とさっぱりで、教員免許だけ取得して卒業した。総じて勉強にはあまり縁がなかったのだ。だが、高校教員になる為に、大学院でしっかり勉強しようと考え、日本大学大学院に進学した。ここでの勉強は頑張ったが、英語が出来ない事には変わりなかった。高校教員になるために入学したのだが、この頃から、高校ではなく大学の教員になりたい、また英語を伸ばし、将来の可能性も広げたいと思うようになった。私が様々描ける夢の中から無謀にも、(1)アメリカに留学して、(2)英語を伸ばし、(3)修士号、(4)博士号、(5)大学教員を選んだのが2010年の12月だった。一念発起し、指導教官に進めて頂いた大学へ書類を出す準備に取り掛かった。まず、2ページの履歴書を作り、エッセイではなぜスポーツ心理学を勉強したいか、英語は苦手だがすでに研究の経験があり、論文も2本掲載されてると自己アピールをした。そして、英語の成績証明書と3人からの推薦書を集めて、急いで応募した。既に専門分野の知識を少し学んでいた、研究の実績があった、そして修士号を持っていたことから、英語が伸びたらという条件付きで「合格」をもらった。

英語学校に行く選択肢しかなかった(2011年6月〜12月)

この時点であと留学に必要なのは英語だけだった訳だが、2010年12月時点でTOEFLが23点。2011年6月に留学するまでの半年間、日本で英語学校に通い必死に英語を勉強した。そこでは語学力別に初球(1~3)、中級(4~6)に上級(7~9)に振り分けられ、私は、当初初級のレベル3に振り分けられた。

ここでは特別な勉強をするわけではない。例えば、金曜日は「週末は何をしますか?」などの日常会話をする。英語学校には、気晴らしに少し英語を学ぶために来る学生もいる。彼らは楽しそうにしていた。私も英語学校が私は楽しくなかったとは伝えない。非常に楽しい経験をさせて頂いた。しかし私の留学の目的は博士号取得であった為、「こんなことで自分は修士課程に辿り着けるのであろうか?」、「博士課程は大丈夫だろうか?」とひどく焦った。博士課程、修士課程などと比較しても、自分が1番焦ったのがこの頃である。とにかく自分の行き先が見えなかったためだ。

焦りを振り払おうと、とにかく日本語を使うのを避け、生活の全てで英語を使い、日本人とも英語で話した。英語学校が終わってからも毎日英語を聞き、出来るだけ色々人と話し、ひたすらに勉強した。将来のために、日本の修士過程の研究を英語で書く作業も並行して進めた。イワツキ大学(YouTube)でも私は、英語学校の場合は、「勝負は3時以降」とお伝えしている。それは多くの英語学校の授業が3時頃には終わり、そのあとが自由時間だからだ。そこでどれだけ英語に触れる事が出来るかが、英語学校で英語を伸ばす鍵になる。残念ながら半年で英語が大学院に入学出来る点数に届くわけもない(このとき受けたTOEFLは68点で修士課程入学には80点必要だった)、とはいえ努力がみのり、2011年12月には英語が上級のレベル7まで届いた為、2012年1月からアメリカの大学で聴講生として大学の授業を受ける事が出来るようになった。

聴講生として大学の授業を受けた1学期間(2012年1月〜5月)

アメリカでの聴講生としての日々はさらに毎日英語との戦いだった。大学から与えられた正式な大学院入学の条件とは履修生として大学の授業を4つの受けて、その全てでB以上をとることだった。当たり前だが、英語のレベルが低い人しか英語学校には行かない。その英語学校の上級に上がったところで、大学の授業はまだ難しい。正直、初めて聴講した授業は全くわからなかった。何がわからないのかすらわからなかった。個人的な見解であるが、何がわからないかわかると英語が伸びてくる。わからないことについて質問出来るからだ。それもできないほど当時の私の英語は酷かったのだ。ボイスレコーダーを使って、授業後になんども聞く事もあった。それでもわからない。英語が下手な私にとっては友人を作ることも簡単ではない。それでも、親切な友人を作り教えてもらった。課題を提出する前には、何度もライティングセンターに行った。文法など文章を添削してくれる大学のサービスである。ほんの1・2ページの課題であっても何度も添削を受けることが多々あった。(修士・博士課程入学の戦略はこちら、学費免除の戦略はこちらを参照)

テニス部のボランティアコーチ(2012年1月〜5月)

英語を伸ばす事に必死だった私は同じ頃、テニスチームの監督にお願いし、ボランティアコーチにしてもらった。コーチになる事によって、アメリカ人の周りにいる機会を増やしたかったからだ。私の場合、これが留学を成功に導いたと信じている。日本に住んでいる多くの読者の方々には、いまいち想像が難しいかもしれないが、日本人がアメリカでアメリカ人の友達を作るのは難しかったりする。しかし、英語を伸ばし留学を楽しみ成功させるには、留学中の時間を日本人とだけ過ごすのではダメだと私は思う。毎日最低2時間半のコーチとしてのアメリカ人との会話には予習も何も存在しない。しかし、幸いな事に、私はその大学でテニスがダントツで上手だった為、皆私のアドバイスをよく聞いてくれた(強いチームではない)。ここでは余談だがこのボランティアコーチが修士課程の2学期からは正式な大学院アシスタントに変わり、おかげで学費が免除になった。(修士・博士課程入学・学費免除の戦略はこちらを参照)

修士課程に合格

ともかく努力を重ね、なんとか全ての授業でB以上の成績を頂き、修士課程への入学が決まった。英語のレベルを考えても、間違いなく誰よりも授業に時間を使った。長い道であったのだが、勉強にコーチにと日々忙しかったので、振り返れば履修生の1学期間は短かったようにも感じる。

誰にでも「夢」は叶う

「英語が苦手」という理由で留学を諦める人は、多いかもしれない。だが、英語が出来ないから留学を諦める、という方程式にはならない。この記事を読まれている皆様の英語はきっと、留学前の私とは比べ物にならない程上手であろう。私は留学を決めてからひたすらに勉強し大学教員まで辿り着いた。そこでこんな言葉を読者の皆様に送りたい。"If I can do it, anybody can do it." 受験経験もなくセンター試験すらよくわかっていない私が留学出来るのだから、皆様に出来ない事はないと強く思う。留学は、今までの私の人生で1番良い決断であり、同時に1番恐ろしい決断でもあった。留学は、決して派手ではない。むしろ地味な勉強の嵐だ。しかし、夢を叶えたいと思う皆様が、この記事を読み、人生を大きく変える転機に留学する勇気を持って頂けるなら、これほど嬉しいことはない。もう1度、皆様にお伝えしたい。「夢」は叶う。次号の修士課程から現在の教員の仕事までの記事を書かせて頂くのでそちらも見て頂きたい。

岩月猛泰 (イワツキタケヒロ)
ペンシルベニア州立大学アルトゥーナ校
助教
Homepage: https://hiroiwatsuki.com/
YouTube: イワツキ大学(アメリカ留学を教員・学生目線で伝えるチャンネル)