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紆余曲折ありつつ40歳を目前にオーストラリアで博士課程にチャレンジすることにした自分の体験に、正直、どれだけの普遍性があるのかは分からない。しかし、かつて僕がそうであったように、これから挑戦すべきかどうか悩んでいる人の参考に少しでもなれれば嬉しく思う。

ロシアからオーストラリアへ

自分が今、シドニーで博士課程に所属しているなんて大それたことは10年前、いや5年前にもとても想像がつかなかった。そもそも僕は、英語圏にも南半球にもまったく縁のない人生を歩んできた。大学は外国語学部ロシア語学科。大学2年の夏休みにロシアで3週間ほどの語学研修に参加したのがはじめての海外体験だった。その後、大学3年のとき1年間休学し、サンクトペテルブルク国立大学に語学留学をした。帰国後もアルバイトを掛け持ちして資金を稼いでは、長期休みの度にロシアとその周辺をフラフラとあてもなく旅をする大学生活だった。卒業後はロシアで生活したいと思って外務省在外公館派遣員制度に応募、モスクワにある在ロシア日本国大使館に2年間の職を得た。

そろそろ任期満了が視野に入ってきた頃、「ロシアにおける日本文化フェスティバル」という大型の日本文化紹介イベントがあった。それまで海外にばかり目が向いていたが、これがキッカケとなり日本文化の面白さに目覚めた。国際交流基金という組織の存在もその時に初めて知り興味を持った。ちょうど、僕が日本に帰国してすぐにロシア語専門枠で中途採用の募集があり、運良く潜り込むことに成功した。

というわけで、地域的にはロシアやヨーロッパ、分野的には舞台芸術に興味があって就職した組織だったので、入社4年ほどして突然シドニーへの転勤を命じられたときには心底驚いた。オーストラリアに関する知識もほぼゼロ。飛行機のチケットを受けとってはじめて東京からシドニーまで9時間もかかることを知って驚いたくらいだ。こうして30歳にして初めてオーストラリアの大地を踏むことになった。

Fig1. シドニー市街遠景。研究の合間の息抜きには少し足を伸ばして新鮮な空気を。

駐在員しながら修士にチャレンジ

着任したシドニー日本文化センターではオーストラリアの日本語教育を支援する仕事を担当することになった。慌ただしくも充実した毎日だったが、1年ほどして少し自分を客観視する余裕が出てくると、自らの底の浅さが痛感されるようになった。外国語学部出身であるので、もともと言語と言語教育には人一倍興味はある。しかし、これまでの限られた経験と知識を頼りに仕事をしていくだけでは、自分がすり減って無くなってしまうような気がした。もっと体系的なインプットが必要ではないか……。

ちょうどそんな風に思い悩んでいたとき、Open Universities Australiaという通信教育の宣伝が一面に描かれたバスが目の前を通り過ぎた1。いつかちゃんと勉強したいと思っていた応用言語学の修士課程に挑戦するチャンスなのかもしれない。とはいえ、なかなか思い切りがつかずしばらく逡巡していたが、働きながら博士号を取得した会社の大先輩のアドバイスで決心がついた。曰く、「重い荷物は片手でひとつだけ持つとバランスが取りづらい。でも、思い切って両手にひとつずつ持つことで上手くいくこともある。もし重すぎたら一旦おろして休憩すればよい」。はじめての英語での勉強、大量の課題。かなりしんどかったが、なんとかモナシュ大学が提供する1.5年のコースを3年かけて修了した。ひと回り成長した手応えのようなものを感じた。

実は、僕の言語学への憧れは大学学部生時代に遡る。副専攻として履修したいと思っていた。しかし、周囲の「言語学なんかやっても意味ない」「就職につながらない」などという意見に流されて諦めてしまった。その後悔がずっとどこかにあった。思い切って修士をやってみて実感したのは、「学び終わるまで、そこで何を学ぶことになるか、学び始める前の自分には分からない」ということだった。どんな分野であろうとワクワクする事を追求することで想像もしなかったブレイクスルーがあり、新しい景色が眼前に広がると今では確信している。


1 イギリスのThe Open Universityとは異なり、Open Universities Australia (https://www.open.edu.au)は単独の大学ではなく、様々な大学がオンラインコースを提供するポータル的な組織。学位は各大学から授与される。

そして、博士課程へ

その後、6年の長きに亘ったシドニーでの駐在員生活を終え再び日本に戻って働き始めた。しかし、オーストラリアの日本語教育に関する様々な疑問をもっと深く追求したいという思いが日々強くなっていった。ただ、40歳を目前にして約13年勤めた安定した仕事を手放す不安も大きかった。職場では中堅として、やりがいのある仕事が出来るようになっていたし、国際文化交流という刺激的な業務内容にも後ろ髪を引かれた。さらに、現実問題として博士号を取ったからといって就職口があるとも限らない。しかし、ここで学部生のときのように再び諦めたら一生後悔すると思い、最終的に次のステップに進む決断をした。

さて、留学を検討するにあたり、何をどこで勉強するかというのは重要な検討事項だろう。僕の場合は、すでに前職の経験から研究したいことはある程度決まっており、幸いなことにその分野で第一人者の先生と面識があった。さらに、ちょうどニューサウスウェールズ大学(以後、UNSW)で新たな奨学金のスキーム2が始まるというタイミングだったこともあり、それにチャレンジすることに目標を定め準備を進めた。

入学資格について。さきほど僕はオーストラリアの通信教育で修士号を取得したと書いたが、これは「コースワーク」という修士論文を書かず規定の科目を履修することで授与される修士号だった (Master by Coursework)。通常はこのコースワークだけでは博士課程進学の要件を満たさない3。他に、研究論文作成が中心となる修士課程もあり、Master by Research (MRes)やMaster of Philosophy (MPhil)と呼ばれる。マスターからはじめて途中でPhDにアップグレードするケースもある。

では、コースワークしかやっていない僕がどうして博士課程入学が認められたかというと、基本的には職歴換算だ。研究分野に関係がある仕事をしていたことに加え、短い実践報告ではあるが紀要に2本投稿していたことが幸いした。このように柔軟に対応してもらえる場合もあるので、簡単に諦めずに、まずはよく調べて、その上で希望の進学先に相談してみてはどうかと思う。オーストラリアの大学の門は拒むために閉ざされているのではなく、迎え入れるために広く開かれていると感じる。人種的にも言語的にも実に多様性があり、様々な人生経験を持った幅広い年齢の学生がいる。


2 Scientia PhD Scholarships (https://www.scientia.unsw.edu.au/scientia-phd-scholarships)。現在募集休止中。

3 ただし、コースワークでもリサーチ・プロジェクトでまとまった論文が課される場合、認められることもある。

オーストラリアの文系大学院生生活

Fig2. Faculty of Arts & Social Sciencesと満開のジャカランダ

もちろんどこの国でもそうだとは思うが、原則として授業がないオーストラリアの文系博士課程では、特に自己規律が求められるように思う。スーパーバイザーの指導の下、基本的に自分で粛々と研究を進めることになる。最初の1年目は文献調査を進めながら研究計画を練り上げることに費やされる。UNSWでは約1年が終了した時点でConfirmation of Candidatureという公開発表とパネルによる諮問があり、それをパスすることで晴れて博士候補生 (PhD Candidate)となる。それ以降は、年に1回、進捗状況確認のためレビューが行われるのみだ4。そんな調子であるので、自分で計画を立てて、着実に進めて行く必要があり、自己管理がとても重要になる。指導教官との面談の回数もひとそれぞれで、1ヶ月に1回は会うという学生もいれば、半年や1年に1回しか会わないというケースもある。自分から喰らい付いていく気概が必要だ。

博士課程では、もちろん博士論文というおそらく人生で一番大きな論文を書き上げるのが最大の山場ではあるが、試行錯誤も含めてトレーニングのプロセスだと感じる。ただでさえ大仕事である博士論文執筆。それに加えて母語ではない言葉で読み、書くという作業はとても時間がかかる。ワンパラグラフ書くのに何日も苦しむこともある。なんとか振り絞るように書いても、英文校閲が待っている。しかしそれはハンデであると同時に、深く考える糸口でもある。最終的には自分の研究力、つまり研究内容がしっかりしていて言いたいことがあることが大切になる。言語の問題を抜きにしても、研究は一筋縄では行かない。僕の場合はコロナ禍により、研究計画に大幅な変更が必要になった。もちろん落ち込むし、本当に自分にやりきれるのかと不安になることもしばしばだ。コロナは特殊な例かもしれないが、平時であっても研究は計画どおりに行くとは限らない。しかし、壁にぶち当たることが新しい知識を得る機会となったり、ブレイクスルーにつながったりするかもしれない。

このように、山あり谷ありの博士課程。そんなときには身を置く環境がとても大切になる。幸いなことにここシドニーは自然も多く、少し足を伸ばせばビーチや国立公園で気軽に気分転換ができる。空が青くて広い。人は優しく、食事もワインも美味しい。そして、学ぶことに対してとても間口が広い。一流の研究者が多く、学ぶ環境が整っている。何歳からでも学び直し、やり直すことを応援する土壌がある。資金面でも、いろいろな種類の奨学金があり、多くの留学生が何らかのサポートを得ている。自分には無理だと決めつけず可能性を探ってみて欲しい。きっと可能性が開けると思う。これから博士課程挑戦を検討されている方は、オーストラリアも視野に入れてみてはいかがだろうか。


4 進捗管理の方法は大学によっても異なる。例えばシドニー工科大学ではStage 1がUNSWのConfirmationに相当、これをパスするとデータ収集のステップとなる。そして、修了1年ほど前にStage 2という次の大きなマイルストーンあり、そこではデータ分析などもかなり進んである程度執筆できていることが確認される。これ以後、博士論文を書き上げる最終段階に入る。

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会(オーストラリアは34:03から)https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

中島 豊(ナカジマ ユタカ)
上智大学外国語学部ロシア語学科卒。ニューサウスウェールズ大学博士課程在学。

博士課程出願まで(学部生時代〜修士課程進学まで)

もともと中国の文化や文学、漢字や中華料理が大好きだった私は、2008年に創価大学法学部法律学科入学したあと、中国について研究するサークルである中国研究会に入部した。そこで中国の歴史や文化について理解を深め、大学3年次の2010年9月に、人生初の外国訪問ともなったが、1週間の日程で北京と天津をサークルのメンバーとともに訪問する機会を得た。これを機に大学4年次の2011年に休学し、北京外国語大学漢語学院に語学私費留学をした。この10ヶ月間は、中国語を学ぶほか合間を見ては中国の名所なども観光した。

そして、帰国後就職活動などをするが、その中でもっと学びたいと言う思いが強くなり大学院への進学を考える。しかし、そこから先のキャリアを考えたときになかなか大学院進学へ切り替えることはできなかった。卒業が近くなり大学院進学へ切り替えたのは、北京の語学留学で感じた北京という場所の居心地の良さともっと学びたいという私の中にあるどうしようもない思いがあったからだった。また、中国で国際関係を勉強することは、欧米で研究するよりもより近い距離で研究でき、かつ中国のことを深く知る中で研究できることが強みである。そして、2013年3月、創価大学法学部法律学科卒業後、大学院に向けての浪人生活に入った。

中国の大学院に進学するためには、まず、その授業を聴講できるだけの語学力を有することを証明する資格を取得しなければならない。私は創価大学卒業の時点で中国語の能力を有する客観的な資格を有していなかったために、創価大学を卒業した年の6月に漢語水平考試(HSK)6級を受験。300点満点中186点(合格ライン180点)で取得した。そして、それ以降は我が家の経済状況で大学院の学費を捻出することは不可能であるため、寮費、学費免除、生活費を支給される中国政府奨学金留学生としての修士課程留学を目指し、出願の準備に入った。

翌2014年2月に、中国政府奨学金留学生選考に出願。3月には同選考の書類審査合格の通知を受け取り、4月に日本における候補者を専攻する機関である文部科学省の庁舎にて面接試験を行い通過。7月には北京外国語大学国際関係学院修士課程より合格通知受け、8月に渡航し、人生で2回目の留学となる修士課程へ進学した。

博士課程出願まで(修士課程)

私が進学した当時、北京外国語大学国際関係学院修士課程は、3年課程であった(現在は欧米に倣い2年に変更)。2年間は授業があり、ここで文献を講読し授業内でプレゼン発表や学期末はレポート課題が課される。3年次は1年間論文執筆に充てられ、授業はない。字数は主に、中国語で3000字から8000字である。ちなみに中国の学部生が卒業論文で要求される字数は8000文字から1万字であり、修士論文は3万文字以上書くことが要求される。私は修士論文では、1972年の日中国交正常化にあたって影響を及ぼした人物や団体について研究し、2017年6月に修士課程を修了。修了後すぐに日本に帰国した。

Fig1. 周恩来総理や毛沢東主席も撮影した写真館の前で 2018年11月 北京・王府井にて

博士課程出願

当初は帰国後、日本での就職を考えていたが就職活動などをしていくうちに語学留学とは違い3年間北京で過ごしたことにより日本の生活には慣れず、また、そのような筐体で就職活動をしても結果は芳しくなかった。そうした中で私は3年間修士課程を過ごした北京の地に戻りたいという思いが強くなり、以前から興味があった外務省在外公館専門調査員採用試験に出願し、その年の10月に筆記試験を受験。筆記試験は合格したものの、その翌月の面接試験にて不合格。このときに私は、修士論文を短いと感じたことからも、もっと勉強しようと博士課程への進学を決めた。翌2018年1月に、2度目の中国政府奨学金留学生選考に出願。3月に書類審査合格の通知を受ける。今回は文部科学省ではなくお台場の国際交流館プラザ平成で面接試験を受け、4月、面接試験合格通知を受ける。5月、オンラインにて、現在の指導教官である黄大慧教授と面接した。黄先生と面接した経緯は、私が出願段階で提出した研究計画書に当初は現在の研究テーマとは違い1950年代の日中関係に多大な貢献をした郭沫若について研究したいと書いたことから、中国人民大学国際関係学院で博士論文の指導ができる教授の中で日本への留学経験もあり日中関係を専門としていることから面接することとなったというものであった。その翌月には文部科学省の通知を前に大学より直接合格の連絡を受け、8月に文部科学省を経由し合格通知の書面を正式に受領し、2度目の中国政府奨学金留学生として博士課程への留学が決まった。そして、9月5日に渡航し、博士課程に入学した。

中国の博士課程の生活

現在私の在籍する中国人民大学国際関係学院博士課程は4年過程で、1年目は授業を受ける。ここでは修士課程と同様にレポート課題や発表がある。博士課程は修士課程以上に学位論文の執筆がメインとなるために、博士課程では入学のときにある程度の学位論文のテーマを決めておく必要ある。そして、自分の研究テーマに沿ったレポートや発表をすることが要求される。また留学生は中国の規定に基づき、中国語の文章の書方の授業と中国文化、中国政治を学ぶ授業がある。

2年次の前期期末には、全学部共通で博士論文執筆能力があるかどうかを確認するために総合試験が課される。これは文献を提示されその範囲の中から質問を出され論述する試験と面接試験がある。これに合格しなければ博士学位論文を書くことはできない。私のいる大学では、留学生の場合論述試験は資料の持ち込みは可、面接試験では不可。もし答えられない場合は、別の質問がされる。

中国文系大学院博士課程進学のために、2年目の後半には正式に博士学位論文のテーマ設定を行い複数の教授陣による面接を受ける。本来は2年次の6月中であるが、今年は新型コロナウィルスの感染拡大の影響で10月〜11月に実施した。なお私のいる大学の博士課程では面接の際に研究計画書を作成するが、主要参考文献を含め中国語で6000文字以上書くことが要求される。3〜4年次は論文執筆がメインとなる。授業での単位取得を除く博士課程の修了要件学位論文(中国語で12万文字以上)を完成させ、かつ学術雑誌に2本以上の掲載である。2本とも最低8000文字以上で、掲載される雑誌の1冊は大学が指定する表に掲載の雑誌に掲載され、発表した2本の論文のうちの1本は個人で作成した論文でなくてはならない。この2つの条件を満たした場合、博士学位論文の口頭試問を受けることができ、口頭試問を合格することで博士号の学位が授与される。

Fig2. 中日外交史の授業にて発表 2019年5月30日 中国人民大学にて

中国文系大学院博士課程進学のために

中国の文系大学院に進学するには何と言ってもまずは、HSK6級を取得することが重要である。そして、しっかりテーマに関して事前に勉強することが、大学院での勉強−特に博士課程では重要である。特に博士課程では専門的な事項とともに基礎学力も要求されるために、専門分野に関する基本的な事項はマスターしておく必要がある。

最後に、私は中国政府奨学金で進学したが、同制度で留学を考えている場合に何が必要かということについて記しておきたい。まずは大量の書類の提出が要求されるので、しっかり募集要項を読み込み書類の準備に当たること。高校からの卒業証明、成績証明が必要になる。次に面接試験は主に中国語で行われるため、スピーキング力も大事になる。そして、希望大学は第3希望まで出せるが、希望通りにならないこともある。特に毎年、北京と上海は人気で、希望者が多い。

専攻中国政府奨学金で博士課程に進学する場合は修士課程と同じ専攻であることが要求される。

以上、中国文系大学院博士課程について書かせていただいたが、これを参考に修士後のキャリア設計に役立てていただければ幸いである。

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会(中国は1:04:08から)https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

伊藤 一城(イトウ カズシロ)
2013年3月創価大学法学部法律学科を卒業。2014年9月に中国政府奨学金留学生選考に合格し北京外国語大学国際関係学院に進学(国費留学)。2017年6月に同大学修士課程を修了。2018年中国政府奨学金留学生選考に合格し同制度を利用して中国人民大学国際関係学院博士課程に進学。

「日本とブラジルの言語・文化を理解した日本語教師になろう」と将来の夢を抱いたのは、高校2年生の時だった。私は、自動車産業が盛んな愛知県で生まれた。小学生の頃から、日本語が話せず困っているブラジル人のクラスメートが周りにいる環境で育った。この夢を叶えるため故郷を離れ、大阪で大学進学し、地球の反対側のブラジル・サンパウロ大学大学院の修士課程に進学した。日本に帰国して大阪大学で博士号取得後、現在は、日本国内の大学で留学生に日本語を教えながら、外国にルーツをもつ子どもの言語教育に関して国内外での研究に従事している。

ブラジルの大学院に進学を目指すに当たり、周りにブラジルの大学院に進学する人などおらず、大学院進学方法を見つけるのに多くの時間を費やした(合格した後分かったのだが、サンパウロ大学に正規大学院生として入学し、修士号を取得した日本人としては2人目だったそうだ)。今回講演を引き受け、また筆を執っているのは、少しでも私のようにブラジルの大学院進学を目指す人の役に立てばと思ったからである。

サンパウロ大学を選んだ理由

ブラジルの大学院で学ぼうと本格的に思ったのは、2008年9月からのリーマンショックの影響で多くの外国人が国に帰国した時期であった。学部生の頃から日本国内でブラジル人を中心に外国にルーツをもつ子どもたちに日本語支援や学習支援をしてきた。そのためブラジルに帰って行く子どもたちの教育、言語の問題は帰国後どうなってしまうのか心配になったのだ。そこで、ブラジルで日本から帰国した子どもたちの教育について研究しよう、将来両国のかけはしとなる人材になりたいと思いブラジルの大学院進学を目指すようになった。

サンパウロ大学(Universidade de São Paulo)は1934年設立された南米の難関大学の一つである。大統領など各分野の要人を輩出している。

サンパウロ大学を選んだの理由は大きく3つある。

①フィールドとしてサンパウロは世界一の日系人人口であること

②サンパウロ大学は当時南米トップの大学で、日本語分野でもブラジルの中で最も古く優秀な大学であること

③先行研究を読む中で、サンパウロ大学の先生の論文・研究に興味をもったこと

自分からサンパウロ大学の先生にコンタクトを取り、半年間の研究生を経て、大学院入試に挑戦した(ポルトガル語・英語筆記、面接)。大学院進学する際には自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかは日本・ブラジルの場所を問わず重要である。

サンパウロ大学の大学院(日本語・日本文化・日本文学専攻)への出願での主な必要書類は、研究計画書、外国語の試験(日本語や英語)である。日本人(外国人)の場合は、外国語の試験は日本語ではなく英語が必須で、さらにポルトガル語試験(ポルトガル語能力試験)も必要である。最新情報は公式HPを参考にされたい。

サンパウロ大学の良さ

次に、サンパウロ大学に入学して、良かったことを2点あげる。

①福利厚生が充実していること

まず、ブラジルの大学は国立大学なら学費が無料である。これは外国人にも適応される。今振り返ってみても無料で高レベルの教育を受けることができたのはとても幸せなことであったと思う。学食は、政府からの補助があり、2レアル(約100円)で食べることができた。学内と最寄り駅を繋ぐスクールバスも無料で乗れる。広大な敷地には学部ごとに付属図書館があり学習する環境が整っている。メインキャンパス内に日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)が併設されている。日本文化センター内の図書館には日本語の図書が多数所蔵されており、その他先生方の研究室や日本語・茶道・華道の公開講座が開講されている。私は国内外でいくつかの大学に留学したり、所属したりしてきたが、今の所福利厚生面でサンパウロ大学を超える大学は出会ったことがない。

Fig1.日本文化センター(Casa de Cultura Japonesa)

②南米有数の教員・学生のレベルの高さ

日本語・日本文学・日本文化専攻の教員陣は、ポルトガル語、日本語、英語を操るバイリンガル、マルチリンガルである。また、半期に一度日本から客員教員を招き、直接授業を受講できた。日本では受講が難しい著名な先生の講義をむしろブラジルで受講できたことは大きな財産となったと感じている。

サンパウロ大学の大学院生活

サンパウロ大学院時代の生活について授業、研究、課外活動の3点に分けて述べたいと思う。

①授業

1コマは驚きの4時間であった。ノンストップで続く白熱の議論についていくのは簡単なことではなかった。授業についていくのが大変な時、現地人の友人が沢山助けてくれたことは今でも感謝している。留学を充実させるポイントとして、何でも話せ相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ることは大変重要である。また外国にルーツをもつ子どもたちの大変さを自分自身も実体験できたことは、現在の職においても糧になっていると感じている。

研究

研究費の面では、返済不要のブラジル政府の奨学生CAPES(Coordination for Improvement of Higher Education Personal:日本学術振興会特別研究員DC1相当)に選出されたことが大きかった。

研究の手法はライフストーリーだったので、理系のように研究室に籠るわけではなく、研究協力者を探し、信頼関係をつくりながらインタビューしていった。インタビューデータの文字起こしをし、分析、論文執筆というサイクルで生活していた。

最も大変だったのは、ポルトガル語での学会発表であった。指導教官に毎週ご指導いただいたことは今でも感謝している。また、修士論文の一部を国際学会で発表する機会を与えていただく幸運にも恵まれた。初めて日本語で学会発表をしたのだが、優秀発表賞を受賞できたことは異国の地で研究してきたすべてが報われ、支えてくださった多くの方々に恩返しをできたのではと感じている。  

課外活動

国際交流のサークル立ち上げ、ブラジル人や多国籍な仲間たちとポルトガル語・英語・韓国語の3か国語を駆使しながら活動をした日々のお陰で、語学力だけでなく人と人をつなげる能力も伸ばすことができたと感じている。異国・異文化での困難を乗り越える秘訣は、「うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる」、「感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る」ことだと常々考えている。そのためには、文化の違いを「笑える」力も重要だと思う。ブラジル留学生活で一番学んだことは「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」というブラジル人の気質である。物事が思い通り、計画通りに行かないときも、臨機応変に「Vai dar Certo(なんとかなるよ!)」と二度と戻ってこないその瞬間を楽しむ心の大切さを教えていただいた。

Fig2.サンパウロの旧市街にあるセー広場の大聖堂

卒業後のキャリア

サンパウロ大学で修士号を取得した後に日本に帰国した。サンパウロ大学で修士号を取ったことを進学や就職など大切な場面で評価していただいたと感じている。これは、南米トップのサンパウロ大学卒という学歴面だけではなく、そこで培ってきたバイタリティ―、忍耐力を認めていただくことができたと理解している。また、人との出会いとつながりのありがたさも感じている。現在でもブラジルをフィールドとし国際交流基金、JICAなどと共同研究ができている。また、国内では地元をフィールドに科学研究費を受領しながら研究を行い、研究を通して夢が叶いつつあるのを実感している。

まとめ

上記のポイントを以下の3つにまとめる。

①大学院進学:自分の研究を指導してくださる指導教官がいるかどうかが重要。

②留学を充実させるポイント:何でも話せる・相談できる、帰国してからも友情が続く現地人の友人1人を作ろう。

③異国・異文化での困難を乗り越える秘訣:うまくいってもいかなくても、嬉しい時も、悲しい時もいつも感謝して生きる。感謝しなければ、どんどん不満が出る。感謝したらどんどん喜びが来る。Vai dar Certo(なんとかなるよ!)

最後に、修士論文の一節をメッセージとして記し、筆を置こうと思う。少しでも読者のお役に立ったのであれば幸いである。

O caminho do sucesso é um caminho em que você tem que agir até o fim, enquanto enfrenta problemas, aprende, e se torna habilidoso em como ser bem sucedido. Você atinge sucesso ao vivenciar provações e erros nesse caminho, sofrendo, aprendendo e percebendo como ser bem sucedido; e agindo.

成功の道は、進みながら成功することにぶつかって、学び、有能になっていきながら最後までしなければならない。成功に行く過程で試行錯誤を経て、苦労し、自分が会得しながら、成功する方法を悟って行うようになることで、成功するようになる

出典:Sayaka Izawa (2015) O percurso escolar dos filhos de decasséguis brasileiros retornados. Biblioteca Digital USP. URL: https://www.teses.usp.br/teses/disponiveis/8/8157/tde-19102015-130134/pt-br.php (2020/12/24アクセス確認)

関連動画:2020冬 - 専門別:文系 - 海外大学院留学説明会 (ブラジルは10:01から) https://youtu.be/JyPMRtIzSI0

伊澤 明香(イザワ サヤカ)
大阪経済法科大学 教養部 助教。大阪大学 外国語学部を卒業後、グローバル企業でのポルトガル語通訳を経てブラジル・サンパウロ大学 大学院 哲学・文学・人文科学(東洋文学)研究科 日本語・日本文学・日本文化専攻で修士号を取得。帰国後、大阪大学で博士号を取得。