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ボストンに移り住んで早数ヶ月、訪問の度にMITのグレート・ドームに羨望を抱いていたことも、今ではもはや懐かしい。私はスイス・バーゼルにあるFriedrich Miescher Institute for Biomedical Research (FMI)でPh.D.を取得したのち、現在ここボストンにあるBroad Instituteでポスドクとして働いている。スイスのPh.D.コース、そしてFMIは知名度がそれほど高くないため、4年前にその概要について寄稿させていただいた (かけはし2015年2月号参照)。本記事では、その後のPh.D.取得からアメリカ移住に関連して、私が学んだことをシェアしたい。

その1. キャリアプランは自分の気持ちが第一

ディフェンスに向けて動き始めたのは、Ph.D.開始から5年経過して投稿論文がアクセプトに近づいた頃である。大学・専攻によってPh.D.取得のための要件は千差万別であり、FMIには明確な基準はない。単純に、ボス(を含むthesis committee)がOKを出せば、ディフェンスを行える。極端な話、論文が一報もなくとも、ボスが納得すれば終わりである。学生を囲い込むPrincipal Investigator (PI)もいるが、私の指導教官は完全に対照的で、3年経ったあたりで「もう十分やっただろう、卒業に向けて準備してもいいよ」とGoサインを出し始めた。しかし、当時私は自らが筆頭著者となる論文を一本も持っていなかった。Ph.D.時代の論文はキャリア形成において重要だろうし、何より論文の有無はアカデミアにおいてポスドク先を探す上でキーファクターになるだろう。卒業しても行き場のないのが目に見えていた。そのため、アカデミアでポスドクとして研究を続けるために、1.論文アクセプト→2.ポスドク先確定(と並行して博論提出)→3.Ph.D.ディフェンス、という流れに固執し、のらりくらりと雇用期間を延長してもらうことになった。結局その後2年ほどかけて、この流れに沿って何とか卒業まで漕ぎつけたわけである。

その2. 信念をもって足掻くこと

私はスクリーニングに基づいたプロジェクトを行っており、面白そうなタンパク質を解析対象として見つけてはいたものの、新規性のある発見には至っていなかった。Ph.D.の初めの3年間は、あれこれと試行錯誤を繰り返しており、ネガティブデータを山のように蓄積させていた。指導教官が認めているのであるから、さっさと卒業して、新しいラボで心機一転を図るのも一つの選択肢であったかもしれない。しかし、持ち前の諦めの悪い性格もあり、自分が手をつけたプロジェクトから逃げ出す気にはなれなかった。ノーベル賞受賞者のインタビュー記事などで、「この実験こそが発見の鍵だった」などとドラマティックに語っているのを目にするたびに、自分にとって次の実験こそが運命を変えるものだと思わずにはいられなかった。現実はそんなに華やかなものではなかったが、幸運にも、淡々とプロジェクトの流れが変わっていくのを私は実際に感じることになった。指導教官が卒業のGoサインを出し始めた頃、当時新しく流行り始めたコンセプトを取り入れると、私の解析している現象に理論的根拠が与えられそうだと気づいたのである。新しいコンセプトであるため、それを示すための種々の実験系がラボには存在せず、自分ひとりで立ち上げることになった。時間のかかるプロセスではあったが、その後2年ほどの実験はポジティブデータの連続で、無事論文はアクセプトに至った。生産的なPh.D.課程であったとは決して言えないものの、自分を信じて最後まで足掻くことの重要さを学んだ。

FMI最終日にラボメンバーと。前列中央が筆者。後列中央が指導教官。

その3. 何事にも全力を尽くすこと

ポスドク先を決めるにあたってはもちろん研究テーマを第一に考慮した。ヨーロッパ文化は十分に体験した感があったため、アメリカも視野に入れた。ポスドク時代をMITで過ごした指導教官曰く、「アメリカの一流大学のビックラボに行くならば新しい経験ができるだろうが、そうでなければヨーロッパの研究水準も負けてはいないし、むしろヨーロッパの方が適切にオーガナイズされている」とのことで、ボストン、ニューヨーク、カリフォルニアの一流大学に焦点を合わせて、興味のあるラボをいくつかピックアップした。とはいっても、分野を大きく変えようとしていたため、そう簡単にアプリケーションメールに返事がもらえるとは思えなかった。そこで、ポスドク期間の詳細な研究計画を書いた、かなーり長いカバーレターを作成し、意中のPIに送付した。詳細を書けば書くほど「柔軟性のなさそうな候補者だ」と捉えられる可能性もあるため、必ずしも良い戦略であるとは言えないだろう。どんなに準備したところで、いわゆる大御所のPIの元にはアプリケーションが山のように届くため、返事すらもらえないこともよくあると聞く。そんな中、提案した研究計画が、幸運にもボスの興味と完全に一致して、トントン拍子にことが進んだのが第一志望であった現在のラボである。ポスドク先探しは、運や縁といったコントロールできない要素に左右されるプロセスであることを実感した。
バーゼル大学でのPh.D.取得のプロセスは論文が1本でも出版されていれば、それほど厳しくはない。基本的に、出版された論文をそのままResultsのセクションとして挿入し、やや詳細なIntroductionとDiscussionを付け加えれば博士論文の完成である。聞くところによると、他のヨーロッパ諸国では、出版された論文の挿入は認められず、新たにResultsを再構成しなければならない場合もあるらしい。博士論文の提出後、1ヶ月程度でディフェンスの日取りを決めることができる。ディフェンスそれ自体も、口頭発表によるプレゼンテーションと、それに続くthesis committeeとのディスカッション(※博士論文のリバイスを求められることもある)という形式で穏やかなものであった。ディフェンス当日における受け答えが評価され、ラテン・オナーズとよばれる学位に付随する称号も与えられる。その後、博士論文の最終稿を大学に提出し、晴れてPh.D.となった。

Ph.D. hatと友人たちからのFarewellプレゼント。実用的なものが多く非常にありがたい。

その4. Science is tough.

学位留学を夢見ていた頃の私は、海外の有名研究所で働けばいい論文が出る、そういう研究所のPIは上手くラボ内で指揮をとってテーマが面白くなるよう誘導するものだ、と他人任せの甘えた考えを持っていたように思える。指導教官の口癖のひとつは“Science is tough.”で、自らが口を出して学生やポスドクに結果を与えてしまうと、彼らが科学の険しさに気付くことができなくなると繰り返し言っていた。研究分野が細分化され、求められる知識・技術が多様化されてきている今、1人で研究を行うのは非常に困難であり、適切な共同研究が求められるのは言うまでもない。その一方で、科学者は結局のところ孤独であり、自分の学説を打ち立てるには自分のみが頼りであるということを身をもって学んだ。Ph.D.課程に、こういった教育を受けられたことは私の研究者人生にとって大きな財産であり、指導教官に深く感謝したい。指導教官曰く、研究者として生きていくのに大切なのは頭の良さ、勤勉さ、そして運(!!!)の3つであるという。国も分野も変えての新しい挑戦は始まったばかりである。気持ちを新たにサイエンスを楽しんでいきたい。

齋藤諒(さいとうまこと)
Broad Institute of MIT and Harvard (Feng Zhang lab)
中島記念国際交流財団・元奨学生