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紆余曲折ありつつ40歳を目前にオーストラリアで博士課程にチャレンジすることにした自分の体験に、正直、どれだけの普遍性があるのかは分からない。しかし、かつて僕がそうであったように、これから挑戦すべきかどうか悩んでいる人の参考に少しでもなれれば嬉しく思う。

ロシアからオーストラリアへ

自分が今、シドニーで博士課程に所属しているなんて大それたことは10年前、いや5年前にもとても想像がつかなかった。そもそも僕は、英語圏にも南半球にもまったく縁のない人生を歩んできた。大学は外国語学部ロシア語学科。大学2年の夏休みにロシアで3週間ほどの語学研修に参加したのがはじめての海外体験だった。その後、大学3年のとき1年間休学し、サンクトペテルブルク国立大学に語学留学をした。帰国後もアルバイトを掛け持ちして資金を稼いでは、長期休みの度にロシアとその周辺をフラフラとあてもなく旅をする大学生活だった。卒業後はロシアで生活したいと思って外務省在外公館派遣員制度に応募、モスクワにある在ロシア日本国大使館に2年間の職を得た。

そろそろ任期満了が視野に入ってきた頃、「ロシアにおける日本文化フェスティバル」という大型の日本文化紹介イベントがあった。それまで海外にばかり目が向いていたが、これがキッカケとなり日本文化の面白さに目覚めた。国際交流基金という組織の存在もその時に初めて知り興味を持った。ちょうど、僕が日本に帰国してすぐにロシア語専門枠で中途採用の募集があり、運良く潜り込むことに成功した。

というわけで、地域的にはロシアやヨーロッパ、分野的には舞台芸術に興味があって就職した組織だったので、入社4年ほどして突然シドニーへの転勤を命じられたときには心底驚いた。オーストラリアに関する知識もほぼゼロ。飛行機のチケットを受けとってはじめて東京からシドニーまで9時間もかかることを知って驚いたくらいだ。こうして30歳にして初めてオーストラリアの大地を踏むことになった。

Fig1. シドニー市街遠景。研究の合間の息抜きには少し足を伸ばして新鮮な空気を。

駐在員しながら修士にチャレンジ

着任したシドニー日本文化センターではオーストラリアの日本語教育を支援する仕事を担当することになった。慌ただしくも充実した毎日だったが、1年ほどして少し自分を客観視する余裕が出てくると、自らの底の浅さが痛感されるようになった。外国語学部出身であるので、もともと言語と言語教育には人一倍興味はある。しかし、これまでの限られた経験と知識を頼りに仕事をしていくだけでは、自分がすり減って無くなってしまうような気がした。もっと体系的なインプットが必要ではないか……。

ちょうどそんな風に思い悩んでいたとき、Open Universities Australiaという通信教育の宣伝が一面に描かれたバスが目の前を通り過ぎた1。いつかちゃんと勉強したいと思っていた応用言語学の修士課程に挑戦するチャンスなのかもしれない。とはいえ、なかなか思い切りがつかずしばらく逡巡していたが、働きながら博士号を取得した会社の大先輩のアドバイスで決心がついた。曰く、「重い荷物は片手でひとつだけ持つとバランスが取りづらい。でも、思い切って両手にひとつずつ持つことで上手くいくこともある。もし重すぎたら一旦おろして休憩すればよい」。はじめての英語での勉強、大量の課題。かなりしんどかったが、なんとかモナシュ大学が提供する1.5年のコースを3年かけて修了した。ひと回り成長した手応えのようなものを感じた。

実は、僕の言語学への憧れは大学学部生時代に遡る。副専攻として履修したいと思っていた。しかし、周囲の「言語学なんかやっても意味ない」「就職につながらない」などという意見に流されて諦めてしまった。その後悔がずっとどこかにあった。思い切って修士をやってみて実感したのは、「学び終わるまで、そこで何を学ぶことになるか、学び始める前の自分には分からない」ということだった。どんな分野であろうとワクワクする事を追求することで想像もしなかったブレイクスルーがあり、新しい景色が眼前に広がると今では確信している。


1 イギリスのThe Open Universityとは異なり、Open Universities Australia (https://www.open.edu.au)は単独の大学ではなく、様々な大学がオンラインコースを提供するポータル的な組織。学位は各大学から授与される。

そして、博士課程へ

その後、6年の長きに亘ったシドニーでの駐在員生活を終え再び日本に戻って働き始めた。しかし、オーストラリアの日本語教育に関する様々な疑問をもっと深く追求したいという思いが日々強くなっていった。ただ、40歳を目前にして約13年勤めた安定した仕事を手放す不安も大きかった。職場では中堅として、やりがいのある仕事が出来るようになっていたし、国際文化交流という刺激的な業務内容にも後ろ髪を引かれた。さらに、現実問題として博士号を取ったからといって就職口があるとも限らない。しかし、ここで学部生のときのように再び諦めたら一生後悔すると思い、最終的に次のステップに進む決断をした。

さて、留学を検討するにあたり、何をどこで勉強するかというのは重要な検討事項だろう。僕の場合は、すでに前職の経験から研究したいことはある程度決まっており、幸いなことにその分野で第一人者の先生と面識があった。さらに、ちょうどニューサウスウェールズ大学(以後、UNSW)で新たな奨学金のスキーム2が始まるというタイミングだったこともあり、それにチャレンジすることに目標を定め準備を進めた。

入学資格について。さきほど僕はオーストラリアの通信教育で修士号を取得したと書いたが、これは「コースワーク」という修士論文を書かず規定の科目を履修することで授与される修士号だった (Master by Coursework)。通常はこのコースワークだけでは博士課程進学の要件を満たさない3。他に、研究論文作成が中心となる修士課程もあり、Master by Research (MRes)やMaster of Philosophy (MPhil)と呼ばれる。マスターからはじめて途中でPhDにアップグレードするケースもある。

では、コースワークしかやっていない僕がどうして博士課程入学が認められたかというと、基本的には職歴換算だ。研究分野に関係がある仕事をしていたことに加え、短い実践報告ではあるが紀要に2本投稿していたことが幸いした。このように柔軟に対応してもらえる場合もあるので、簡単に諦めずに、まずはよく調べて、その上で希望の進学先に相談してみてはどうかと思う。オーストラリアの大学の門は拒むために閉ざされているのではなく、迎え入れるために広く開かれていると感じる。人種的にも言語的にも実に多様性があり、様々な人生経験を持った幅広い年齢の学生がいる。


2 Scientia PhD Scholarships (https://www.scientia.unsw.edu.au/scientia-phd-scholarships)。現在募集休止中。

3 ただし、コースワークでもリサーチ・プロジェクトでまとまった論文が課される場合、認められることもある。

オーストラリアの文系大学院生生活

Fig2. Faculty of Arts & Social Sciencesと満開のジャカランダ

もちろんどこの国でもそうだとは思うが、原則として授業がないオーストラリアの文系博士課程では、特に自己規律が求められるように思う。スーパーバイザーの指導の下、基本的に自分で粛々と研究を進めることになる。最初の1年目は文献調査を進めながら研究計画を練り上げることに費やされる。UNSWでは約1年が終了した時点でConfirmation of Candidatureという公開発表とパネルによる諮問があり、それをパスすることで晴れて博士候補生 (PhD Candidate)となる。それ以降は、年に1回、進捗状況確認のためレビューが行われるのみだ4。そんな調子であるので、自分で計画を立てて、着実に進めて行く必要があり、自己管理がとても重要になる。指導教官との面談の回数もひとそれぞれで、1ヶ月に1回は会うという学生もいれば、半年や1年に1回しか会わないというケースもある。自分から喰らい付いていく気概が必要だ。

博士課程では、もちろん博士論文というおそらく人生で一番大きな論文を書き上げるのが最大の山場ではあるが、試行錯誤も含めてトレーニングのプロセスだと感じる。ただでさえ大仕事である博士論文執筆。それに加えて母語ではない言葉で読み、書くという作業はとても時間がかかる。ワンパラグラフ書くのに何日も苦しむこともある。なんとか振り絞るように書いても、英文校閲が待っている。しかしそれはハンデであると同時に、深く考える糸口でもある。最終的には自分の研究力、つまり研究内容がしっかりしていて言いたいことがあることが大切になる。言語の問題を抜きにしても、研究は一筋縄では行かない。僕の場合はコロナ禍により、研究計画に大幅な変更が必要になった。もちろん落ち込むし、本当に自分にやりきれるのかと不安になることもしばしばだ。コロナは特殊な例かもしれないが、平時であっても研究は計画どおりに行くとは限らない。しかし、壁にぶち当たることが新しい知識を得る機会となったり、ブレイクスルーにつながったりするかもしれない。

このように、山あり谷ありの博士課程。そんなときには身を置く環境がとても大切になる。幸いなことにここシドニーは自然も多く、少し足を伸ばせばビーチや国立公園で気軽に気分転換ができる。空が青くて広い。人は優しく、食事もワインも美味しい。そして、学ぶことに対してとても間口が広い。一流の研究者が多く、学ぶ環境が整っている。何歳からでも学び直し、やり直すことを応援する土壌がある。資金面でも、いろいろな種類の奨学金があり、多くの留学生が何らかのサポートを得ている。自分には無理だと決めつけず可能性を探ってみて欲しい。きっと可能性が開けると思う。これから博士課程挑戦を検討されている方は、オーストラリアも視野に入れてみてはいかがだろうか。


4 進捗管理の方法は大学によっても異なる。例えばシドニー工科大学ではStage 1がUNSWのConfirmationに相当、これをパスするとデータ収集のステップとなる。そして、修了1年ほど前にStage 2という次の大きなマイルストーンあり、そこではデータ分析などもかなり進んである程度執筆できていることが確認される。これ以後、博士論文を書き上げる最終段階に入る。

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会(オーストラリアは34:03から)https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

中島 豊(ナカジマ ユタカ)
上智大学外国語学部ロシア語学科卒。ニューサウスウェールズ大学博士課程在学。

博士課程出願まで(学部生時代〜修士課程進学まで)

もともと中国の文化や文学、漢字や中華料理が大好きだった私は、2008年に創価大学法学部法律学科入学したあと、中国について研究するサークルである中国研究会に入部した。そこで中国の歴史や文化について理解を深め、大学3年次の2010年9月に、人生初の外国訪問ともなったが、1週間の日程で北京と天津をサークルのメンバーとともに訪問する機会を得た。これを機に大学4年次の2011年に休学し、北京外国語大学漢語学院に語学私費留学をした。この10ヶ月間は、中国語を学ぶほか合間を見ては中国の名所なども観光した。

そして、帰国後就職活動などをするが、その中でもっと学びたいと言う思いが強くなり大学院への進学を考える。しかし、そこから先のキャリアを考えたときになかなか大学院進学へ切り替えることはできなかった。卒業が近くなり大学院進学へ切り替えたのは、北京の語学留学で感じた北京という場所の居心地の良さともっと学びたいという私の中にあるどうしようもない思いがあったからだった。また、中国で国際関係を勉強することは、欧米で研究するよりもより近い距離で研究でき、かつ中国のことを深く知る中で研究できることが強みである。そして、2013年3月、創価大学法学部法律学科卒業後、大学院に向けての浪人生活に入った。

中国の大学院に進学するためには、まず、その授業を聴講できるだけの語学力を有することを証明する資格を取得しなければならない。私は創価大学卒業の時点で中国語の能力を有する客観的な資格を有していなかったために、創価大学を卒業した年の6月に漢語水平考試(HSK)6級を受験。300点満点中186点(合格ライン180点)で取得した。そして、それ以降は我が家の経済状況で大学院の学費を捻出することは不可能であるため、寮費、学費免除、生活費を支給される中国政府奨学金留学生としての修士課程留学を目指し、出願の準備に入った。

翌2014年2月に、中国政府奨学金留学生選考に出願。3月には同選考の書類審査合格の通知を受け取り、4月に日本における候補者を専攻する機関である文部科学省の庁舎にて面接試験を行い通過。7月には北京外国語大学国際関係学院修士課程より合格通知受け、8月に渡航し、人生で2回目の留学となる修士課程へ進学した。

博士課程出願まで(修士課程)

私が進学した当時、北京外国語大学国際関係学院修士課程は、3年課程であった(現在は欧米に倣い2年に変更)。2年間は授業があり、ここで文献を講読し授業内でプレゼン発表や学期末はレポート課題が課される。3年次は1年間論文執筆に充てられ、授業はない。字数は主に、中国語で3000字から8000字である。ちなみに中国の学部生が卒業論文で要求される字数は8000文字から1万字であり、修士論文は3万文字以上書くことが要求される。私は修士論文では、1972年の日中国交正常化にあたって影響を及ぼした人物や団体について研究し、2017年6月に修士課程を修了。修了後すぐに日本に帰国した。

Fig1. 周恩来総理や毛沢東主席も撮影した写真館の前で 2018年11月 北京・王府井にて

博士課程出願

当初は帰国後、日本での就職を考えていたが就職活動などをしていくうちに語学留学とは違い3年間北京で過ごしたことにより日本の生活には慣れず、また、そのような筐体で就職活動をしても結果は芳しくなかった。そうした中で私は3年間修士課程を過ごした北京の地に戻りたいという思いが強くなり、以前から興味があった外務省在外公館専門調査員採用試験に出願し、その年の10月に筆記試験を受験。筆記試験は合格したものの、その翌月の面接試験にて不合格。このときに私は、修士論文を短いと感じたことからも、もっと勉強しようと博士課程への進学を決めた。翌2018年1月に、2度目の中国政府奨学金留学生選考に出願。3月に書類審査合格の通知を受ける。今回は文部科学省ではなくお台場の国際交流館プラザ平成で面接試験を受け、4月、面接試験合格通知を受ける。5月、オンラインにて、現在の指導教官である黄大慧教授と面接した。黄先生と面接した経緯は、私が出願段階で提出した研究計画書に当初は現在の研究テーマとは違い1950年代の日中関係に多大な貢献をした郭沫若について研究したいと書いたことから、中国人民大学国際関係学院で博士論文の指導ができる教授の中で日本への留学経験もあり日中関係を専門としていることから面接することとなったというものであった。その翌月には文部科学省の通知を前に大学より直接合格の連絡を受け、8月に文部科学省を経由し合格通知の書面を正式に受領し、2度目の中国政府奨学金留学生として博士課程への留学が決まった。そして、9月5日に渡航し、博士課程に入学した。

中国の博士課程の生活

現在私の在籍する中国人民大学国際関係学院博士課程は4年過程で、1年目は授業を受ける。ここでは修士課程と同様にレポート課題や発表がある。博士課程は修士課程以上に学位論文の執筆がメインとなるために、博士課程では入学のときにある程度の学位論文のテーマを決めておく必要ある。そして、自分の研究テーマに沿ったレポートや発表をすることが要求される。また留学生は中国の規定に基づき、中国語の文章の書方の授業と中国文化、中国政治を学ぶ授業がある。

2年次の前期期末には、全学部共通で博士論文執筆能力があるかどうかを確認するために総合試験が課される。これは文献を提示されその範囲の中から質問を出され論述する試験と面接試験がある。これに合格しなければ博士学位論文を書くことはできない。私のいる大学では、留学生の場合論述試験は資料の持ち込みは可、面接試験では不可。もし答えられない場合は、別の質問がされる。

中国文系大学院博士課程進学のために、2年目の後半には正式に博士学位論文のテーマ設定を行い複数の教授陣による面接を受ける。本来は2年次の6月中であるが、今年は新型コロナウィルスの感染拡大の影響で10月〜11月に実施した。なお私のいる大学の博士課程では面接の際に研究計画書を作成するが、主要参考文献を含め中国語で6000文字以上書くことが要求される。3〜4年次は論文執筆がメインとなる。授業での単位取得を除く博士課程の修了要件学位論文(中国語で12万文字以上)を完成させ、かつ学術雑誌に2本以上の掲載である。2本とも最低8000文字以上で、掲載される雑誌の1冊は大学が指定する表に掲載の雑誌に掲載され、発表した2本の論文のうちの1本は個人で作成した論文でなくてはならない。この2つの条件を満たした場合、博士学位論文の口頭試問を受けることができ、口頭試問を合格することで博士号の学位が授与される。

Fig2. 中日外交史の授業にて発表 2019年5月30日 中国人民大学にて

中国文系大学院博士課程進学のために

中国の文系大学院に進学するには何と言ってもまずは、HSK6級を取得することが重要である。そして、しっかりテーマに関して事前に勉強することが、大学院での勉強−特に博士課程では重要である。特に博士課程では専門的な事項とともに基礎学力も要求されるために、専門分野に関する基本的な事項はマスターしておく必要がある。

最後に、私は中国政府奨学金で進学したが、同制度で留学を考えている場合に何が必要かということについて記しておきたい。まずは大量の書類の提出が要求されるので、しっかり募集要項を読み込み書類の準備に当たること。高校からの卒業証明、成績証明が必要になる。次に面接試験は主に中国語で行われるため、スピーキング力も大事になる。そして、希望大学は第3希望まで出せるが、希望通りにならないこともある。特に毎年、北京と上海は人気で、希望者が多い。

専攻中国政府奨学金で博士課程に進学する場合は修士課程と同じ専攻であることが要求される。

以上、中国文系大学院博士課程について書かせていただいたが、これを参考に修士後のキャリア設計に役立てていただければ幸いである。

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会(中国は1:04:08から)https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

伊藤 一城(イトウ カズシロ)
2013年3月創価大学法学部法律学科を卒業。2014年9月に中国政府奨学金留学生選考に合格し北京外国語大学国際関係学院に進学(国費留学)。2017年6月に同大学修士課程を修了。2018年中国政府奨学金留学生選考に合格し同制度を利用して中国人民大学国際関係学院博士課程に進学。

「日本とブラジルの言語・文化を理解した日本語教師になろう」と将来の夢を抱いたのは、高校2年生の時だった。私は、自動車産業が盛んな愛知県で生まれた。小学生の頃から、日本語が話せず困っているブラジル人のクラスメートが周りにいる環境で育った。この夢を叶えるため故郷を離れ、大阪で大学進学し、地球の反対側のブラジル・サンパウロ大学大学院の修士課程に進学した。日本に帰国して大阪大学で博士号取得後、現在は、日本国内の大学で留学生に日本語を教えながら、外国にルーツをもつ子どもの言語教育に関して国内外での研究に従事している。

ブラジルの大学院に進学を目指すに当たり、周りにブラジルの大学院に進学する人などおらず、大学院進学方法を見つけるのに多くの時間を費やした(合格した後分かったのだが、サンパウロ大学に正規大学院生として入学し、修士号を取得した日本人としては2人目だったそうだ)。今回講演を引き受け、また筆を執っているのは、少しでも私のようにブラジルの大学院進学を目指す人の役に立てばと思ったからである。

サンパウロ大学を選んだ理由

ブラジルの大学院で学ぼうと本格的に思ったのは、2008年9月からのリーマンショックの影響で多くの外国人が国に帰国した時期であった。学部生の頃から日本国内でブラジル人を中心に外国にルーツをもつ子どもたちに日本語支援や学習支援をしてきた。そのためブラジルに帰って行く子どもたちの教育、言語の問題は帰国後どうなってしまうのか心配になったのだ。そこで、ブラジルで日本から帰国した子どもたちの教育について研究しよう、将来両国のかけはしとなる人材になりたいと思いブラジルの大学院進学を目指すようになった。

サンパウロ大学(Universidade de São Paulo)は1934年設立された南米の難関大学の一つである。大統領など各分野の要人を輩出している。

サンパウロ大学を選んだの理由は大きく3つある。

①フィールドとしてサンパウロは世界一の日系人人口であること

②サンパウロ大学は当時南米トップの大学で、日本語分野でもブラジルの中で最も古く優秀な大学であること

③先行研究を読む中で、サンパウロ大学の先生の論文・研究に興味をもったこと

自分からサンパウロ大学の先生にコンタクトを取り、半年間の研究生を経て、大学院入試に挑戦した(ポルトガル語・英語筆記、面接)。大学院進学する際には自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかは日本・ブラジルの場所を問わず重要である。

サンパウロ大学の大学院(日本語・日本文化・日本文学専攻)への出願での主な必要書類は、研究計画書、外国語の試験(日本語や英語)である。日本人(外国人)の場合は、外国語の試験は日本語ではなく英語が必須で、さらにポルトガル語試験(ポルトガル語能力試験)も必要である。最新情報は公式HPを参考にされたい。

サンパウロ大学の良さ

次に、サンパウロ大学に入学して、良かったことを2点あげる。

①福利厚生が充実していること

まず、ブラジルの大学は国立大学なら学費が無料である。これは外国人にも適応される。今振り返ってみても無料で高レベルの教育を受けることができたのはとても幸せなことであったと思う。学食は、政府からの補助があり、2レアル(約100円)で食べることができた。学内と最寄り駅を繋ぐスクールバスも無料で乗れる。広大な敷地には学部ごとに付属図書館があり学習する環境が整っている。メインキャンパス内に日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)が併設されている。日本文化センター内の図書館には日本語の図書が多数所蔵されており、その他先生方の研究室や日本語・茶道・華道の公開講座が開講されている。私は国内外でいくつかの大学に留学したり、所属したりしてきたが、今の所福利厚生面でサンパウロ大学を超える大学は出会ったことがない。

Fig1.日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)

②南米有数の教員・学生のレベルの高さ

日本語・日本文学・日本文化専攻の教員陣は、ポルトガル語、日本語、英語を操るバイリンガル、マルチリンガルである。また、半期に一度日本から客員教員を招き、直接授業を受講できた。日本では受講が難しい著名な先生の講義をむしろブラジルで受講できたことは大きな財産となったと感じている。

サンパウロ大学の大学院生活

サンパウロ大学院時代の生活について授業、研究、課外活動の3点に分けて述べたいと思う。

①授業

1コマは驚きの4時間であった。ノンストップで続く白熱の議論についていくのは簡単なことではなかった。授業についていくのが大変な時、現地人の友人が沢山助けてくれたことは今でも感謝している。留学を充実させるポイントとして、何でも話せ相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ることは大変重要である。また外国にルーツをもつ子どもたちの大変さを自分自身も実体験できたことは、現在の職においても糧になっていると感じている。

研究

研究費の面では、返済不要のブラジル政府の奨学生CAPES(Coordination for Improvement of Higher Education Personal:日本学術振興会特別研究員DC1相当)に選出されたことが大きかった。

研究の手法はライフストーリーだったので、理系のように研究室に籠るわけではなく、研究協力者を探し、信頼関係をつくりながらインタビューしていった。インタビューデータの文字起こしをし、分析、論文執筆というサイクルで生活していた。

最も大変だったのは、ポルトガル語での学会発表であった。指導教官に毎週ご指導いただいたことは今でも感謝している。また、修士論文の一部を国際学会で発表する機会を与えていただく幸運にも恵まれた。初めて日本語で学会発表をしたのだが、優秀発表賞を受賞できたことは異国の地で研究してきたすべてが報われ、支えてくださった多くの方々に恩返しをできたのではと感じている。  

課外活動

国際交流のサークル立ち上げ、ブラジル人や多国籍な仲間たちとポルトガル語・英語・韓国語の3か国語を駆使しながら活動をした日々のお陰で、語学力だけでなく人と人をつなげる能力も伸ばすことができたと感じている。異国・異文化での困難を乗り越える秘訣は、「うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる」、「感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る」ことだと常々考えている。そのためには、文化の違いを「笑える」力も重要だと思う。ブラジル留学生活で一番学んだことは「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」というブラジル人の気質である。物事が思い通り、計画通りに行かないときも、臨機応変に「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」と二度と戻ってこないその瞬間を楽しむ心の大切さを教えていただいた。

Fig2.サンパウロの旧市街にあるセー広場の大聖堂

卒業後のキャリア

サンパウロ大学で修士号を取得した後に日本に帰国した。サンパウロ大学で修士号を取ったことを進学や就職など大切な場面で評価していただいたと感じている。これは、南米トップのサンパウロ大学卒という学歴面だけではなく、そこで培ってきたバイタリティ―、忍耐力を認めていただくことができたと理解している。また、人との出会いとつながりのありがたさも感じている。現在でもブラジルをフィールドとし国際交流基金、JICAなどと共同研究ができている。また、国内では地元をフィールドに科学研究費を受領しながら研究を行い、研究を通して夢が叶いつつあるのを実感している。

まとめ

上記のポイントを以下の3つにまとめる。

①大学院進学:自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかが重要。

②留学を充実させるポイント:何でも話せる・相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ろう。

③異国・異文化での困難を乗り越える秘訣:うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる。感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る。Vai dar Certo(なんとかなるよ!)

最後に、修士論文の一節をメッセージとして記し、筆を置こうと思う。少しでも読者のお役に立ったのであれば幸いである。

O caminho do sucesso é um caminho em que você tem que agir até o fim, enquanto enfrenta problemas, aprende, e se torna habilidoso em como ser bem sucedido. Você atinge sucesso ao vivenciar provações e erros nesse caminho, sofrendo, aprendendo e percebendo como ser bem sucedido; e agindo.

成功の道は、進みながら成功することにぶつかって、学び、有能になっていきながら最後までしなければならない。成功に行く過程で試行錯誤を経て、苦労し、自分が会得しながら、成功する方法を悟って行うようになることで、成功するようになる

出典:Sayaka Izawa (2015) O percurso escolar dos filhos de decasséguis brasileiros retornados. Biblioteca Digital USP. URL: https://www.teses.usp.br/teses/disponiveis/8/8157/tde-19102015-130134/pt-br.php (2020/12/24アクセス確認)

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会 (ブラジルは10:01から) https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

伊澤 明香(イザワ サヤカ)
大阪経済法科大学 教養部 助教。大阪大学 外国語学部を卒業後、グローバル企業でのポルトガル語通訳を経てブラジル・サンパウロ大学 大学院 哲学・文学・人文科学(東洋文学)研究科 日本語・日本文学・日本文化専攻で修士号を取得。帰国後、大阪大学で博士号を取得。

この記事では、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校比較文学科博士課程に留学中の阿部幸大さんからの寄稿「ジャーナルと擬態をお届けする。

このたび、「人文系のアメリカ大学院留学」というタイトルで、東京大学の学生むけにオンラインで講演させていただいた。2020年7月、コロナウィルスの猛威がいまだ収束せざる状況下で開催された説明会であったが、オンライン化のおかげで米国からの登壇が可能となったうえ、会場での開催には足を運びえなかったであろう聴衆にも届いたようだ。

私が経験的に知るかぎりでは、ネット上で収集可能な情報と、そこで喋った内容を踏まえれば、留学に必要な情報はかなりの部分まで網羅できると思われる。その講演内容はYouTubeにUPされている。

本稿は上記のイベントを受けての寄稿である。お題が自由なので、何を書いたものか悩んだが、講演では「海外ジャーナルに投稿しましょう」とだけ言って終わったから、そのことについて具体的かつプラクティカルな話をして、最後に日本人がアメリカに留学することの歴史的な意味という話に繋げたい。

私の専門は文学、ひろくは文化研究であることを、はじめにおことわりしておく。私の留学先はアメリカなので、しばしば「海外」と「英語圏」と「アメリカ」は混同されるが、ご容赦いただきたい。

1.ジャーナル「を」勉強する

日本と異なり、英語圏のジャーナルは、プロのテニュア教員たちが最先端の議論を闘わせるフィールドとして機能している。いかに有名になろうとも、そこでは匿名の査読をクリアしなくては論文を出版することはできない(書籍は事情が違う)。だから超有名な学者の論文も容赦なくリジェクトされるし、たとえば、のちに圧倒的な影響力をもつことになる論文の多くが、最初の投稿先には落とされているという調査もある。

そういうわけだから、英語圏の学術的な動向を知るためには、書籍だけでなくジャーナルを知ることが欠かせない。ではジャーナルを知るとは、ジャーナル「を」勉強するとは、いったいどういうことか?

それはまずジャーナルの名前を覚えるところから始まる。そのための方法を思いつくままに列挙してみよう──

  • Johns Hopkins, Dukeなど、ジャーナルを大量に出している大学出版のjournalsのリストを眺める
  • 「専門分野名 journals」などでググって、当該分野のジャーナルをリスト化しているページを探す
  • 多産な研究者のCV(履歴書)の論文欄を見て、どのジャーナルに掲載されているか見る
  • 手持ちの論文の引用文献一覧からジャーナル論文をピックアップし、媒体を確認する
  • 掲示板サイトFandomでHumanities Journals Wikiの口コミを見る(内容はあまり信用できないので注意)

こうして徐々にジャーナルに親しんでゆけば、そのうち、分野のトップ・準トップジャーナルはどれか、自分はどのジャーナルにとくに興味がありそうか、誰がどこに何本くらい載せていて、それはどれくらいのバリューがある業績なのか、などが見えてくる。ゆくゆくは投稿したい憧れのジャーナルもマークしておきたい。

もうひとつの効用は、そもそも英語圏では研究がどのように細かくジャンル分けされて認知されていて、自分のやりたい研究の方法・内容における著名な学者は誰なのか、どんな話題がさかんに議論されているのか、といった感度が養われることだ。この結果、「自分はこういう研究がやりたかったんだ!」という発見もあるだろう。

数値的な目安としては、誌名だけでなく「あー、あの論文が載ったあのジャーナルね」というレベルで反応できる媒体が20誌くらいになってくれば、けっこう良い感じだと思う。

そしてお気に入りのジャーナルが見つかったら、トップジャーナル群にくわえ、新ナンバーが出るたびにそれらの目次をチェックするようにしよう(できればアブストラクトにも目を通したい)。また多くのジャーナルは書評を掲載しているので、その選書を追えば、その分野における著書単位の研究にも、それなりに触れておくことができる。

もちろん、以上は留学しなくても可能な勉強である。が、講演でも述べたように、私の専門分野では最大の論文データベースであるProject MUSEへのアクセスを、ほとんどの日本の大学が購入していない。必要な数本の論文だけ買うという対処法もあるとはいえ、全文を通読する論文だけを入手できれば十分というわけではないのだ。

この場を借りて言っておきたいが、MUSEやJSTORをはじめ、主要データベースに自由にアクセスできない環境での人文学研究など、ありえない・オブ・ありえない。事態はきわめて深刻であり、大学教員は徒党を組んでアクションを起こすべきである。

2.ジャーナル「で」勉強する

お気づきかと思うが、ジャーナル「を」勉強することは、すでにジャーナル「で」勉強することと地続きである。以下ではさらにジャーナル「で」勉強、ジャーナル「を使って」勉強する方法について述べたい。

その方法は簡単で、ジャーナルに論文を提出(サブミット)すればよい

まず最初に確認しておきたいのは、英語圏のジャーナルのほとんどは学会への入会などの必要がないという事実である。体裁さえ整えれば、ポータルにアカウントを作ってUPするか、あるいはメールに添付するだけで完了である。〆切もなく、いつでも受け付けている。学生に会費を払わせている日本の諸学会も、ぜひそうすべきだ。

提出後の流れも日本とは(おそらく)異なる。おおむね以下の5つのルートになる。

  • 編集部ですぐに不採用が決定される(デスク・リジェクション)①
  • 編集部でOKが出て、匿名の査読者(だいたい2名)に回った結果、
    •  査読者の両方あるいは片方が否定的なコメントで、リジェクト②
    •  査読者がどちらも好意的なコメントで、改稿・再提出(Revise & Resubmit/R&R)③
  • コメントを受けて直した論文に査読者がNGを出し、リジェクト④
  • 査読者がOKを出し、編集部の確認を経て、アクセプト⑤

ここで猛烈に勉強になるのは、査読者から送られてくるReader’s Reportと呼ばれるコメントである。これは多くの場合、概観と細部のコメントに分かれていて、査読者につき数千語の詳細なコメントをくれることが多い。その性質上、彼らは論文が抱える問題点と改善の方法を教えてくれる。

これは編集部がポンコツでないかぎり、論文の内容を吟味したうえで選出された適切な査読者──そのトピックのプロ──によるコメントであるから、彼らの意見は世界で一番信用できると言っても過言ではない(じっさい採否は彼らの判断にかかっているのだ)。最終的にリジェクトになるかもしれないが、「査読者が何を言うか」から学べることは計り知れない。

ここでいくつか補足がある。まず、すでに述べたように、教員が院生を評価する教育の場である日本のジャーナルと比べて、研究の場である英語圏のジャーナルの採用基準はダンチで厳しい。早い話、そこでは全員が対等なプロとして振る舞うことを要求されるわけだ。日本の査読が一方向的な「評価」なら、英語圏のR&Rは「対話」であると言える。

これは一般論にすぎないが、もしあなたの専門分野における日本国内の主要誌が英語論文を受け付けているのなら、まずはそこに確実にアクセプトされる実力をつけることが、海外ジャーナル挑戦の必要条件になると考えていい。ではどんなところに出せばいいのか。

まず最初に投稿を検討すべきなのは、さほど有名でなく、あまり歴史が古くなくて、誌名がspecificな専門分野に特化(たとえば文学研究なら作家の名前が入っているとか)したジャーナル、すなわち投稿数が少なくて採択率が高そうなところに出すことだ。そうしたジャーナルはだいたいサブミット数が少なくて困っているので(年間20本くらい)、とりあえず査読に回してくれる可能性も、査読をうけて「まぁ直させてみるか」と判断してくれる可能性も高くなる。ちなみにトップジャーナルの相場は年間の投稿が300本、採択数は10%くらいである。

繰り返すが、英語圏のジャーナルはサブミットのハードルだけは非常に低いので、とりあえず渾身の1本が書けたら、お試しでも出してみることを大いに推奨したい。そして、落とされてもメゲてはいけない。リジェクトは当たり前である。

私の場合は、留学1年目の期末レポートである村上春樹についての論文を、素人の恐るべき大胆さで日本研究のトップジャーナルであるJournal of Japanese Studiesに提出した。いま思えばデスクリジェクション必至の出来だったが、それは幸運にも査読のうえでリジェクトになり、コメントをもらうことができた(他誌だったら即アウトだったろう)。そのコメントはきわめて長大であり、その後の留学生活にとって貴重な経験になった。そういうこともあるので、とにかく出してみよう。

「デメリット」と呼べるかどうかわからないが、英語圏ジャーナルのツラいところは時間がかかることである。人文系ではサブミットから(アクセプトまでではなく)プリントまで2年ほどかかるのが普通で、大幅な改稿を要求されることも多いので、持久戦を覚悟せねばならない。これだと就活に間に合わない院生もいると思うので、その意味でもやはり国内の業績は早めに作っておきたい。

以上の記述を読んで、「そもそも国内誌の業績もないのに、海外ジャーナルなんて……」と思った人もいると思う。私も留学当初は論文の書き方が皆目わからず、俺アメリカに5年留学して国内誌に1本も通せず帰国すんじゃね??という恐怖に襲われ、留学先で授業期間にもかかわらず国内誌の論文をDLして50本ほど読み漁るという愚行に走り、「どうすれば自分にこれが書けるのか」と頭を抱える日々を送っていた。

そこからの脱却に成功した要因は複数あるのだが、そのひとつは、自分の10歩先にある国内の査読誌「だけ」見るのではなく、100歩先にあるアメリカのジャーナルを視野に入れて日本のアカデミアごと相対化してしまう発想の転換だったように思う。つまり国内の業績がなくても、海外ジャーナルはあなたと無縁ではないということだ。意識ひとつで書く文章は劇的に変わることがある。そのことを忘れないでほしい。

3.おわりに──敗戦国の擬態戦略

わざわざアメリカに留学する日本人はアメリカが学問の本場だからそうするわけで、日米間には歴然とした格差がある。だが、アメリカの良いところを学んで日本に持ち帰る、という発想ではもったいない。せっかく何年も留学するのだから、アメリカで思いきり成功するつもりで乗り込もう。そのためには、上述のように日本を相対化し、いったんアメリカナイズされる必要があるように思われる。

それはアメリカ中心主義や英語帝国主義への加担なのだろうか? 私はそうは思わない。すこし長い引用になるが、哲学者の千葉雅也は以下のように述べている──

海外の査読ジャーナルに日本人が(人文社会系の)英語論文を発表しなければならないというプレッシャーは、もうしばらく前から普通になっています。そうしたコミットメントを同時にやりながらも、グローバル・アカデミアの規矩に身を合わせるというよりも、日本で行われてきた論理形成のスタイルに興味を持ってもらえるように工夫していく必要があります。そもそも日本における西洋的コンテンツの「倒錯的」な変形に対しては、残念ながら、なかなか興味を持ってもらえないものなのです。やはりこの国は(戦争に)負けた国なのであって、その自覚において今後を考えなければならない。負けた国であり後進国なのだから、英語圏の基準に沿って、せめてもの貢献として「身のほどをわきまえた仕事」をするというのもひとつの立場だけれども、もっともっと打って出ていいと思うのです。
(『意味がない無意味』所収「緊張したゆるみを持つ言説のために」214-15頁)

人文学徒はこの挑発的な文章をぜひ全文読んでほしいのだが、ともあれ、ここで表明されているのは「グローバル・アカデミア」の眼中にない日本という現状を冷徹に見据えるリアリズムであり、そのうえでのストラテジーである。格差を前提として、マジョリティ(宗主国)のヘゲモニーを模倣しながらも完全には同一化しないクリティカルなふるまいを、ポストコロニアル理論家のホミ・バーバは擬態と呼んだ。千葉も「蝕む」という言葉で、近いことを言っている。

アメリカ中心主義も英語帝国主義もたしかに存在し、それらは問題だが、アメリカの劣化コピーに甘んじる態度も、あるいは世界から無視されながら日本の伝統を守る鎖国的な活動も、それへの批判としては機能しないように思われる。むしろ戦勝国のオーラを纏って国内のアカデミック・ポストに凱旋する手段としてしか留学を活用できない現状こそが、格差を温存しているのではなかろうか。

ともあれ、結論はこうである。アメリカの視点から日本を相対化するのと同時に、日本の視点からアメリカを相対化しなくてはならない。それを達成するためにこそ、いったんアメリカ化を経る必要があると思うのだ。それは敗戦国の擬態戦略の、ひとつのプロセスである。

肯定的な意味で「グローバル」と呼べる地平は、その先にこそ広がっている。これから留学を目指す若き才能たちは、そこで縦横無尽に活躍できる可能性をそれぞれに秘めているのだ。

阿部幸大 (アベ コウダイ)
ニューヨーク州立大学博士課程
比較文学

東京大学現代文芸論にて2012年に学士を、14年に修士を取得。日本学術振興会特別研究員(DC1)として東京大学英文科に在籍したのち、17年からフルブライト奨学生としてニューヨーク州立大学ビンガムトン校の比較文学科に留学。フルブライト記念財団・吉田育英会奨学生(2019-20)ならびに日本学術支援機構海外留学支援制度奨学生(2019-22)。

この記事では、英国と日本の両大学院での修士号取得を目指されている森江建斗さんの「ダブル・マスター」についての情報をお届けしています。前号「出願までの意思決定」に続き、今回は出願プロセスについて紹介します。

出願プロセスとタイムライン

 出願の過程については、述べたとおりLSEしか出願をしていないので、LSEの場合(しかもDepartment of International Relations)しか記すことができないので大変恐縮だが、あくまで一人の体験として出願のタイムラインの概要を記述しておく。

1)出願時期

 英国の出願は、一般的には、rolling application systemといって、アプリケーション・フォームが開設され次第、アプリケーションが可能で、出願が提出された順番に審査にかけられる。1月の中旬から下旬に第一回の結果発表があり、それより前に(実際には審査される時間を含めて十分前に)提出された出願の中から合格/保留/不合格が発表され、その後随時コースの定員が埋められていく(詳しい出願の情報は、各大学やコースのHPや該当する先輩方のブログ記事などを確認していただきたい)。英国ではオックスブリッジやロンドン大学のような人気の大学では、学部にもよるが、4月には多くのコースの定員が埋まり切るらしい。私の学部では、12月上旬にはそのアプリケーション・フォームが開設されるため、12月中旬(10~15日あたり)を目処に準備を進めた。12月15日までとしているのはあくまでも目安だが、英国の大学の試験官がクリスマス休暇を取る前に出願を大学に送り込むというイメージだ。

2) 出願書類と各スケジュール

 まず簡単に必要な出願書類について、言及し、それぞれの特性と準備のための各スケジュールを論じる。英国の修士課程への出願に必要な書類は一般的に、大学の成績、TOEFLやIELTSの英語スコア、推薦状、志望動機書(Statement of Purpose: 以下SoP)、CV(履歴書)である。多くの先輩方が指摘するようにSoPが最も重要で、次に推薦状、そしてその他の書類となる。従って、重要度の高いものから順番に論じていく。

i. 志望動機書(SoP)

 LSEの私が出願した学部では、1,500 WordかつA4で2ページ以内という制限があった。この字数制限で1,400 word以上書き、フォント12で通常の余白の設定の場合、上手くA42ページで収まらないことも多いので、フォントや余白の調整といったアウトラインから工夫を行った(フォントは10.5以上が目安だろう)。こうした工夫は、LSEを含め英国の大学院へと進学をされた先輩方のSoPを見せてもらいながら学んだ。次に内容についてだが、具体的かつ個別的であることが求められる。具体的な書き方について細かく書くことは紙面の都合で難しいが、「なぜあなたがその大学のコースで学びたいのか」、「なぜコースのトピックに関心があるのか」、そして「仮に希望のコースで学ぶことになったとして、どのように修士課程の間過ごすのか」という問いを終始意識しながら、試験官に試験管に出願者が有意義に修士課程を過ごせそうだと具体的に想像させることができれば、良いSoPということになる。

 私のスケジュール感について言えば、下書きとなるような文章は箇条書き程度にまとめて9月下旬頃にはつくり、推薦状を書いてくださる先生にも送っておいた。それは、推薦状を書いてもらう際に、参考になると考えたためで、またそれがSoPを書く上で適度なペースメーカーとなった。10月下旬までにはLSEのための自己ストーリを用意し、専門的な研究内容や大学院で問いたい問いや手法については、卒業論文の研究を進めながら深化させた。こうした背景には、2年間の米国の修士課程とは異なり、英国の1年の修士課程は、より具体的な研究テーマや処理可能な問いの大きさが求められるというアドバイスを受けたものだ。

 そして11月1ヶ月を使って、1,500 wordsのSoPを推敲に推敲を重ねた。細かな変更を含めておそらく50回ほど推敲を行ったが、大まかに4つのプロセスを経て、SoPに磨きをかけた。①英会話レッスンを利用した添削(少し禁じ手かもしれないが、IELTSのスピーキングで仲良くなった講師の先生に簡単な文法や語法のミスを確認してもらった)、②英国の大学院に進学した先輩方からの大まかな全体構想や論理構造についてのアドバイス、③ネイティブの友人によるより細かな文法ミスや単語/表現のニュアンスのチェック、④大学の教授や推薦状を書いて頂く先生によるアカデミアの人間からの客観的な最終のフィードバックという順番で、お世話になった。私の場合は、本当に恵まれすぎていたと振り返り感じる。添削サービスなどもあるので、もし金銭的に余裕があれば、利用してもいいだろう。

ii. 推薦状

 一般的には2通、多いところ(例えばオックスブリッジ)で3通まで提出が可能である。よく言われるように、推薦を頂く先生が希望する大学のOBOGや教授職、もしくは有名大学の教授だといいとされるが、実際にはそうした「知名度」や「地位」にも増して、出願者のことを知っているかがより重要とされる(もちろん前者の性質が後者の前提に加えて伴うと「強い」推薦状となるのは間違いないが)。「出願者を知っている」の定義としては、一学期以上のセミナーなどの少人数ゼミの受講や指導教員という立場が、最も説得性が高いと考えられ、従って、少なくとも1通はそうした先生から推薦をもらえるようにするといいだろう(実務よりの修士課程、たとえばMBAなどであれば、指導教官よりも職場の上司の方がいいなどの例外はもちろんあるが)。

 推薦状を書いて頂くにあたって、私が重要だと考えたことは、①自身の専門性の有無や程度を評価してもらうこと、②英語の運用力を評価してもらうこと、③人柄を評価してもらうこと、であり、①と③は多くの場合指導教員やゼミの先生が評価をする立場にあるだろう。一方で、②の評価を公平に下してもらうためにはどうすればよいかと考え、2人目の推薦状執筆者を探した。候補としては、(a)オックスフォード大学のサマースクールの先生、(b)オランダの留学先の先生、(c)4年生後期に受講していた英語授業の先生(京都にあるスタンフォード・センターというスタンフォード大学の海外機関)の3名で、そのなかで直近の自分を最も知り、また直接お願いしやすい状況にあるとし(c)の先生にお願いした。

 推薦状をお願いするタイミングとしては、余裕をもって出願から1ヶ月から1ヶ月半以上前にお願いすることが重要だ。またその際にはSoPの下書きやCVなど同封することで、出願者の進学の意志やモチベーション、能力などについて、アピールすることも重要だろう(もちろん、それが推薦状に盛り込まれるかは定かではないが)。

iii. 大学の成績、TOEFLやIELTSの英語スコア

 これらの書類で規定のスコアや成績を満たすことは、英国の受験において最低限必要なことではあるが、合格のための重要条件ではない(例えば英語力については、Conditional Offerという形で留学開始までに必要な英語スコアを取り直すかプレ・マスターコースというアカデミック・イングリッシュ用のコースを留学前の夏休みの約1ヶ月履修することなどを合格条件とする場合もある)。大学の成績については、ロンドン大学系列では一般的にはGPA3.6/4.0が基準として求められ、オックスフォードではGPA3.6以上が応募者の多数派になるという(ただし例外もしばしば聞くのであくまで目安であろう)。海外大学院への進学に関心のある読者の方は、学部時代からの成績に気をつけておくべきだろう(また社会人で海外修士に挑戦される方が学部時代のGPAでトップ校への出願を躊躇されるという話をしばしば聞くが、そうしたことも踏まえて、学部時代からの準備が大切かもしれない)。私がGPAや成績について悩んだことは、オランダ留学時代に異なる専門分野の授業を履修し、挑戦心から敢えて最終学年のゼミを受けた結果、留学時代の成績が芳しくなかったことだ。これについては、京都大学への単位変換を敢えて行わずに、京都大学での成績だけの提出を試みたが、SoPやCVに留学先を記述するとやはりそうした留学先の成績表の提出も求められたので、追加で提出した。この成績が、プラスとなったのか、マイナスとなったのかはわからないが、少なくとも交換留学に挑戦し、英語の環境でも約一年間生き残れたという証明にはなったのではないかと思う。

 英語のスコアについては、各大学のコースのアプリケーションの欄に必要スコアが記載されている。勉強法などについては、多くのブログなどの記事があるので、そちらに譲る。ただし、IELTSなどの教材は高いため、大学の図書館の利用(過去問集など)や、リスニングはYoutubeを利用、スピーキングはDMMなどのオンライン英会話を利用したとだけ、簡単に述べておく。

Fig1. LSEのOld Buildingの入り口にて

奨学金と京都大学大学院への進学の決意

 実用的な知識よりも、より根本的に社会のあり方を問えるような研究を行いたいという思いもあり、4年生の秋の時期には変な意地があったのであろうか、自分の研究を非常に「わかりにくく」説明して、奨学金へ応募したことで、多くの奨学金の獲得を逃した。LSEの合格を受け取った4年生の1月中旬(学部卒業まであと2ヶ月)でも奨学金は獲得できておらず、少し気がかりだった。その頃には、卒業論文を書き終え、研究のリテラシーが向上したのだろうか、その頃から、京都大学を含めた日本の大学で行われている研究が、面白いと再度認識できるようになった(それまではなぜ面白いのか、アカデミックな意味で理解できていなかったのだ)。そこで、京大の大学院にまずは進学して、LSEの留学までの期間を過ごそうと決意し、2月に無事大学院合格を果たした。

 そして、ちょうどその頃に、「トビタテ留学JAPAN」の応募があり、自分がその出願の資格があることを知る。条件として、日本の大学に所属し、帰国後にその大学を卒業することが条件だが、奨学金がなかったこともあり、なんとか出願してみようと考えた。

「トビタテ留学JAPAN」の応募で一番ネックになったのは、どのように自分の研究と実践活動(と呼ばれる実務的な課外活動)を関連付けるのか、そしてただでさえ忙しいと噂のLSEでの修士課程でどのようにして実践活動のための時間を捻出できるのかという問題だった(実際正規修士課程で同奨学金を利用されている方の多くは「理系」の方で、ラボでのインターンを実務活動に当てている印象があった)。たとえ計画書の上では上手くいきそうでも、現実としてどの程度ロンドンで実行できるかは不安だったからだ。しかしそれでもなんとか同奨学金に採用され、LSE留学の一部の資金を賄うことができた(残りは、家族からの支援)。そして英国留学では、研究+アルファを達成するための準備がはじまった。次回は、LSE留学時代とその後について書く。

Fig2. フロイト博物館前にて

次号へつづく。。。

森江建斗 (モリエ ケント)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)
MSc International Relations Theory
京都大学 人間環境学研究科修士課程

はじめに

 ニュースレターの読者の皆様、はじめまして。2018年9月から2019年9月までの約1年間、英国のLondon School of Economics and Political Science (以下LSE)にて、MSc International Relations Theoryという修士課程に在籍していました。そして、現在は京都大学人間環境学研究科修士課程にて2つ目の修士号の獲得を目指しています。このニュースレターでは、米国への大学院(修士・博士課程)進学をされた方の経験談が多いとは思いますが、いわゆる「文系」とされる分野でも、英国や日本での修士号を組み合わせて、研究の計画を立ててみることも可能なのだという参考になれば幸いです。また、こうした少し変わった経歴を踏むことになった経緯や意思決定の背景についても、簡単に述べられればと思います。

 本記事は、あくまで個人的な価値観・考え方を反映した記事です。また後から振り返り論理性や一貫性を「作り」きれいに見せるよりも、各時期に何を感じながら(多くは悩みながら)どのように意思決定を下していったのかが伝わるように少し叙述的に書きました。その点を踏まえて出願準備や海外留学中の合間にご笑覧頂ければ幸いです。

海外修士課程への挑戦を決まるまで

 英国の大学院進学に関心を抱いたのは、早く見積もれば大学2年生のオックスフォード大学でのサマースクールへの参加し、はじめて海外の教授から自らの専門分野を学んだことがきっかけであった。最終的に出願を決意したのは、4年生の春(4~5月)である。その頃私は就職するのか、それとも内定を断るのかという岐路に立たされていた。当時、オランダのユトレヒト大学に交換留学していたが、4月のロンドンキャリアフォーラムで運良く内定を頂き、就職か進学かという選択の淵に立つことになった。多方面で先輩・先生方に相談しながら、自分の進路について、1ヶ月(内定受諾か否かの返事の期限)悩んだ末に、大学院の進学を決め、今回の内定は断ることにした。

就職か海外大学院進学か

 就職か海外大学進学かを選ぶ際、決め手になった観点について、簡単に記しておきたい。最も大きかったのは、いま関心のあるテーマを深めたいという欲求であった。そしてせっかく修士課程に進むのなら、その分野で最先端の国で学んでみたいと、オックスフォード時代やユトレヒト留学を思い返しながら考えた(この時点では国内大学院への進学はあまり考えていなかったが、それは前述した海外での経験から、専門分野を海外で学んでみたいという気持ちが強かったためである)。多くの人が悩むであろう点は、一旦社会人になってから(海外)大学院に進学するか、そのまま学部卒業の後に(海外)大学院に進学するかであろう。この問いに対して、私は、前者のキャリアは可能なものの、それは実務的なキャリア(例えばビジネスにおけるキャリアアップや国際機関での勤務)を踏まえた内容の海外修士号の取得に限られがちではないかという考えを持つに至った。今現状で有している学術的な問いや視点を大切にしつつそれをそのまま深めていきたい場合、実際に社会経験を積み実務的な専門性を身に着けた上で学び直すという選択肢よりも、学部卒業後に直接大学院進学するほうが、当時の自分には魅力的に映ったのだ。

留学先の国選び

 次に、どこの国のどの大学に出願するかの判断軸について書きたい。まず、修士課程の制度は国によって大きく異なる。例えば、私の分野である国際関係学では、米国や大陸ヨーロッパ、アジアの大学の多くは2年間の修士課程となる一方、英国やオランダは1年の修士課程が主流で2年の修士課程は少数である。(2年のものの多くはResearch Masterで、1年制のコースワークに加え、米国で受けるとされるメソドロジー(量的分析と質的分析など)を受講する他、2年でゆっくりと修士論文を計画するもので、多くの場合はPhDへ進むための予備期間と見なされる)。その他にも、2大学での修士課程を2年(各大学1年)で完了させるDouble Degree Programも存在する。Double Degree Programは私が進学したLSEにも用意されていたためそちらにも大変関心があった。

 どの程度の海外大学院進学者の方々がどれほど広範な視野を以て論理的に意思決定を下すのかわからないが、私の場合は、それほど包括的にあらゆる選択肢を検討したわけではなかった。例えば、米国に関しては、出願のための準備(試験なども含む)が多く、卒業論文にも注力したかった自分にとって魅力的に映らなかった。 

 そうした消極的な背景に加えて、同じゼミの先輩が2年連続でLSEへ進学していたこと、また夏から本格的にはじめた卒業論文の研究が英国で盛んであることに気付いたことで、私の留学候補先は次第に英国に決まっていった。また、英国は米国と比べて必要な出願資料・要件が少なく、比較的出願に労力を割かれずに済むということも、その決断の後押しをした。

Fig1. バスの2階席より、通学風景

大学選びとコース選び

 そうして夏頃には出願を英国に絞り、オランダ留学より帰国した。次にどの大学へ出願するのかという問題に直面したが、ここは比較的スムーズに決定した。結論から言えば実際に出願したのはLSEのみで、他に「滑り止め」は何も受けなかった。それは、おそらく前述のオックスフォード大学のサマースクールの教授が修士課程でLSEを出ていたこと、身近な先輩・先生方からの影響、そして卒業論文で頻繁に引用していたGeorge Lawson先生やBarry Buzan先生(現在は名誉教授で教鞭は取っていない)がLSEで教鞭を取っていたことなどが、絡み合って、LSEしかないと思っていたのだ。LSEには、私の求めている知的土壌が存在したのだ。LSEに行けなければ英国留学しないと、半ば頑固に決めつけていた節があった。

 大学選びがスムーズに進んだ一方で、どのコースに出願するのかということに関しては大変悩んだ。悩み方としては、①やはり1年は修士課程として短いのではないか、(そこから派生して)②2年間のReserach MasterやDouble Degree Programに応募するのか、それとも③様子を見る形で一旦1年間のTaught Master(1年間でコースワークが中心となるがコース終了後には修論執筆もする「盛り沢山な」コース。英国では一般的)に出願するべきか、という悩みであった。一般に英国の1年間のTaught Masterに出願する場合、修士課程終了後にすぐに就職を目指すのであれば早い人であれば修士課程に入ったばかりの11月のボストンキャリアフォーラムを、遅い人でも3月のロンドンキャリアフォーラムを目指すと聞いていた。そもそも卒業後にすぐ就職するのかも当時決めておらず、自分の研究を深めたいのに就職活動に時間取られては意味がないだろうという贅沢な意地によって、英国の修士課程1年、単位取得によるTaught Masterの選択肢は4年生の秋頃には魅力的には映っていなかった。一方で、学びたいものがLSEにあることは明確であったものの、2年間海外で大学院生活を続けることの資金的な負担に関する不安もあった。

 結局、4年生の秋の段階では、LSEの1年コースとLSEが関係するDouble Degreeを比較検討し、もっとも求めている時間とはLSEでの学びであり、それを最も直接的に得られるのは「LSEでの1年ではないか」という結論に至り、シンプルにLSEの1年間のTaught Masterを選択し、その後の計画はまったく考えずにInternational RelationsとInternational Relations Theoryという2つのコースに出願した。2年間のResearch Masterの選択肢は、1年の間にシラバスや教授との繋がりを作れれば、満足するのではないかという考えに帰着した。その結論を導くに当たり、実際に6つほどの悩んでいた候補のコースを書き出し、卒業までの時間割を組み、可能であればシラバスを入手し、徹底的に具体性を引き出した上で結論をくだした。こうして行き当たりばったりな出願先の選定は4年生の10月下旬には決定し、あえて言うなら選択肢③へと落ち着いたのだ。

Fig2. LSE図書館の内部

次号、英国修士課程Taught Masterと日本の大学院の自家製「ダブル・マスター」ができるまで②(出願プロセス)につづく。。。

森江建斗 (モリエ ケント)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) MSc International Relations Theory
京都大学 人間環境学研究科修士課程