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新型コロナウイルスが猛威を振るっており、進学や留学でも大きく影響されている人も多い事かと思います。これに関して「1655年にはペストが大流行した。当時ケンブリッジ大学の学生であったアイザック・ニュートンは、2年ほど田舎に疎開したときに、リンゴが落ちるのを目撃して万有引力など物理学の驚異的な業績を上げた。これを創造的休暇と呼ばれる。」というような美談はよく引用されるが、正直、歴史上の出来事で偉大過ぎて実感がわきにくいと思います。今回はこの場をお借りし、偶然にも同じくケンブリッジ大学で物理学の研究を行っていた筆者の体験を共有したいと思います。お付き合いいただければ幸いです。

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確か大学2年生の4月の事であった。大学入試で第一志望に落ち、喪失感にさいなまれていた私は、海外の大学院に進学する方法があることを知った。上手くやれば多くの外国では大学院生は労働者として扱われ、給料も支払われ学費も掛からないらしい。それには主に準備できることは、評定平均(GPA)を上げることとTOEFL iBTのテストのスコアであった。

英語は入学試験の際に勉強こそしたものの、学校名を検索すると関連に「ヤンキー」と表示される全国でも有数の荒れた地域の公立中学の英語の授業にもついていけずに、英作文で"He will is be going~"などと書いているレベルで全国模試の偏差値も30未満。親戚にも大学院はおろか大卒もほぼおらず、英才教育とは勿論無縁。受験の際にどうしても行きたかった予備校の費用の一部は、お年玉で払う状態。言うまでもなく純ジャパ。大学生2年生の時点で、パスポートも持っていなかった。そんな私にとってTOEFL iBTのスコアなんて、頂上が雲の上で見えもしない崖を、素手でよじ登るようなものであった。

さらに日本の大学の試験は何ともやる気が出ず、受験に代表される実力筆記試験文化になじんでいた当時の私は、学部1年生のGPAはオールB程度の3前後であった。一般的な海外有力大学の最低ライン言われるGPA3.6に到達するには、少なくとも3年前期までほぼオールAで行かないと到達できない計算であった。結果が変わるわけもないのに、事あるごとに評定平均を電卓で計算した。テスト範囲のある試験が出来て何になるのか?と斜に構えていた数か月前の自分を殴り倒してやりたいほどであった。GPAが低くても合格した人の話などを探し、無理やり希望を見出していた。

評定平均を高く保ちつつTOEFLのスコアもあげ、卒業研究も真剣に行い、どうにかこうにかアメリカの大学院の出願にこぎつけたが、当時はリーマンショック直後で財政的に厳しい情勢であった。結局、合格自体は出たもののRA等は全くつかず、事実上の不合格であった。当時は奨学財団の奨学金なんて天才しか受からないと思い、出願さえもしていなかった。

スコアや努力という主観的な要素ではない。時代のタイミングという、どうにもならない大きな力が原因であった。なんとも行き場のない思いに苛まれた。東日本大震災による混乱に巻き込まれる中、この時リーマンショック自体も、それに影響される奨学金も、世の中、金が勝負を分けることがあることも思い知らされた。

念ため出願していた修士課程に進学した。助成金を獲得し国際会議で発表。研究助成金を獲得し、後の進学先となる研究室に自力で交渉しインターンを行った。貪欲に有利になりそうなことは何でも行い、TA等も積極的にこなした。

前回の失敗を生かし用意周到に準備をした結果、PhDの出願の際には、奨学財団の留学奨学金にいくつも内定し、最終的に船井情報科学振興財団やブリティッシュカウンシル日本協会の奨学生として採用され、かつノーベル賞輩出数が世界最多の研究所であるケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のWinton Programme for the Physics of Sustainabilityという特待生制度にも日本人で初めて採用されて海外の大学の博士課程の進路を知り準備開始5年半の後、念願がかなって進学することとなった。

ケンブリッジ大学ではいろいろと衝撃を受けた。天は何物をも与えまくったような信じられないくらい多才で性格もいい人も多数。他国の皇族や貴族の末裔の学生も多くいた。人生のスタートラインとバックアップの環境が、自分とは何次元も違うような人々も数えていたらきりがないほどだ。他にも20代前半で教員になっているものなど、異星人のようなタイプも多く見かけた。自分の凡人さを改めて自覚する日々であった。

研究分野は量子物理学の物性物理。行っていた物質の合成実験で、結果が出たのちに、まとめる段階で再現性が取れないことが判明し、約2年分の研究が丸々無駄になった。進学前には全く聞いていなかった途中ではラボの引っ越しがあったり、実験装置が来るのが遅れ、大規模な故障も起こり、まさに踏んだり蹴ったりであった。自分のテーマではなく、手伝いをした人達の研究は軒並みうまくいった。やれやれである。運も実力のうちといわれてしまえばそれまでだが、サボっているわけではないし、能力的なものでもない(と見ていて少なくとも自分ではそう思っている)。しかし客観的には、当てない限り何もやっていない状態と大差がなくなるタイプの研究は精神的にくるものがあった。一回一回のプロセスに時間がかかり、回数が限られるためにバクチの要素の強くなる傾向にある基礎研究よりも、研究のサイクルが短く、多く発表ができる分野が羨ましく映った。

一方で、分かりづらくサイクルが長い研究を行ったことがきっかけで行ったことも多い。そもそも量子物理学の基礎分野なんて、同じ分野の人でも分かりづらい。立食パーティーやディナーの際にバイオや法律、MBAなど他専攻の人に説明しても”That’s Interesting(それは面白いといってはいるが実際は興味ないです。それ以上続けないでくださいの意味)”といわれる程である。

どうにか面白く分かってもらえないかと「分かりやすい発表とは何か?」を追究した結果、アウトリーチプレゼン大会のネイティブスピーカーを抑えて最優秀賞を何度か受賞、マイケルファラデーがロウソクの講演をしたことで知られるFaraday Lecture Theatre at Royal Institutiton of Great Britainやサッチャーやホーキング等名だたる歴史上の人物が講演したCambridge Unionでの講演の機会にも恵まれた(Fig1)。

Fig1. Three Minute Wonder 決勝にて。Royal Institution of Great Britain

ケンブリッジ大学の生活で得たものも多かったが、先述のように博士課程において最重要な研究自体がうまく行っていなかったわけである。そのため卒業も遅くなった(Fig2, Fig3)。VISAが失効になり、一時国外退去勧告になるほどであった。特に課程終了間際ではPhD取得が確定するまでは、その後のことについて考えられる余裕もなく、手も出せない状況であった。よってPhD取得直後に置かれている状況は、見方によっては「30歳・無職・シャカイジンケイケン無し」であった。無敵に近い強烈なプロフィールである。今思えばコーヒーのシミがついたよれよれのスウェットで、昼過ぎから駅前のゲーセンのメダルコーナーに連日入り浸りタバコをふかしていたりしていたら、より強くなっていたかもしれない。

Fig2. 博士論文の提出。直後に友人たちにシャンパンをかけてもらった。
Fig3. ラテン語で行われる卒業式の儀式

就活中とはいえ、数か月間の無職生活というものは暇なものであった。この暇を利用して、今後幅広く利用できると考えた基本的な機械学習を独習した。強化学習を駆使した自動でゲームが強くなるエージェントプログラムを回し続け、育てていた。この経験も業務にも生きている。なお就職こそしなかったものの、機械学習エンジニアとしてもオファーもいただいた。

紆余曲折はあったが、外資系の日本支社へ就職した。この時の私は「せっかく外国でも認められ始めた矢先にグローバルキャリアは終わった」と内心諦めていた。それでも入社後半年以内にはグローバルプロジェクト(本社案件)に早々に参画することになり、海外出張が続いた。どちらかというと海外進出したというよりも、むしろ日本に一時帰国をしたものの、再びグローバル社会へ呼び戻された感覚であった。これも外国で博士時代に身に着けたものが身を助けた形であった。

そして昇進もして勢いに乗って来たと思っていた矢先、今度は新型コロナウイルスの影響で、海外プロジェクトが軒並み延期・中止になり、引きこもり生活を余儀なくされた。大学を卒業し、無職生活を行った後に、やっと働き始めたかと思ったら、今度は強制引きこもりである。

慣れなのか、それとも麻痺なのか、内心「ああ、またか」と思っていた。現在は引きこもり生活を利用し今後に備え、国際的に通用する資格(いわゆる国際資格)を、既にいくつか取得した。他にも今出来ることに集中して取り組むことにしている。

世の中とは不平等なものである。どうやっても王子や貴族にはなれないし、人種の優位性を身に着けることもできない。今置かれた状況を嘆いても仕方がない。それがたとえ何の前触れもなく起きた世界的なパンデミックであったとしても。どうあがいても配られたカードは変わらない。全てを受け入れて勝負するほかない。

挑戦をすればするほど失敗は増えるし、やらなければ決して遭遇しないような心がえぐられるような思いも増える。実際、ここに書くのも憚られるような故意のハラスメントや、悪質な嫌がらせにも遭った。事実一部はトラウマである。執筆する際に色々思い出してしまい、手が震えたもの、動悸がしたもの、目が潤んだものまであった。故意の加害なんて許されたものではないし、法の下に裁かれてほしいものである。しかし私が被害を受けたという過去の事実は変わらないし、悔やんでもどうにもならない。ただ人生どこでどう転ぶかは分からない。何が良くて、何が悪かったかなんて死ぬまで分からないかもしれない。どんなことでも得た教訓と経験として生かしていきたい。

思い通りになんてなかなかならないし、期待するだけ無駄だと感じることも日常茶飯事。淡い期待どころか、友人や教師には簡単に裏切られ、運にも見放される。

しかし、芸は身を助ける。様々な過程で身に着けた実力やスキルだけはあなたを裏切らない。どこからともなく不意に訪れるチャンスの前に、十分に準備が整っていれば、幸運の女神の前髪を自然とつかむことが出来る。学問に王道がないように、人生に近道はない。出来ることは、日々着々と準備をすすめることだけである。混沌とした世の中の情勢と自分の実力の無さをありのままに受け入れ、日々淡々と次の前髪をつかめるように着々と準備を進めていくこととしよう。

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拙著をお読みいただきありがとうございました。読者の皆様も新型コロナの影響で行き場のない思いをしている方も多い事と思います。読者の中で数年後に以下のセンテンスが頭によぎることが有れば、今回筆をとった甲斐があったように思います。

「ああ、今の自分があるのは、あの時コロナに阻まれたおかげかもしれない」

関連動画:2020夏 慶應大編 海外大学院留学説明会【ジョンズホプキンス大学、ライス大学、ケンブリッジ大学、ノースウェスタン大学】(1:06:55から、学位取得までの過程、アカデミア、企業研究職以外への就職活動、キャリア形成の展望など)https://youtu.be/f-04Dn6JHoA

篠原 肇(シノハラ ハジメ)
ケンブリッジ大学 キャベンディッシュ研究所 博士号取得。プロモントリーフィナンシャルグループ勤務。

個人ブログ https://hajime77.com/

この記事では、英国と日本の両大学院での修士号取得を目指されている森江建斗さんの「ダブル・マスター」についての情報をお届けしています。前号「出願までの意思決定」に続き、今回は出願プロセスについて紹介します。

出願プロセスとタイムライン

 出願の過程については、述べたとおりLSEしか出願をしていないので、LSEの場合(しかもDepartment of International Relations)しか記すことができないので大変恐縮だが、あくまで一人の体験として出願のタイムラインの概要を記述しておく。

1)出願時期

 英国の出願は、一般的には、rolling application systemといって、アプリケーション・フォームが開設され次第、アプリケーションが可能で、出願が提出された順番に審査にかけられる。1月の中旬から下旬に第一回の結果発表があり、それより前に(実際には審査される時間を含めて十分前に)提出された出願の中から合格/保留/不合格が発表され、その後随時コースの定員が埋められていく(詳しい出願の情報は、各大学やコースのHPや該当する先輩方のブログ記事などを確認していただきたい)。英国ではオックスブリッジやロンドン大学のような人気の大学では、学部にもよるが、4月には多くのコースの定員が埋まり切るらしい。私の学部では、12月上旬にはそのアプリケーション・フォームが開設されるため、12月中旬(10~15日あたり)を目処に準備を進めた。12月15日までとしているのはあくまでも目安だが、英国の大学の試験官がクリスマス休暇を取る前に出願を大学に送り込むというイメージだ。

2) 出願書類と各スケジュール

 まず簡単に必要な出願書類について、言及し、それぞれの特性と準備のための各スケジュールを論じる。英国の修士課程への出願に必要な書類は一般的に、大学の成績、TOEFLやIELTSの英語スコア、推薦状、志望動機書(Statement of Purpose: 以下SoP)、CV(履歴書)である。多くの先輩方が指摘するようにSoPが最も重要で、次に推薦状、そしてその他の書類となる。従って、重要度の高いものから順番に論じていく。

i. 志望動機書(SoP)

 LSEの私が出願した学部では、1,500 WordかつA4で2ページ以内という制限があった。この字数制限で1,400 word以上書き、フォント12で通常の余白の設定の場合、上手くA42ページで収まらないことも多いので、フォントや余白の調整といったアウトラインから工夫を行った(フォントは10.5以上が目安だろう)。こうした工夫は、LSEを含め英国の大学院へと進学をされた先輩方のSoPを見せてもらいながら学んだ。次に内容についてだが、具体的かつ個別的であることが求められる。具体的な書き方について細かく書くことは紙面の都合で難しいが、「なぜあなたがその大学のコースで学びたいのか」、「なぜコースのトピックに関心があるのか」、そして「仮に希望のコースで学ぶことになったとして、どのように修士課程の間過ごすのか」という問いを終始意識しながら、試験官に試験管に出願者が有意義に修士課程を過ごせそうだと具体的に想像させることができれば、良いSoPということになる。

 私のスケジュール感について言えば、下書きとなるような文章は箇条書き程度にまとめて9月下旬頃にはつくり、推薦状を書いてくださる先生にも送っておいた。それは、推薦状を書いてもらう際に、参考になると考えたためで、またそれがSoPを書く上で適度なペースメーカーとなった。10月下旬までにはLSEのための自己ストーリを用意し、専門的な研究内容や大学院で問いたい問いや手法については、卒業論文の研究を進めながら深化させた。こうした背景には、2年間の米国の修士課程とは異なり、英国の1年の修士課程は、より具体的な研究テーマや処理可能な問いの大きさが求められるというアドバイスを受けたものだ。

 そして11月1ヶ月を使って、1,500 wordsのSoPを推敲に推敲を重ねた。細かな変更を含めておそらく50回ほど推敲を行ったが、大まかに4つのプロセスを経て、SoPに磨きをかけた。①英会話レッスンを利用した添削(少し禁じ手かもしれないが、IELTSのスピーキングで仲良くなった講師の先生に簡単な文法や語法のミスを確認してもらった)、②英国の大学院に進学した先輩方からの大まかな全体構想や論理構造についてのアドバイス、③ネイティブの友人によるより細かな文法ミスや単語/表現のニュアンスのチェック、④大学の教授や推薦状を書いて頂く先生によるアカデミアの人間からの客観的な最終のフィードバックという順番で、お世話になった。私の場合は、本当に恵まれすぎていたと振り返り感じる。添削サービスなどもあるので、もし金銭的に余裕があれば、利用してもいいだろう。

ii. 推薦状

 一般的には2通、多いところ(例えばオックスブリッジ)で3通まで提出が可能である。よく言われるように、推薦を頂く先生が希望する大学のOBOGや教授職、もしくは有名大学の教授だといいとされるが、実際にはそうした「知名度」や「地位」にも増して、出願者のことを知っているかがより重要とされる(もちろん前者の性質が後者の前提に加えて伴うと「強い」推薦状となるのは間違いないが)。「出願者を知っている」の定義としては、一学期以上のセミナーなどの少人数ゼミの受講や指導教員という立場が、最も説得性が高いと考えられ、従って、少なくとも1通はそうした先生から推薦をもらえるようにするといいだろう(実務よりの修士課程、たとえばMBAなどであれば、指導教官よりも職場の上司の方がいいなどの例外はもちろんあるが)。

 推薦状を書いて頂くにあたって、私が重要だと考えたことは、①自身の専門性の有無や程度を評価してもらうこと、②英語の運用力を評価してもらうこと、③人柄を評価してもらうこと、であり、①と③は多くの場合指導教員やゼミの先生が評価をする立場にあるだろう。一方で、②の評価を公平に下してもらうためにはどうすればよいかと考え、2人目の推薦状執筆者を探した。候補としては、(a)オックスフォード大学のサマースクールの先生、(b)オランダの留学先の先生、(c)4年生後期に受講していた英語授業の先生(京都にあるスタンフォード・センターというスタンフォード大学の海外機関)の3名で、そのなかで直近の自分を最も知り、また直接お願いしやすい状況にあるとし(c)の先生にお願いした。

 推薦状をお願いするタイミングとしては、余裕をもって出願から1ヶ月から1ヶ月半以上前にお願いすることが重要だ。またその際にはSoPの下書きやCVなど同封することで、出願者の進学の意志やモチベーション、能力などについて、アピールすることも重要だろう(もちろん、それが推薦状に盛り込まれるかは定かではないが)。

iii. 大学の成績、TOEFLやIELTSの英語スコア

 これらの書類で規定のスコアや成績を満たすことは、英国の受験において最低限必要なことではあるが、合格のための重要条件ではない(例えば英語力については、Conditional Offerという形で留学開始までに必要な英語スコアを取り直すかプレ・マスターコースというアカデミック・イングリッシュ用のコースを留学前の夏休みの約1ヶ月履修することなどを合格条件とする場合もある)。大学の成績については、ロンドン大学系列では一般的にはGPA3.6/4.0が基準として求められ、オックスフォードではGPA3.6以上が応募者の多数派になるという(ただし例外もしばしば聞くのであくまで目安であろう)。海外大学院への進学に関心のある読者の方は、学部時代からの成績に気をつけておくべきだろう(また社会人で海外修士に挑戦される方が学部時代のGPAでトップ校への出願を躊躇されるという話をしばしば聞くが、そうしたことも踏まえて、学部時代からの準備が大切かもしれない)。私がGPAや成績について悩んだことは、オランダ留学時代に異なる専門分野の授業を履修し、挑戦心から敢えて最終学年のゼミを受けた結果、留学時代の成績が芳しくなかったことだ。これについては、京都大学への単位変換を敢えて行わずに、京都大学での成績だけの提出を試みたが、SoPやCVに留学先を記述するとやはりそうした留学先の成績表の提出も求められたので、追加で提出した。この成績が、プラスとなったのか、マイナスとなったのかはわからないが、少なくとも交換留学に挑戦し、英語の環境でも約一年間生き残れたという証明にはなったのではないかと思う。

 英語のスコアについては、各大学のコースのアプリケーションの欄に必要スコアが記載されている。勉強法などについては、多くのブログなどの記事があるので、そちらに譲る。ただし、IELTSなどの教材は高いため、大学の図書館の利用(過去問集など)や、リスニングはYoutubeを利用、スピーキングはDMMなどのオンライン英会話を利用したとだけ、簡単に述べておく。

Fig1. LSEのOld Buildingの入り口にて

奨学金と京都大学大学院への進学の決意

 実用的な知識よりも、より根本的に社会のあり方を問えるような研究を行いたいという思いもあり、4年生の秋の時期には変な意地があったのであろうか、自分の研究を非常に「わかりにくく」説明して、奨学金へ応募したことで、多くの奨学金の獲得を逃した。LSEの合格を受け取った4年生の1月中旬(学部卒業まであと2ヶ月)でも奨学金は獲得できておらず、少し気がかりだった。その頃には、卒業論文を書き終え、研究のリテラシーが向上したのだろうか、その頃から、京都大学を含めた日本の大学で行われている研究が、面白いと再度認識できるようになった(それまではなぜ面白いのか、アカデミックな意味で理解できていなかったのだ)。そこで、京大の大学院にまずは進学して、LSEの留学までの期間を過ごそうと決意し、2月に無事大学院合格を果たした。

 そして、ちょうどその頃に、「トビタテ留学JAPAN」の応募があり、自分がその出願の資格があることを知る。条件として、日本の大学に所属し、帰国後にその大学を卒業することが条件だが、奨学金がなかったこともあり、なんとか出願してみようと考えた。

「トビタテ留学JAPAN」の応募で一番ネックになったのは、どのように自分の研究と実践活動(と呼ばれる実務的な課外活動)を関連付けるのか、そしてただでさえ忙しいと噂のLSEでの修士課程でどのようにして実践活動のための時間を捻出できるのかという問題だった(実際正規修士課程で同奨学金を利用されている方の多くは「理系」の方で、ラボでのインターンを実務活動に当てている印象があった)。たとえ計画書の上では上手くいきそうでも、現実としてどの程度ロンドンで実行できるかは不安だったからだ。しかしそれでもなんとか同奨学金に採用され、LSE留学の一部の資金を賄うことができた(残りは、家族からの支援)。そして英国留学では、研究+アルファを達成するための準備がはじまった。次回は、LSE留学時代とその後について書く。

Fig2. フロイト博物館前にて

次号へつづく。。。

森江建斗 (モリエ ケント)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)
MSc International Relations Theory
京都大学 人間環境学研究科修士課程

はじめに

 ニュースレターの読者の皆様、はじめまして。2018年9月から2019年9月までの約1年間、英国のLondon School of Economics and Political Science (以下LSE)にて、MSc International Relations Theoryという修士課程に在籍していました。そして、現在は京都大学人間環境学研究科修士課程にて2つ目の修士号の獲得を目指しています。このニュースレターでは、米国への大学院(修士・博士課程)進学をされた方の経験談が多いとは思いますが、いわゆる「文系」とされる分野でも、英国や日本での修士号を組み合わせて、研究の計画を立ててみることも可能なのだという参考になれば幸いです。また、こうした少し変わった経歴を踏むことになった経緯や意思決定の背景についても、簡単に述べられればと思います。

 本記事は、あくまで個人的な価値観・考え方を反映した記事です。また後から振り返り論理性や一貫性を「作り」きれいに見せるよりも、各時期に何を感じながら(多くは悩みながら)どのように意思決定を下していったのかが伝わるように少し叙述的に書きました。その点を踏まえて出願準備や海外留学中の合間にご笑覧頂ければ幸いです。

海外修士課程への挑戦を決まるまで

 英国の大学院進学に関心を抱いたのは、早く見積もれば大学2年生のオックスフォード大学でのサマースクールへの参加し、はじめて海外の教授から自らの専門分野を学んだことがきっかけであった。最終的に出願を決意したのは、4年生の春(4~5月)である。その頃私は就職するのか、それとも内定を断るのかという岐路に立たされていた。当時、オランダのユトレヒト大学に交換留学していたが、4月のロンドンキャリアフォーラムで運良く内定を頂き、就職か進学かという選択の淵に立つことになった。多方面で先輩・先生方に相談しながら、自分の進路について、1ヶ月(内定受諾か否かの返事の期限)悩んだ末に、大学院の進学を決め、今回の内定は断ることにした。

就職か海外大学院進学か

 就職か海外大学進学かを選ぶ際、決め手になった観点について、簡単に記しておきたい。最も大きかったのは、いま関心のあるテーマを深めたいという欲求であった。そしてせっかく修士課程に進むのなら、その分野で最先端の国で学んでみたいと、オックスフォード時代やユトレヒト留学を思い返しながら考えた(この時点では国内大学院への進学はあまり考えていなかったが、それは前述した海外での経験から、専門分野を海外で学んでみたいという気持ちが強かったためである)。多くの人が悩むであろう点は、一旦社会人になってから(海外)大学院に進学するか、そのまま学部卒業の後に(海外)大学院に進学するかであろう。この問いに対して、私は、前者のキャリアは可能なものの、それは実務的なキャリア(例えばビジネスにおけるキャリアアップや国際機関での勤務)を踏まえた内容の海外修士号の取得に限られがちではないかという考えを持つに至った。今現状で有している学術的な問いや視点を大切にしつつそれをそのまま深めていきたい場合、実際に社会経験を積み実務的な専門性を身に着けた上で学び直すという選択肢よりも、学部卒業後に直接大学院進学するほうが、当時の自分には魅力的に映ったのだ。

留学先の国選び

 次に、どこの国のどの大学に出願するかの判断軸について書きたい。まず、修士課程の制度は国によって大きく異なる。例えば、私の分野である国際関係学では、米国や大陸ヨーロッパ、アジアの大学の多くは2年間の修士課程となる一方、英国やオランダは1年の修士課程が主流で2年の修士課程は少数である。(2年のものの多くはResearch Masterで、1年制のコースワークに加え、米国で受けるとされるメソドロジー(量的分析と質的分析など)を受講する他、2年でゆっくりと修士論文を計画するもので、多くの場合はPhDへ進むための予備期間と見なされる)。その他にも、2大学での修士課程を2年(各大学1年)で完了させるDouble Degree Programも存在する。Double Degree Programは私が進学したLSEにも用意されていたためそちらにも大変関心があった。

 どの程度の海外大学院進学者の方々がどれほど広範な視野を以て論理的に意思決定を下すのかわからないが、私の場合は、それほど包括的にあらゆる選択肢を検討したわけではなかった。例えば、米国に関しては、出願のための準備(試験なども含む)が多く、卒業論文にも注力したかった自分にとって魅力的に映らなかった。 

 そうした消極的な背景に加えて、同じゼミの先輩が2年連続でLSEへ進学していたこと、また夏から本格的にはじめた卒業論文の研究が英国で盛んであることに気付いたことで、私の留学候補先は次第に英国に決まっていった。また、英国は米国と比べて必要な出願資料・要件が少なく、比較的出願に労力を割かれずに済むということも、その決断の後押しをした。

Fig1. バスの2階席より、通学風景

大学選びとコース選び

 そうして夏頃には出願を英国に絞り、オランダ留学より帰国した。次にどの大学へ出願するのかという問題に直面したが、ここは比較的スムーズに決定した。結論から言えば実際に出願したのはLSEのみで、他に「滑り止め」は何も受けなかった。それは、おそらく前述のオックスフォード大学のサマースクールの教授が修士課程でLSEを出ていたこと、身近な先輩・先生方からの影響、そして卒業論文で頻繁に引用していたGeorge Lawson先生やBarry Buzan先生(現在は名誉教授で教鞭は取っていない)がLSEで教鞭を取っていたことなどが、絡み合って、LSEしかないと思っていたのだ。LSEには、私の求めている知的土壌が存在したのだ。LSEに行けなければ英国留学しないと、半ば頑固に決めつけていた節があった。

 大学選びがスムーズに進んだ一方で、どのコースに出願するのかということに関しては大変悩んだ。悩み方としては、①やはり1年は修士課程として短いのではないか、(そこから派生して)②2年間のReserach MasterやDouble Degree Programに応募するのか、それとも③様子を見る形で一旦1年間のTaught Master(1年間でコースワークが中心となるがコース終了後には修論執筆もする「盛り沢山な」コース。英国では一般的)に出願するべきか、という悩みであった。一般に英国の1年間のTaught Masterに出願する場合、修士課程終了後にすぐに就職を目指すのであれば早い人であれば修士課程に入ったばかりの11月のボストンキャリアフォーラムを、遅い人でも3月のロンドンキャリアフォーラムを目指すと聞いていた。そもそも卒業後にすぐ就職するのかも当時決めておらず、自分の研究を深めたいのに就職活動に時間取られては意味がないだろうという贅沢な意地によって、英国の修士課程1年、単位取得によるTaught Masterの選択肢は4年生の秋頃には魅力的には映っていなかった。一方で、学びたいものがLSEにあることは明確であったものの、2年間海外で大学院生活を続けることの資金的な負担に関する不安もあった。

 結局、4年生の秋の段階では、LSEの1年コースとLSEが関係するDouble Degreeを比較検討し、もっとも求めている時間とはLSEでの学びであり、それを最も直接的に得られるのは「LSEでの1年ではないか」という結論に至り、シンプルにLSEの1年間のTaught Masterを選択し、その後の計画はまったく考えずにInternational RelationsとInternational Relations Theoryという2つのコースに出願した。2年間のResearch Masterの選択肢は、1年の間にシラバスや教授との繋がりを作れれば、満足するのではないかという考えに帰着した。その結論を導くに当たり、実際に6つほどの悩んでいた候補のコースを書き出し、卒業までの時間割を組み、可能であればシラバスを入手し、徹底的に具体性を引き出した上で結論をくだした。こうして行き当たりばったりな出願先の選定は4年生の10月下旬には決定し、あえて言うなら選択肢③へと落ち着いたのだ。

Fig2. LSE図書館の内部

次号、英国修士課程Taught Masterと日本の大学院の自家製「ダブル・マスター」ができるまで②(出願プロセス)につづく。。。

森江建斗 (モリエ ケント)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) MSc International Relations Theory
京都大学 人間環境学研究科修士課程