「君は暗闇であがき続ける覚悟はあるのか?」矢澤真幸さん

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矢澤真幸さん
マウントサイナイ医科大学 アソシエイトプロフェッサー

プロフィール:
2007年京都大学で博士(薬学)取得後にスタンフォード大学で5年間のポスドク修行。2013年からコロンビア大学で独立。コロナ禍の2020−2022年、薬学系大学院プログラム長(代行)を担う。2023年7月にマウントサイナイ医科大学へ移籍。現在、薬学科・アソシエイトプロフェッサー。専門は電気生理学、細胞イメージングや創薬など。ラボは自転車操業。セントラルパークを横断する徒歩通勤と子供の送り迎えのハドソン川沿で自転車を漕いでいる間にもっぱら研究のアイデアを練る日々。先日の大阪出張の際にホテルの部屋でお風呂に入っている時に新しいプロジェクトのアイデアが浮かんできたため、今は毎日そのプロジェクトに熱狂中。

マウントサイナイ医科大学アソシエイトプロフェッサーの矢澤です。大学院留学断念組。ポスドクから米国留学し、現職に至る。前職のコロンビア大学メディカルセンターでは、薬学系大学院プログラムディレクターとして大学院入試を仕切り、大学院生さんたちの様子を伺いながらサポートをしてきた。最近、年もとって想うことも増えたのでこの機会にまとめて書いてみよう。これからの大学院に進む君たちに何かのヒントになれば幸いだ。

☆『博士号・PhDは運転免許』

Thesis committee meetingなどで繰り返し学生さんたちに伝えるメッセージ。 大学院の間には「読み」「書き」「聴き」「話す」の4点と実験といった『技』の向上が必須課題であり、それにプラス『体力』と『モチベーション』の向上・維持も重要だ。大学院で博士号取得後のキャリアは様々だが、どの道を進むにしても上記の『心技体』は役に立つ。学位を取ってしまえば何てことないと思い返す人もいるかもしれないが、その道程は平坦であることはほとんどなく皆それぞれの苦行・苦労話がある。学生さんたちと指導教員たちそれぞれの思惑も様々だが、F1やラリーのトップドライバーを育成したいのが我々、PIたちの本音だ。しかしながら、実際は安全指導・技術向上のための鍛錬に明け暮れて、自分たちのラボを潰してしまわないよう堅実にプロジェクトを学生さんたちと安全運転していくのが常である。学位取得後はアカデミアで独立し研究で活躍してもらいたいのが一番だと皆、教員同士でよく話をするが、それが狭き門で運不運によることも自分たちは重々承知のため、卒業生たちがその後どんなキャリアに就こうともやっていけるように育てたいと思っている。

☆ 師匠を超えろ

このメッセージもまたthesis committee meetingなどで伝えることが多い。学位を取る頃にはその研究トピックでは指導教員、つまり師匠を凌駕し、卒業して離れる時にその師匠がこれからどうしようかと困ってしまうくらいになれ、という意味である。スポーツの選手と監督の関係というより、将棋の師弟関係に近いのかもしれない。晴れて学位を取った後は、同じ分野で凌ぎを削る競争相手になることも多いであろう。だからこそ卒業間近にはボスに意見することも増え、「ボスのアイデアではもうダメだ・物足りない」「こんなラボでもう学ぶことはない」と嘯くくらいでないといけないのである。向上心・独立心は上記の『心技体の心』の重要な構成要素となる。自分のthesis labを乗っ取る・牛耳るくらいの心意気で良いと思う。師匠にいつまで頼るようではダメだ。

☆ 論文公開は何よりもの薬

論文を出すと、俄然fellowshipが取り易くなるし、その後の就職にも有利になるし、 周りの態度・自分への扱いも変わってくる。何よりも論文公開という成功体験から得られる自信をきっかけにさらに果敢に挑戦して成長することもできるであろう。論文を書くこと・投稿することはまだスタートラインに立っただけのことで、ピアレビューや追加実験という厳しい障害を乗り越えてこそゴールにたどりついた達成感もひとしおである。未来永劫、公開された論文が消失することはない仕組みだからこそ責任も大きい。こういった産みの苦しみから得られた充実感が大学院研究の醍醐味だとつくづく思う。

☆他人の論文を読んで満足するな

抄読会などで論文を読み込むとその全てが解った気になり、自分でもできる気がしてしまうから不思議だ。したり顔で「あの論文、読んだ?」と解説をし、さらにはプロジェクトにアドバイスをしてくる同僚が君の周りにもいるかもしれない。優秀そうな振る舞いに見えることもあるかもしれないが、そんな彼らは本当にどこまでその論文を読み込みその研究分野や筆者たちの考えを理解できているかは常々疑問だ。実際、あれこれ言う割には考え過ぎているのか自分のプロジェクトでは手が動かなかったり、他人のコピーの組み合わせみたいな発想しかアイデアが出てこない様子である。ある分野のレビュー論文を書くのには長けているかもしれないが、独創的な原著論文には縁がない。そういう彼らには、「球場の観客席からヤジを飛ばすのではなく、フィールドに降りて一緒にプレイしてみろ」と言おう。論文読みに精を出すくらいであれば、学外から招待された演者のセミナーにもっと積極的に参加して、最前列でメモを取り、質疑応答で重要なポイントをフォローしたり演者にアドバイスし、さらにはセミナー後のランチなどにも参加してその演者の人となりをよく知ることの方が、論文を読むことよりも遥かに有益だと感じている。親しくなれば、もっと彼らの論文の背景やサイドストーリー、そして将来のプランも教えてもらえることになるであろう。そこからその演者のグループからの将来の論文への読み込み具合も変わってくるはずだ。そういった経験から得られた知見や付き合い・人脈はかけがえのない財産になる。自分の身体の血となり肉となり、学んだことをうっかり忘れることもなくなる。「他人」の論文から「知人」の論文にしなくてはいけない。現在のような時代だからこそ、face-to-faceから学び、膝と膝をすり合わせ、周りに溢れる過多な情報からの適切な取捨選択をし、自分の記憶にしっかり焼き付けるというのは必要な『技』になってくる。ちょっと読んで調べてわかった気になってはいけない。

☆ 暗闇を恐れることはない

自分の現在位置、鍛錬の成果の指標がない。今回、東京オリンピックの競技シーンをNBC Sportsのチャネルで観ながら思う…スポーツはルールが分かり易くて勝ち負けが付けられて良いなと。点数・順位が与えられる。私たちの主戦場の基礎研究では、そう言った明確な相対的評価や勝ち負けが少ない。例外は同じテーマを狙いどちらが先かといった先着競争も起こり得るが、近年は多種多様の研究が展開しているため狙う頂が同一になることも少ないようで、最近の研究ではこういった先着を狙うケースは減り、奇を狙うものが増えてきているように思う。論文数や引用数、獲得グラント総額などでは測れない「無形の力」のような漠然としたもので研究者としての自己評価をしていく必要がある。スポーツの場合、走ってタイムを測れば自分が短距離に弱いのか、中長距離にもっと可能性があるのか把握できるであろうし、長所・短所を整理してその後のトレーニングの成果をタイムの短縮として実感できる。今後の課題も見つけやすい。一方、研究分野ではそうはいかない。これまで優秀な成績を収めてきた学生さんたちがここで戸惑うのである。ビジネスのような収益・金額のような数字が結果として弾き出されてくることもない。大学院研究での成績評価・相対的評価が明確でないため、自分の立ち位置やアプローチの正否、自身の成長が分かりづらい。自分は他とどうなのか不安になるのであろう。これまで相対的評価を指標に様々な試練・試験を乗り越えてきた彼らにとって、この状況は暗闇のように映るのではないか。手応えもわからず、途方に暮れたり、こんなはずでなかったと迷うこともあるだろう。大学院のラボで取り組んでいるテーマ自体が間違っているかもしれない。ボスと考えた仮説がそもそも外れていることもある。見当違いのことに1年以上も費やし、何をやっていたのだと愕然とすることもあるはずだ。自分に近い分野の動向も気になるであろう。トップ科学雑誌のNatureScienceは毎週続々と発行され、その筆頭著者として大学院生やポスドク研究者の名前が連なる。焦るだろうが、周りを見渡せばそういった一流誌に論文を出したことある研究者はゴロゴロしている。では、その彼らは綺麗に舗装され照明も当たる高速道路をかっ飛ばして運転していただけなのだろうか。そんなはずはない。車がひっくり返って故障して乗り換えていたかもしれない。後ろから煽られて手が震えながらハンドルを握っていたのかもしれない。ゴールしたと思ったら現れた大きな山脈を目の前に恐れ慄き車から降りようとしているかもしれない。不安な暗闇でもがいているのは君だけではない。皆が同じような状況にあり、いつしか光が射すのを願いながらあがき続けている。

☆ 他人の評価が正しい

編集者と査読者3人、計4名の意見の結果、論文が不採択になった場合、彼らにとやかく不満をぶつけるべきではないし、愚痴り続けてどうなることもない。面白さや新規性、信頼できる結果・解釈があれば満場一致で採択されるわけで、ダメだったらとにかくその論文が彼らに響かなかったことなのだ。自信作だと思っても彼らの琴線に触れなければ、自己満足と言われても仕方がない。努力をしてきたとしても必ず報われるわけではないのだ。もちろん、査読者との競合関係や他雑誌の動向などその他の要素が複雑に絡まりあい論文の受理まで困難を極めることもあるし失敗する可能性もある。運よく同じテーマの論文が投稿されていたため追加実験もスキップして一緒にBack-to-backですぐに公開してもらうようなこともある。もちろんどの雑誌に公開されたかで優劣をつけてしまいがちだが、仮にScienceに論文を公開できた場合で公開後に多くの読者・同じ分野の研究者に「この内容でScienceかよ…」となってしまうと嫉妬も加えて信用・信頼がガタ落ちになり評判が悪くなるケースも起こり得る。やはり目指したいのは、論文を読んだりセミナーを聴いてくれた研究者たちがおべっかなしに駆け寄ってエキサイトしているような研究成果を挙げたいものだ。圧倒的な努力をしても報われるのはほんの少しであろう。それでも、自分が積み上げてきたものをわかってくれる人たちはいるはずだ。日々の取り組みには様々な自己評価と自己管理を繰り返しながらの自身の切磋琢磨が必要である一方、成果についての評価は他の人たちに委ねるべきであろう。

☆ 自分だけが「ハマる」

熱中する、熱狂する。寝食は『体』のためにも忘れてはいけないが、自分がハマらなくてどうするのか。そもそも横並びでは始まらないし、進まない。周りに同調する必要もない。面白い、ワクワクするから研究を続けるものであろう。仮に、周りに不器用だとか効率が悪いと言われたとしても、自分を信じて集中することで現状が打破できることは多々ある。周りのことには鈍感で良い。これまで大衆の考え・判断、常識が間違っていたこともあるだろうし、はぐれ者たちがブレイクスルーを起こしてきたことも事実だ。博士課程で常識的な研究の運転方法を習得したら、それまでと違った冒険をしても良いだろう。将棋の世界では、定石からはあり得ない一手・発想から新しい型・潮流ができることもあるという。君たちは子供の頃から勤勉で近所でも評判も良く、周りにも気遣いもして成長してきたのかもしれない。しかしながら、大学院研究は小中高、大学という教育機関とは異なる世界である。何が正解かも分からなく、非常識が常識を勝ることもあるし、なんでこんなクレイジーな人たちがいるのか憤りを感じることもあるだろう。周りがとやかく言おうが、自分がハマっていればそれで十分。もし君たちが優等生でやってきたと自他共に認めるのであれば、一度下記のような記事や書籍を読んでみて、大学院や研究の世界で必要になるような能力、自分が取り組んでいきたい目標やスタイルを今一度考えてみるのは如何だろうか?

1)スタンフォードでポスドクの時に読んだ学内記事:

https://www.gsb.stanford.edu/insights/why-nice-guys-dont-always-make-it-top

2)大学院入学後に、高校の恩師が勧めてくれた書籍:

『考える力、やり抜く力 私の方法』(中村修二著、三笠書房)

先が見えない暗闇に置かれてもできることはあるはずだ。手を使い、耳を使い、脚を使い、這いつくばって最後まで何かできることがないかあがき続ける。光がふっと射す時を逃さないよう準備し構え続ける必要がある。答えがあるのかわからない。自分の取り組みが本当に正しいのかわからず不安にもなる。それでも試行錯誤を続け自分なりの道を進む。その道は、これまでの学校であった既成のコースではない。誰も案内してくれない。自分で未踏の地への道を切り開き自分を鼓舞し続けてドライブしていくしかないのだ。他の人の道を後から辿っても面白くはない。

大学院研究は皆が思うような華やかな世界ではないであろう。ごく一部のパイオニアがメディアに取り出たされそのブレイクスルーに世の中が熱狂する時もある。しかしながら、日々の研究者の営みは地味で不安との闘いだ。だからこそ、完成できた時、達成できた時、発表できた時の喜びは格別なものとなる。誰かのお膳立ては期待してはならない。君たちにその覚悟はあるか?

ハドソン川縁のベンチに座りながら研究の打開策を考える日々

遠く自由の女神が見える