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現在スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)で博士課程の学生をしている渡辺です。交換留学・正規留学について、アメリカ・イギリスなど英語圏の国の情報は多く入って入る中、ヨーロッパ留学についての情報が少ないと感じています。今回はスイスへの留学について少しでも知ってもらうために筆を取らせていただきました。

スイスには連邦工科大学が二つ、チューリッヒ(スイス連邦工科大学チューリッヒ校、ETH)とローザンヌにあります。日本ではあまり知られていない大学ですが、実は大学ランキングでは、ETHがドイツ圏、EPFLがフランス語圏でともに1位です。世界ランキングでも両校が上位20位に属しています。修士コースは学部によりますが、英語で受けられるところが多く、博士課程は英語が必須です。僕は博士課程からEPFLに所属しているためそれについて触れさせていただきます。

Fig1. 研究室の集合写真(筆者、最右)

大学入学について

EPFLに入学する際は、研究室ではなく応募したい学科に直接応募する必要があります。その際「statement of objectives」「3人分の推薦状」「CV」「成績表」などを用意する必要があります。応募の際に自分の所属したい研究室を複数選択することができます。学科内の委員会の中で審議がかけられ、それに通ったらEPFLに所属することができます。その際希望の研究室のポジションに空きがあり、教授が認めれば研究生活をはじめることができます。逆にいうと、希望研究室の教授がOKを出しても、学科内の委員会の許可が出ない限り、入学することはできません。学科内審議に合格後、希望研究室に空きがない場合もあります。ですが、一年間以内に研究室のポジションを見つけることができれば、晴れて研究生活をはじめることができます。また、研究室のポジションを見つけられていないが優秀であると判断された学生は、年に1度(または2度)ある「hiring day」に招待され、自身の研究について発表する機会を得ることができます。事前に連絡をした教授、または学生の研究テーマに興味のある教授が出席し、学生はその後インタビュー等をセッティングすることができます。経費はすべて大学が負担してくれます。基本的には修士を取り終えた(または修了見込みの)学生が博士課程に応募することが可能です。また、4年生の大学を終えた学部生でも、見込みがありと判断されれば、直接博士課程に応募することができます。(僕の所属する材料工学科では可能です。)

卒業までの一連のながれ

大学の入学金・授業料はありません。また、教授の取ってきた研究資金から給料が支払われることになります。EPFL内では給料が一律で決まっており、研究年数ごとに増えていきます(初年度:CHF51,900)。スイスは物価が高いことで有名ですが、この給料のおかけで、安心して研究に打ち込むことができます。博士学生は80%を研究に費やし、20%をティーチングアシスタント・公の場へのアウトリーチをすることを承諾する雇用契約書にサインすることになります。博士の学生は研究のほか、4年間でいくつかの授業(12単位)を受ける必要があり、これも卒業条件の一部となります。博士学生に向けての授業のため、修士学生にむけての授業に比べ、当然ながら難しいものになります。最初の一年の研究を終えると、Candidacyといわれる中間試験を受けることになります。アメリカでいうQualifying examに近く、自身がEPFL内で研究を続ける能力があることを示すための試験です。EPFLでは基本的に4年間かけて研究をおこないます。そのため1年間かけて得た研究成果に加え、今後3年間の研究計画をどのように行うかを、10数ページのレポートにまとめ、それを口頭でを教授陣の前で発表します。2度まで受けることが可能で、これに通れば、その後3年間の研究を続けることができます。また、毎年一度Annual reportの提出、(学科によっては)Candidacyの際の審査員の前での発表もする必要があります。4年間の研究後の論文提出、口頭試問、そしてPublic defenseと呼ばれる、誰もが参加できる公聴会をおえることで、博士を受理することができます。Public defenseの後はAperoとよばれる軽食・酒を伴うパーティーが開かれます。ここで、卒業をする人を研究室の仲間、友人、家族で祝い、学生生活を終えることとなります。

大学の入学金・授業料はありません。また、教授の取ってきた研究資金から給料が支払われることになります。EPFL内では給料が一律で決まっており、研究年数ごとに増えていきます(初年度:CHF 51,900)。スイスは物価が高いことで有名ですが、この給料のおかけで、安心して研究に打ち込むことができます。博士学生は80%を研究に、残りの20%をティーチングアシスタント・公の場へのアウトリーチに充てることを承諾する雇用契約書にサインすることになります。博士の学生は研究のほか、4年間でいくつかの授業(12ECT)を受ける必要があり、これも卒業条件の一部となります。博士学生に向けての授業のため、修士学生にむけての授業に比べ、当然ながら難しいものになります。最初の一年の研究を終えると、Candidacyといわれる中間試験を受けることになります。アメリカでいうQualifying examに近く、自身がEPFL内で研究を続ける能力があることを示すための試験です。EPFLでは基本的に4年間かけて研究をおこないます。そのため1年間かけて得た研究成果に加え、今後3年間の研究計画をどのように行うかを、10数ページのレポートにまとめ、それを口頭で教授陣の前で発表します。2度まで受けることが可能で、これに通れば、その後3年間の研究を続けることができます。また、毎年一度Annual reportの提出、更に学科によってはCandidacyの際の審査員の前での発表も必要になります。4年間の研究後の論文提出、口頭試問、そしてPublic defenseと呼ばれる、誰でも参加できる公聴会を行うことで、博士号を取得することができます。Public defenseの後はAperoとよばれる軽食・酒を伴うパーティーが開かれます。ここで、卒業をする人を研究室の仲間、友人、家族で祝い、学生生活を終えることとなります。

EPFLについて

世界ランキング上位にいる大学ということもあり、研究資金が潤沢です。世界中から著名な教授が集まるため、研究レベルが高く、それに伴い学生のレベルが高いです。最先端の研究のための研究装置がそろえられており、自由度の高い研究計画を練ることが可能です。また、自分は微細加工のためクリーンルームを利用します。大学が1400㎡の大きいクリーンルームを保有しているため、数多くの装置の中から最適なものを使うことができます。また、各装置に専門の技術者の方がいるため、実験サンプルの質を高いレベルに保つことが可能です。大学は国際色豊かで、現在博士課程に在学する学生はスイス出身者が20%、その他ヨーロッパ諸国が50%、それ以外の国30%の割合となっています。また、男女平等政策をおしすすめており全体の約30%が女子学生です。僕の所属する研究室にはドイツ、イタリア、スロバキア、中国、日本、イランから学生がきており、博士課程の学生は男4人、女3人の計7人です。また、教授はドイツ人で秘書は日本の方です。時間管理に優れている学生が多く、平日9時-18時まで働き、しっかりと研究成果を挙げています。これはヨーロッパのカルチャーでもあると思います。有給休暇の日数も25日と定められており、全日数の消化が義務付けられています。大学内では、他大学からの研究所によるセミナーなどが頻繁に行われており、最先端の研究について知る機会が必然的に多くなります。

研究以外の面について

大学内にはSatelliteと呼ばれるバーがあり、連日学生でにぎわっています。研究後に気軽に一杯のめるため、金曜の夜に行けば、誰かしらと遭遇することになります。誰かの誕生日や、Candidcacyの試験に合格した後などは、ここで祝うことが多いです。大学の中でPolygrillと呼ばれる無料のバーベキュー上があり、各自で肉や野菜を持ち寄ることで昼や夜にバーベキューを行うことができます。僕のCandidacy試験合格のお祝いはここでやりました。僕の研究室の教授の奥さんの研究室のつながりも多く、お互いに誘い合ってご飯を食べたり飲み会を催すことも多いです。

ローザンヌは自然に囲まれています。大学から徒歩10分でスイス最大の湖であるレマン湖にたどり着くことができます。夏はここで友達と泳ぎに行ったりビールを飲みにいくことが多いです。バーベーキュー上も近いです。また、山に囲まれているため、ローザンヌ駅から電車で30分-1時間くらいの距離でハイキングに出かけることもできます。冬にはスノースポーツも盛んになります。一時間でスキー場につけてしまうのは魅力的で、週末に日帰りでのスキーを気軽に楽しめます。

Fig2. レマン湖沿いで撮影。ワインテイスティングにて。

いかがでしたでしょうか?自然に囲まれた土地で、世界中の国々からきた研究者と仲良くなり、最先端の研究ができることはとても魅力的です。メリハリのある研究姿勢は、自分が短時間で最高の結果をだす訓練の場になっています。留学する場所を検討中の方はスイスの大学も候補に入れてみてはいかがでしょうか?

渡辺翔 (わたなべしょう)
スイス連邦工科大学
ローザンヌ校
材料工学科

ボストンに移り住んで早数ヶ月、訪問の度にMITのグレート・ドームに羨望を抱いていたことも、今ではもはや懐かしい。私はスイス・バーゼルにあるFriedrich Miescher Institute for Biomedical Research (FMI)でPh.D.を取得したのち、現在ここボストンにあるBroad Instituteでポスドクとして働いている。スイスのPh.D.コース、そしてFMIは知名度がそれほど高くないため、4年前にその概要について寄稿させていただいた (かけはし2015年2月号参照)。本記事では、その後のPh.D.取得からアメリカ移住に関連して、私が学んだことをシェアしたい。

その1. キャリアプランは自分の気持ちが第一

ディフェンスに向けて動き始めたのは、Ph.D.開始から5年経過して投稿論文がアクセプトに近づいた頃である。大学・専攻によってPh.D.取得のための要件は千差万別であり、FMIには明確な基準はない。単純に、ボス(を含むthesis committee)がOKを出せば、ディフェンスを行える。極端な話、論文が一報もなくとも、ボスが納得すれば終わりである。学生を囲い込むPrincipal Investigator (PI)もいるが、私の指導教官は完全に対照的で、3年経ったあたりで「もう十分やっただろう、卒業に向けて準備してもいいよ」とGoサインを出し始めた。しかし、当時私は自らが筆頭著者となる論文を一本も持っていなかった。Ph.D.時代の論文はキャリア形成において重要だろうし、何より論文の有無はアカデミアにおいてポスドク先を探す上でキーファクターになるだろう。卒業しても行き場のないのが目に見えていた。そのため、アカデミアでポスドクとして研究を続けるために、1.論文アクセプト→2.ポスドク先確定(と並行して博論提出)→3.Ph.D.ディフェンス、という流れに固執し、のらりくらりと雇用期間を延長してもらうことになった。結局その後2年ほどかけて、この流れに沿って何とか卒業まで漕ぎつけたわけである。

その2. 信念をもって足掻くこと

私はスクリーニングに基づいたプロジェクトを行っており、面白そうなタンパク質を解析対象として見つけてはいたものの、新規性のある発見には至っていなかった。Ph.D.の初めの3年間は、あれこれと試行錯誤を繰り返しており、ネガティブデータを山のように蓄積させていた。指導教官が認めているのであるから、さっさと卒業して、新しいラボで心機一転を図るのも一つの選択肢であったかもしれない。しかし、持ち前の諦めの悪い性格もあり、自分が手をつけたプロジェクトから逃げ出す気にはなれなかった。ノーベル賞受賞者のインタビュー記事などで、「この実験こそが発見の鍵だった」などとドラマティックに語っているのを目にするたびに、自分にとって次の実験こそが運命を変えるものだと思わずにはいられなかった。現実はそんなに華やかなものではなかったが、幸運にも、淡々とプロジェクトの流れが変わっていくのを私は実際に感じることになった。指導教官が卒業のGoサインを出し始めた頃、当時新しく流行り始めたコンセプトを取り入れると、私の解析している現象に理論的根拠が与えられそうだと気づいたのである。新しいコンセプトであるため、それを示すための種々の実験系がラボには存在せず、自分ひとりで立ち上げることになった。時間のかかるプロセスではあったが、その後2年ほどの実験はポジティブデータの連続で、無事論文はアクセプトに至った。生産的なPh.D.課程であったとは決して言えないものの、自分を信じて最後まで足掻くことの重要さを学んだ。

FMI最終日にラボメンバーと。前列中央が筆者。後列中央が指導教官。

その3. 何事にも全力を尽くすこと

ポスドク先を決めるにあたってはもちろん研究テーマを第一に考慮した。ヨーロッパ文化は十分に体験した感があったため、アメリカも視野に入れた。ポスドク時代をMITで過ごした指導教官曰く、「アメリカの一流大学のビックラボに行くならば新しい経験ができるだろうが、そうでなければヨーロッパの研究水準も負けてはいないし、むしろヨーロッパの方が適切にオーガナイズされている」とのことで、ボストン、ニューヨーク、カリフォルニアの一流大学に焦点を合わせて、興味のあるラボをいくつかピックアップした。とはいっても、分野を大きく変えようとしていたため、そう簡単にアプリケーションメールに返事がもらえるとは思えなかった。そこで、ポスドク期間の詳細な研究計画を書いた、かなーり長いカバーレターを作成し、意中のPIに送付した。詳細を書けば書くほど「柔軟性のなさそうな候補者だ」と捉えられる可能性もあるため、必ずしも良い戦略であるとは言えないだろう。どんなに準備したところで、いわゆる大御所のPIの元にはアプリケーションが山のように届くため、返事すらもらえないこともよくあると聞く。そんな中、提案した研究計画が、幸運にもボスの興味と完全に一致して、トントン拍子にことが進んだのが第一志望であった現在のラボである。ポスドク先探しは、運や縁といったコントロールできない要素に左右されるプロセスであることを実感した。
バーゼル大学でのPh.D.取得のプロセスは論文が1本でも出版されていれば、それほど厳しくはない。基本的に、出版された論文をそのままResultsのセクションとして挿入し、やや詳細なIntroductionとDiscussionを付け加えれば博士論文の完成である。聞くところによると、他のヨーロッパ諸国では、出版された論文の挿入は認められず、新たにResultsを再構成しなければならない場合もあるらしい。博士論文の提出後、1ヶ月程度でディフェンスの日取りを決めることができる。ディフェンスそれ自体も、口頭発表によるプレゼンテーションと、それに続くthesis committeeとのディスカッション(※博士論文のリバイスを求められることもある)という形式で穏やかなものであった。ディフェンス当日における受け答えが評価され、ラテン・オナーズとよばれる学位に付随する称号も与えられる。その後、博士論文の最終稿を大学に提出し、晴れてPh.D.となった。

Ph.D. hatと友人たちからのFarewellプレゼント。実用的なものが多く非常にありがたい。

その4. Science is tough.

学位留学を夢見ていた頃の私は、海外の有名研究所で働けばいい論文が出る、そういう研究所のPIは上手くラボ内で指揮をとってテーマが面白くなるよう誘導するものだ、と他人任せの甘えた考えを持っていたように思える。指導教官の口癖のひとつは“Science is tough.”で、自らが口を出して学生やポスドクに結果を与えてしまうと、彼らが科学の険しさに気付くことができなくなると繰り返し言っていた。研究分野が細分化され、求められる知識・技術が多様化されてきている今、1人で研究を行うのは非常に困難であり、適切な共同研究が求められるのは言うまでもない。その一方で、科学者は結局のところ孤独であり、自分の学説を打ち立てるには自分のみが頼りであるということを身をもって学んだ。Ph.D.課程に、こういった教育を受けられたことは私の研究者人生にとって大きな財産であり、指導教官に深く感謝したい。指導教官曰く、研究者として生きていくのに大切なのは頭の良さ、勤勉さ、そして運(!!!)の3つであるという。国も分野も変えての新しい挑戦は始まったばかりである。気持ちを新たにサイエンスを楽しんでいきたい。

齋藤諒(さいとうまこと)
Broad Institute of MIT and Harvard (Feng Zhang lab)
中島記念国際交流財団・元奨学生